第4話
彼女は風になびく髪を、指先で無造作に後ろへ流した。その姿を見つめ、僕はぽつりと呟く。
「……どうしたら、君みたいな考えになれるだろう」
「訓練するんだよ」
「訓練?」
宮野さんは、僕を見て微笑んだ。
「私、いつもここにいるって言ったでしょ。ここにいるとね、たまにいるんだ。私が自殺しようとしてると思って、慌てて止めに来るひと。そういうひとたちと、よくちょっとした会話をするの。それで、そのひとからなにか新しい考え方をもらえたら今日は生きる。そう、決めてる。毎日」
生き方を学んでいるのだ、と宮野さんは言う。
「……じゃあ、今日は?」
恐る恐る訊ねると、宮野さんは海に目を向け、
「生きてみようかなって思ったよ。だって、私が死んだら君も死ぬでしょ。それはいやだからね」
「じぶんは死のうとしてるのに、僕が死ぬのはいやなの?」
「いやだよ。当たり前でしょ。君もそうだから、私に声をかけてくれたんじゃないの?」
言われて、ハッとする。
「……たしかに。僕もいやだな」
その瞬間、ものすごくほっとしているじぶんがいた。そんなじぶんに驚いて、思わず笑ってしまった。
「えっ、なになに。なんで笑うの?」
笑っていると、宮野さんが不思議な顔をして僕を見てきた。
「だって……」
じぶんも死ぬ気だったくせに、ひとが死ぬことに対してはものすごく怖くなっているなんて。
「僕たちってまるきり同じじゃないけど、ちょっとだけ似た感覚を持ってるのかな」
「そうだね。私たちはきっと少し似てる。でもきっと、まったく同じ気持ちにはなれない。だって……」
「……他人だから?」
「……うん。でも、他人だったから助けられた。家族に殺されそうになってた私を、他人の君が助けてくれた」
ふとその顔を見る。彼女は、遠い海の向こうを見つめたまま呟いた。
「今でも毎日思い出すの。農薬のあの苦い感じ……。息ができなくなって、苦しくて苦しくて、目の前が真っ暗になっていくあの感じ。……もうずっと前の、子供の頃の話なのに……忘れようとしても、どうしても無理で」
宮野さんは、自身の手のひらをじっと見つめた。
「お母さん、私とそこまで体格変わんないの。でもあの頃私、絶対に勝てる気がしなかった。不良とかユーレイなんかより、お母さんのほうがずっと怖かった。……憎くて、殺したくてたまらないのに、学校でいじめられると、お母さんに頭を撫でてほしくなるの。……慰めてほしくなるの。家にいて楽しかった記憶なんて少しもないのに……それなのに私、家を居場所だと思ってるんだよ」
おかしいでしょ、と笑いながら、宮野さんは目元を無造作に拭った。
「……でも、お母さんもそうだったのかも」
「え?」
「お母さんにとっては、私こそが人生を台無しにした元凶。お母さんにとって、私はいじめっ子。お母さんをいじめてる存在だったんだと……」
「そんなことない! 絶対に、そんなことない! 傷付いてきたのはあなただ! それなのに……あなたがそんなふうに思う必要なんて、絶対にない……!」
思わず立ち上がって否定する。
健気が過ぎる彼女に悔しさを感じて、奥歯を噛み締める。
はっきりと強い口調で言う僕を見て、宮野さんは一瞬目を丸くしてから、からりと笑った。
「……ありがとう。……ふふ、君はすごいね。さっきまで生きる理由が分からないって言ってたのに、私を生かしてくれた。君はじゅうぶん、よく生きてるよ」
――よく生きてる。
ずっと、上手く生きられないことを悩んでいたのに?
日常に息苦しさを感じていたのに?
彼女の目には、僕はよく生きているように映ったらしい。
「……もしそう見えてるなら、それはあなたのおかげだと思う。あなたが、僕に新しい考え方をくれたから」
素直な気持ちを告げると、宮野さんは嬉しそうに笑った。
「私のおかげか。……悪くないな」
にこにことする彼女と目が合い、僕は恥ずかしくなって咄嗟に目を逸らした。
「私たちは間違える。悪いことを悪いことだと知りながらも、そうせずにはいられなかったりする。嘘をついたり、だれかを傷付けたり……。そのことで、返ってじぶんが傷付いたりして……そうして、成長していくんだ」
「……じゃあ、間違えてもいいのかな」
僕の頼りない問いに、宮野さんは力強く頷いた。
「ぜんぜんいい。だって、それが生きるってことだよ」
「……うん」
「いつか本物の死が君の目の前に来たときに死にたくないって思えたら、それがよく生きた証だ」
「……そうだね」
崖下を見る。
目眩がした。急に水面が恐ろしく感じられて、咄嗟に少し後退る。
「……僕、ここ、飛び降りようとしてた……?」
「うん」
「あなたも……」
「うん、してた。怖くなった?」
響く轟音に足が竦む。ものすごく恐ろしく感じる。
どうして?
さっきまで、ぜんぜん……。
「ここに来るには、かなりの覚悟がないとムリだよ。君は、さっきまでその覚悟があったかもしれないけど、今はもうなくなった。……なんでかな」
彼女のそのセリフは、まるで自分自身に問いかけるようだった。
――そんなの決まってる。
「あなたのせいだ……あなたが、僕の存在を認めてくれたから……死ぬのが、恐くなった」
「じゃあ私は、君の救世主になれたんだ。……そっか、嬉しいな」
嬉しい、と言う彼女は本当に嬉しそうで。なにかを噛み締めているようだった。
「ひとの心って不思議だ。死んでも、何度も生き返る」
そう言ってころころと笑う彼女は、とても美しかった。