第1話
ざざん。
波の音に顔を上げる。周囲は真っ暗。目の前には微かな月明かりに照らされた大海原が広がっている。
冷えた風が僕を包む。
岸壁に立ち、ぼんやりと波の音を聞いていると、ふと視界に白いなにかが映った。
――ひと?
少し離れた岸壁の際に、白いワンピース姿の女性が立っていた。女性のワンピースが、漆黒の世界にはためく。
「え?」
嘘だろ、と呟く。
女性は今にも海へ身を投げ出そうとしているように見えた。考えるより先に、身体と口が動く。
「あっ……ま、待って!」
女性が振り向く。魚の尾びれのようなワンピースと、長い髪が風に揺れる。
月明かりが、彼女の輪郭を淡くぼかしていた。涼やかで、どことなく浮世離れした美しい女性だった。
「……あ、あの。そんなところでなにしてるんですか」
恐る恐る訊ねると、女性は真顔のまま言った。
「……見て分からない? 死のうとしてるとこ」
淡々とした口調で返され、僕は言葉を詰まらせた。
「君は?」
「え?」
「名前」
続けざまに訊かれ、僕は困惑しながらも、答える。
「……安堂、大地です」
「ふぅん。私は朝陽。……宮野朝陽」
「……どうも」
どう反応したらいいのか分からなくなって、とりあえず小さく会釈する。
女性――宮野さんが、身体をこちらへ向けた。
「……ねぇ、大地くん。少し私と話さない?」
「えっ?」
「この夜が明けるまでだけでもいいから、相手してよ」
今まさに死のうとしていたひとが、僕を見つめて言う。呆気に取られて、僕は言葉の意味を理解しないまま頷いた。
宮野さんは僕が頷くと、小さく微笑んで歩み寄ってきた。
ふと、なにか違和感を感じて、彼女の足元を見る。
「…………」
彼女は裸足だった。岩肌を踏み締める足は青白く、辺りに響く波音のせいか足音はまったくしない。
ひたひた、と静かに肉を着けるような歩き方だった。
「どうしたの?」
「……いや」
すぐそばまで来た彼女の背丈は、僕とそれほど変わらなかった。
年齢も、おそらく僕とそう変わらなそうだ。けれど、彼女は驚くほどガリガリに痩せていた。
白いワンピースはノースリーブ型で、夜空の下にむき出しの手足は枯れ枝のように細い。
痩せているね、と言うにははばかられるくらいに。
じっと彼女を見る。
……さっき、彼女は夜が明けるまで話をしようと言ったけれど。
家に帰らなくていいのだろうか。親は心配しないのだろうか。そんな疑問が脳裏を掠めるけれど、それらの言葉が口をついて出ることはなかった。なんとなく、僕と同じ匂いがしたから。
宮野さんは僕のとなりまでやってくると地べたに腰を下ろした。
じっと見上げられているのも居心地が悪くて、僕も座り込む。
ごつごつした岩肌は痛くて、座り心地は最悪だったけれど、となりに座る宮野さんが涼しい顔をしているものだから僕も我慢する。
「私ね、いじめられてたの」
不意に、彼女が言った。
「私が死のうとしてる理由。気になってたでしょ?」
たしかに気にはなっていたが。
ためらいつつ、訊ねる。
「……学校でですか?」
すると、彼女は首を横に振った。
「ううん、家で」
「家?」
目を瞠る。
「お母さんね、私のことが嫌いなんだって」
「……え……」
「私のことを殴りながら、いつも言うんだ。どうしてそんなにブスなの。あんたなんか私の子じゃない、生きている価値ない……って。お母さんね、私が家にいると、私を殴るか私の存在を忘れてるか、そのどっちかしかないの。目が合うと殴りつけてくるし、熱湯をかけられたり、農薬がかかったご飯を食べさせられたこともあったな。あのときはさすがに死ぬかと思ったよ、はは」
衝撃のあまり言葉を失くしていると、宮野さんがくるりと振り向く。
「ねぇ、思ったことない?」
宮野さんが、おもむろに問いかけてくる。
「ひとって、なんで生きるんだろう。……不思議だと思わない? だって私たち、どうせ死ぬのよ。それなのに、なんで生まれてくるんだろうって」
「なんでって……」
口を引き結ぶ。
たしかに、僕たちはなんで死ぬのに生まれるんだろう。
なんのために、生きるんだろう。
彼女の言うとおり、どうせ死ぬのに。
僕たちが生まれてくることに、意味はあるのだろうか。
この命に、価値は、意味は、あるのだろうか。
終わりのない迷路に迷い込みそうになった。
「なんてね」
ははっと乾いた笑みを零す彼女に、僕はなにも言葉を返せない。
「……ね、君は? どうして死のうとしてたの」
ハッとして顔を上げると、彼女は僕をまっすぐに見つめていた。
「……僕は」
言いかけて、唇を引き結ぶ。
壮絶な経験をしている彼女を前に、なにを言えるだろう。
「……いい。言わない」
言えることなんて、なにもない。
「どうして?」
「……だって、あなたの環境に比べたら、僕はぜんぜん不幸なんかじゃないから」
小さく答えると、彼女はきょとんとした顔をして首を傾げた。
「なんで私と比べるの?」
「え? えと、それは……」
戸惑いがちに見返すと、彼女は目を伏せ、言った。
「君は今、私の日常を想像して、私の苦しみを想像したのかな。その上で君は、私の方が辛い日常を送ってるって判断した?」
「…………」
ぐうの音も出ないほど、そのとおりだ。
「でも、君が考えたのと同じように私も思ってるとは限らないでしょ。たとえ君が私と似たような境遇に遭ったとしても、君が感じた苦しみと私が感じた苦しみが同じとは限らない。私の苦しみは私だけのもの。簡単に判断されたくない」
「……そう、ですよね。すみません」
しゅんとして謝ると、宮野さんはくすりと笑って首を振った。
「謝らないで。べつに怒ってない。私が言いたかったのは、それは君にとっても同じってこと」
彼女の言葉の意味が分からず、ぱちぱちと瞬きをする。
「僕にとっても……?」
「そ。君の苦しみは君しか経験してないんだから、私の苦しみと比べることなんてできない」
まっすぐな言葉に、僕は目を泳がせた。
「……それは、そうかもしれないけど」
宮野さんは、驚くほど優しい眼差しで僕を見ていた。
「君はなにに怯えてるの?」
不思議なひとだなぁ、と思う。歳はそう変わらないはずなのに、月明かりに照らされた横顔は、まるで母親のような慈愛に満ちている。
「……僕は」