アンチテーゼ・ジャンクガール(3)
思えば、先月から美琴の様子は少し変だったように思う。
サークルに顔を出す頻度が減り、授業にもあまり出ていなかったようで、テスト期間中は何度か助けてやったことも記憶に新しい。
……いや、それは前からだから通常運転なのだが。
なんというか、会話していても心ここに在らずといった感じで、どこか上の空だった。
こいつのことだし、普段からぼけっとしていることはあるから、さほど気にはしていなかったが、目の前の美琴の表情があの日のものと重なっているのを見るに、やはり彼女の相談したい話とやらは前々から胸の内で燻っていたものなのだろうと確信する。
「結論から申し上げるとね、お誘いを受けたんだ。一週間くらい前に」
「お誘い?」
「別にアマチュアの話だからそう表現したけど、もっとわかりやすく言うとスカウト、だね」
「そうか。勿体ぶって切り出した割によくあるお悩みだな。面白みに欠ける」
「あなたね、もう少し歯に衣着せた物言いはできないの?」
芹江美琴は道内で見ても屈指の美少女だ。いくら田舎に住んでいたとしても都会へ繰り出せばまずスカウトに引っかかるし、この手のお悩みは普段からよく聞いている。
彼女自身、ただのスカウトならここまで思い詰めたりはしないだろう。
僕は、その先にある本質の部分を訊き出してみる。
「お前だってただのスカウトなら何も感じないだろ。大方、今回はそれにプラスして、何か特別な事情が噛んでいると思うが、違うか?」
言うと、美琴は少し驚いた表情をして見せた。
「……さすが瞬くんだね。話が早くて助かる」
「これでもお前のことは人より知っているつもりだからな」
「そっかぁ。じゃあ、私が普段からどのくらい気を遣ってるかってのも知ってる?」
「知ってるが……。そうか、そういうことか」
「はい、そういうことです」
――これが本質の話か。
本題を話すときに空気が変わって重くなりすぎないように、僕との会話に絡めてさらっと自然にそれを伝えてくれる美琴の気遣い。
こいつは僕が知る誰よりも共感能力が高い。美人でめちゃくちゃにモテる彼女がそこまで派手に反感を買わない理由がここにある。
単純に性格がいい彼女は、誰からも好かれるし、それを自覚しているから相手との適切な距離感を常に調節している。
相手の立場になって、自分がどのポジションにいれば摩擦が起きにくいかをよく考えているのだ。悪く言えば八方美人だが、無駄な争いを避け、合理的な行動を取る彼女のスタンスは、個人的には嫌いじゃない。
だが、今回に限っては少々強引な気がしてならなかった。
誰にも見られにくい音ホとはいっても、完全に見られないというわけでもないだろう。
そもそも波風を立てることを嫌う美琴には異性の影が全くない。誰とも付かず離れずでのらりくらり。
友達にはなれてもそれ以上の進展は絶対にさせまい、というのが本来の芹江美琴のはずだ。
実際、僕だって美琴とはサークルの仲間と複数人でしか遊んだことがないし、二人きりで話すのもLINEくらいなものだった。
だから僕は今日、ここに来て二人きりだとわかった瞬間から、それを不可解に感じていた。
どんな事情であれ異性の僕と二人きりで会うことを決めている時点でやはり異常なのだ。
「詳しくは知らんが、僕と二人きりになって、周りからどう思われるのかも気にならないくらいの問題なんだな」
『普段は気を遣っている』という言い回しからも、まず間違いない。
「それよりももっと周りからの見え方が怖いことが起きちゃったんだよ」
気遣う対象を天秤にかけたという美琴。
「ちょっと力を貸しておくれ」
「それはいいけど。具体的に何があったんだよ」
「そのスカウトしてきた人がね、歌手志望の先輩なんだけど。一緒に音楽活動をしないかって誘われたの。その人は音楽が大好きで、ずっと一生懸命に練習を続けていて……何よりも、もう時間がないらしい」
「ああ、お前の苦手なパターンだな」
「ほんっとに苦手。ちょっと話を聞いただけでその子の想いとか、全部わかっちゃうんだもん」
芹江美琴は共感能力が高い。これは、波風立てない行動を取る上でかなり重要な要素だ。相手が好む人間像と嫌う人間像を詳細に把握することができる。
だから美琴は強すぎる容姿を持ちながら、誰からも妬みや僻みを買わずに仲良く関わることができていた。
しかし当然だが、共感能力が高いということは情に弱くなりやすいということでもある。相手の気持ちがわかりすぎてしまうから、相手の頼みを断れない。これは、美琴の行動理念に反する事態を招く、邪魔になるものだろう。
例えば、長い間美琴を彼女にするために血の滲むような努力をして、満を持して告白してきた男子がいたとして。美琴にはそれを正面から断れる強さがない。
厳密に言えば断れはするのだが、それによって自分も大きくダメージを負ってしまうのだ。相手の想いの強さが、手に取るようにわかってしまうから。
それに、告白を受けること自体が他の女子からの嫉妬や僻みを買う原因にもなりかねず、摩擦を嫌う美琴的には好ましくない。
要するに、重すぎる頼み事と羨ましがられる頼み事が美琴の弱点。
そして今まさに、その熱烈な勧誘はそのどちらの条件も満たしている、最も美琴が苦手とするタイプのオファーだった。
今までは、そもそもそんな頼み事を受けないよう、それとなくこちら側にその気がないことを伝えたりして、器用に立ち回っていたのだが。
それでもすべてに対処できる程、完璧な動きなんてできるわけがないからな。
「鈍感すぎるのも困りものだけど、見えすぎちゃうのも辛いんだ」
美琴はぼやきながら、僕にレジ袋を差し出してきた。
中には、おにぎりやサンドイッチ、飲み物が二人分入っている。
僕と話す時間帯が昼ごろになるのを見越して、近くのコンビニで買っていたらしい。
「ありがと。いくらした?」
「これくらいは当然奢らせてもらうわよ。私が誘ったわけだし。ファミレスとかじゃないのが申し訳ないけど」
「人目に付くからだろ? いいって。お前のことはこれでもわかってるつもりだ。気にしなくていい」
「ほんとそういうとこ優しいよね。私みたいに顔がよかったら、モテてたと思うのにな」
「お前さ、実は結構性格悪いだろ。お前ほどではなくても、僕だってそれなりにいい顔してると思うぞ?」
少なく見積もってもブサイクと言われるレベルではないだろう。
「ふふ。あなたも意外とナルシスト?」
「悔しいが、意外と似てるのかもな。僕らって」
「みたいね。悔しいケド」
美琴はウインクする。
お前のそのどこか余裕そうな感じはなんなんだ。僕を頼ってきているやつとは思えないぞ。
「そうだよ。私、性格悪い。だからなんだよ、嫌われないように相手を立てるのは。私なりの処世術なの」
美琴の言葉に、僕は「言うほどか……?」と呟く。
確かに僕に見せる美琴の態度は普段よりも雑なのかもしれないが、それでも本気で性格を悪く感じたことはない。しかし、こいつの自己評価は低いらしい。
渡されたレジ袋の中から、遠慮なく僕は鮭とツナマヨのおにぎりを貰う。
好き嫌いが少なく、万人受けする具材を選択しているのがなんとも美琴らしい。
レジ袋を返すと、美琴はその中から余っていたたまごサンドを取り出して、小さな口ではむ、と齧った。
話題は再び本題へ。
「それで、どうしてその人はそんな話を持ち掛けたんだ? お前、ろくに音楽なんてやったことないだろ」
少なくとも僕は今までに楽器を弾いていたり歌の練習をしたりしているのを見たことも聞いたこともない。カラオケサークルだって幽霊だし。
「ほら、私って可愛いから。私と組めば、今までより注目もされる。そうすればもっと曲も聴いてもらえるようになるし成功するんじゃないかって」
曲での勝負は放棄して、美琴のビジュアルをもって固定ファンをいくらか持てたら万々歳。
現実的で打算的な考えだな。そのためなら美琴を入れて音楽のクオリティを下げてもいいという魂胆らしい。
「自分の歌に自信はないのかよ……」
「そりゃ、あるとは思うよ。でも、時間がないから……きっと焦っているんだと思う」
「なるほどな。僕的には賢いやり方だと思う。今の時代、単に曲がいいだけじゃ売れないし、お前というわかりやすい看板が欲しいってのもなんとなくわかる」
僕は「でも」と続ける。
「一番重要な、お前の気持ちはどうなんだ?」
美琴は一瞬思案して、口を開いた。
「ずっと考えたけど、私にはできないと思う……。私には、あの人の想いは背負えないよ」
「なら断れ」
僕がスパッと言うと、美琴は頬をぷくー、と膨らませた。
「そんな簡単に言わないでよ。それができるなら最初から相談してないの」
ま、そりゃそうか。美琴は、断った後に続く罪悪感や周囲からの視線、その他自分に及ぶ諸々の影響に敏感になっているようだった。
「先輩の歌、一回聴かせてもらったけど凄かったよ。歌に対して相当の愛がないとあれだけの歌は歌えない。絶対、死ぬ気で頑張ってる」
「で、その努力を知った手前、断りづらくてしょうがない、と」
かと言って、無責任に首を縦に振っても良いことなんてない。結局は断るしかないが。
「断るしかないってことは、わかってるんだよな?」
僕の確認に、こくりと頷く美琴。
「でもその人、今はもう大学四年生だし、親に今年でだめだったら諦めるように言われてるらしくて、これがラストチャンスだなんて言われたら、私がその夢を終わらせたみたいで後味悪すぎじゃない」
目線を落とし、尻すぼみになる声を「それに」で続ける。
「アイドル事務所とか、プロからのスカウトならまだ大丈夫だったけど、今回はちゃんと本人からお願いされて、同じ大学生。親近感もあって難しいんだよ。色々と」
それはそうだが。こちらにも事情というものはあるわけで。
「心を鬼にするしかないな。とりあえずは断るしかないぞ。今の話を聞く限りだと」
「うーー」
唸る美琴。心ではわかっていても動けないときってあるよな。だから僕に縋ってきたわけだし。
今、美琴が僕にしてほしいことは相談に乗ってもらうことじゃない。
単に、背中を押してほしかっただけなんだと思う。
「お前の場合は判断基準が多すぎなんだよ。相手がどうこうじゃない、お前が断りたいと思うなら断る。理由なんてそれで十分だろ」
「そうだよね……」
それでもまだ美琴の表情は納得していない様子で。
僕は我慢できずに、ため息を吐いた。
「あのさぁ、お前のその価値観どうにかできないのか?」
「価値観って?」
「相手も自分も気持ちよくなろうとする考え方だよ。誰も傷つかずに誰もが笑顔になんてなれるわけない。そんなの理想論だ」
美琴の言いたいことはわかるし、正しいとも思う。僕だってみんなに幸せになってもらいたいし、そこに僕も混ぜてほしい。ただ、それを綺麗事だけでなし得ることは絶対に不可能だ。
「理想論か……。だけどね、私は私を出すのが怖いんだよ。昔から私の気持ちひとつで周囲の反応も変わっちゃうって知ってるから」
モテる人間だからこその悩みってやつだな。
多くの人から支持される人間は、必然的にその影響力も大きくなる。強い好意を向けられるからこそ、それを裏切ったときの弾性も高くなる。
僕は持っていたおにぎりを口に運ぶ。米の中から現れた鮭を噛み潰すと、途端に塩辛い風味が広がった。
「お前は優しいんだよ、美琴。誰にも自分がきっかけで傷ついてほしくないんだろ? でもな、お前は一つ勘違いをしている」
「勘違い……?」
「お前以外にも、案外優しい奴は多いってことだ。お前が自分の取った選択で相手を傷つけてしまったと落ち込むように、僕たちだってまた、そんな美琴を見るのが辛いんだ。その誘ってきた人もきっと、お前のそんな表情を見たら、悲しむと思う」
美琴にはリハビリが必要だと思う。それは、人を信じるためのリハビリ。
みんな、お前のことを気に掛けていて、お前のことを思い遣れることを知ってほしい。
相手を立てる美琴もいいが、もっとお前自身が前に出たっていい。
「そこで提案なんだが、美琴。一度自己中になってみないか?」
「ん、ん~? また随分と急な提案だね?」
「そうした方がいいと思ったからな。自分本位な生き方も多少はできないと、人生面白くないだろ」
「それは……」
ここで即答できないのも予想通り。価値観の矯正は、それだけ大変だということだ。
だが、相談され、頼られた以上は。
「そもそも、どんなに猫を被ってたって嫌われるときは嫌われるんだ。全員から好かれるような人を嫌う人間だっている。今はたまたま良いかもしれないが、今後そういう人間に出会ったらお前はどうする」
「どうやっても……仲良くはなれないよね」
「ああ。だからお前の波風立たせない生き方なんて理想論だって言ったんだ。他人の愛想を伺って生きることは、率直に言えば時間の無駄だ」
少し厳しい意見を突き付けてしまった。
反省して、今よりも穏やかな言い方に気を付けつつ、僕は続けた。
「少しずつで良い。お前は本当の自分になるべきだ。時に人のために動いてやることも大切だが、何も他人のためだけに生きる必要なんてない。そうだろ?」
「そんなこと、できるのかな。私……人が怖い。ううん、人の視線が、怖いんだ」
「大丈夫だよ。たとえお前が自分を優先して生きて、その果てに周りの誰からも嫌われてしまったとして、それでも僕は……」
続きを言いかけて、恥ずかしくなった。ここで自身の理性が邪魔をしてくる。
僕は目線を美琴から右斜め上に逸らしたが、すぐさま音ホの白い照明が網膜を貫いてきて、まるで「逃げるな」と言われているような気がした。
再度美琴に焦点を戻し、浮いた光が鎮まるのを待ってから、それから。
「僕だけは本当の芹江美琴の味方だ」
目を見て、しっかりとそれを伝えた。これが適当に発せられた言葉だと思われては意味がない。彼女自身が自らの殻を破っていくために、必要なことだ。
新たな道への第一歩は、決まって破壊からしか生まれない。
時に自身を縛るしがらみを、時に不都合な人間関係を、時に閉じこもってしまった自分の殻を。破壊して初めて、人は前を向いて歩いていける。
美琴は今日で一番の驚いた顔をした。不安もありながら、どこか嬉しそうでもあって、次に作られた笑顔は心から最高に可愛いと思えた。
「ちょっとびっくりだよ。瞬くん、普段は大人しいからそうやって自分の意見言ってくれるとは思ってなかった。ありがとうね。……うん、わかった。これからは意識してみる」
「相談を受けたからな。相談は自分だけで解決できないからするものだろ。解決の障壁になっている要素を取り除かなければ意味がない。今日、そうやってひとつ決断できたなら、ここで会った意味もあったよ」
我ながら、自分の身の丈に合ってないことを言ってしまったな。
男女でこの誰もいない空間にいたら、どういう話し方が正解なのかわからなくなってきた。
まあ、女性経験がまだあまりない僕にしては健闘した方だろう。
「まずはお前の気持ちをはっきりと言えるようになれ。一歩目として、そのスカウトは断るぞ」
「……だね。でも、やっぱりまだ少し怖いから、一緒に断ってほしい」
「それくらいであればもちろん付き合うよ。いつ頃だ?」
「いつでも大丈夫。その人、毎日決まった時間にギターの練習してるから。気が向いたら……行くよ」
「わかった」
僕は頷いて、そこからゆっくりと立ち上がる。
「じゃ、話もまとまったし、昼飯食ったらぼちぼち帰るか」
「うん」
他人の気持ちを考えすぎて自分を出していけないと悩む美琴と同じように、僕だって自分の気持ちの整理ができないことを悩んでいた。
それなのに、何を偉そうなこと言っているんだ、と思う。
だけど、ここで美琴にそう勇気づけることができたのは、あの日、あの少女の勇気を見たからだった。
僕の弱さも、あの少女の強さによって、少しずつ破壊されていた。