MATSURI BAYASHI
季節が切り替わる瞬間は、一体いつなのだろう。
ちっぽけな北の田舎の、夏祭りの中でふと、そんなことを考えた。
それは時に空気のようで、それは時に妖精のようで。
その明確な瞬間はきっと存在せず、見ることも叶わない。
気づいた時には大概、季節は去って訪れている。そういうものだ。
あの日の僕は、そんな目に見えないものに手を伸ばそうとした。
ここまでが春で、ここからが夏だ。
そういう線引きが人の心にもできて、はっきりとした輪郭のもと、正しい選択を続けられたら、迷うこともなくなるのに。
見えないから、わからないから、迷ってしまう。
中途半端な僕は季節の変わり目みたいに、反復横跳びを続けていた。
季節の座標のようなものであれば、数え切れないほど思いつける。中でも夏という季節は、わかりやすくイメージ化され、夏らしい情景は簡単に思い描ける。
頼りない扇風機の音と、結露した麦茶のグラス。窓の外には高く伸びた青空と入道雲。
虫網を持った小学生と、サイダーを飲む女子高生。渡る踏切。
道の先には陽炎。そよ風が運んでくる蝉の声。
――そして、今僕の目の前には花火が上がっている。
そんなシンボリックに示しやすい夏だから、きっとどの季節よりも、夏を歌う曲が量産されるのだろう。
夏の象徴。夏の咆哮。
それを拒むみたいに、僕はシャッフルで音楽を聴いていた。
ナンバーガールの『透明少女』が再生される。
こんなにも夏以外の何物でもない一日は、僕には似合わない。
そう思ったのに、花火が爆ぜて鳴らす音は、イヤホンを貫通して僕の心にまで届いてくる。
嫌でも夏を意識させられる。
クライマックス。最後に夜空一面に咲き誇った刹那の灯火が散り、くすんで光る残滓となって朽ちていくと、大勢で賑わっていた祭り会場も次第と閑散とし始め、空には余韻にも似た淡い硝煙が風に押し流されながらも留まり続けていた。
「夏」が終わった合図。
祭り会場に集まった人々は、そのまま帰路につこうとしていた。
僕もどこか冷めたような思いでそれに続こうとする。
その時だった――。
僕は祭り会場の中央にあるメインステージで、甲高い声を発する司会の男に紹介されながら、ギターを持った一人の少女がマイクの前に立つのを見た。
白昼の容赦ない体温を飲み込んだ夜の生温い空気と浴衣姿で賑わう人々の雑踏が溶け合う中で、彼女は静かにそこにいた。
少女は着ている服とギターを照明で濡らしながら、絶えず人が散り続けるステージの客席を寂しそうに見つめていた。
その儚げな表情は飴細工のように繊細で、絵画じみた眼前の光景から、不思議と目が離せなくなる。
「初めましての方は初めまして。こんばんは。北桜大学四年の瑠衣です」
そよ風のような澄んだ声が、僕の鼓膜へすっと入り込んだ。
「普段はJAZZバーなんかで歌わせてもらっていますが、今日はお世話になっている方からの紹介で、このステージに立たせてもらっています」
とても大学生とは思えない、落ち着いた声色が、Cコード、Amコード、Dmコード、Gコードと巡るギターの音と重なって、祭り会場へと広がる。
稚拙な表現ではあるが、年相応の若者らしく言うのであれば、彼女の発する音はなんだかエモかった。
このままラッドやらバンプなんかの演奏を聞けてしまったら、きっと僕は昇天してしまうだろう。
少女は吐息する。その音すら天然水のようで、もはや彼女のどれを取っても興味が溢れてやまなかった。
金縛りにあったみたいに、僕はそのステージに釘付けになり、次に流れてくる芸術を待ち望んでいた。
「……歌います」
祭りの目玉とも言える花火が終わり、誰一人として見向きもしないステージの上で少女は言った。
無駄なことは何も言わない。名前と、立場と、何をするのかだけを簡潔に述べた。
僕にはそれが、無謀でも自身の歌だけで勝負をしようとする彼女の清々しいほどに清純で逞しく、滑稽なプライドに思えた。
そしてそれは何よりも僕が理想としていた生き方そのものだった。懐かしい熱さが全身に電流のように駆け巡る衝撃。一度は諦めた、彼女のそんな生き方に、
――見惚れてしまっていた。
憧憬の化身は静かに音色を奏でる。客観的にはそれほど上手くない演奏だったように思う。だが、それは些細な問題に過ぎなかった。
披露されたのは、きのこ帝国の『金木犀の夜』。
あまりに突然のことだったから、彼女がどんな歌い方をしていたのかは細かくは覚えていない。
でも、「夏」の象徴が咲いて散ったその後の、蛇足にしかなり得ないこの時間に歌うことを望み、戦う勇気が、今の僕には眩しくて。
瑠衣という無名のシンガーの存在だけが強烈に海馬にこびりついて離れなかった。
その後も何曲か披露し、彼女の演奏は終盤へ。
「この会場を『ラララ』で埋め尽くしたいと思っていて、よかったらぜひ、私に続いて歌ってもらってもいいですか? お願いします」
おそらく最後のサビが終わって、アウトロに入ったタイミングで少女はそう言った。
それからまだまだ不安定な歌声を精一杯繋ぎ止め、「ラララ」と繰り返し歌い始める。
もちろん、そんな誘いに応じて足を止め歌唱する者などなく、少女の「ラララ」がリフレインするだけ。
こんなの茶番でしかない。それなのに、少女はずっと笑っていた。
僕は、彼女は本当に歌が好きなんだなと思った。
季節が切り替わる瞬間は、一体いつなのだろう。
ちっぽけな北の田舎の、夏祭りの中でふと、そんなことを考えた。
結果が伴わない、芳しくないものでも夢を食らって生きる少女と、味のしない現実を食らって生きる僕とを比べて、嫉妬、安堵、絶望、そのどれとも近くも遠くもない感情を抱いたとき、何故か僕は何よりも夏を感じてしまった。
鬱陶しくて、爽やかで、どこか手が届かなそうな。
熱く、眩しく、憧れるような。
じんわりと、胸の内に温かなものが広がる感覚だった。
彼女という存在が、僕にとっての夏だった。
このとき、僕は確かに季節が切り替わる瞬間を見た。
祭り会場には、少女のギターが響き続けている。