生理的に無理
むっちゃむっちゃむっちゃむっちゃ
「やはりこの店の料理は美味いな」
「……ええ、そうですわね」
むっちゃむっちゃむっちゃむっちゃ
「騎士というのは身体が資本だから、食事というのはとても大切なんだ。君は……むぐ、知らないかもしれないが」
「……ええ、確かにそうかもしれませんわね」
じゅるっ、じゅるるるるる、じゅぞーーーー
「おっ、これは! エミリアはどうせ食べ切れないだろう? 手伝ってやるから、こちらに寄越してくれ」
「──えっ」
じゅるるるるるっる、じゅぞーーーー
「……ああ、つい全て飲んでしまった。まあ……君は優しいから、許してくれるよな」
「うっ……ええ、はい」
ざわわ、と腕に鳥肌が立つ。今日はレースの長袖のドレスを着てきたから、彼に気付かれることはないだろう。
すっかり食欲の失せた私は給仕の青年を呼び、残りの皿を下げさせた。それを名残惜しそうに見送るサイラス様には気付かないふりをする。流石に、あれにまで手を伸ばすほどではなかったか……おそらく私から奪い取ったスープでいいところ満腹になっていたせいだろうと思うけれど。
◇
私とサイラス様は婚約者同士だ。家格はほぼ同じだけれど、その方向性は正反対と言っても良い。
我が家は文官を多く配する知の家系。サイラス様は武官を多く有する家系の出だ。サイラス様のお父上は現在の騎士団長でもあり、その嫡子であるサイラス様も幼い頃から武の才能を遺憾無く発揮していたと聞く。
清潔感のある短髪に精悍なお顔。逞しく鍛えられた体躯に、将来はお父上の跡を継いで騎士団長も夢ではないという将来有望な好青年。それが、世間から見たサイラス様の評判である。
確かにサイラス様は、とても良い方だと思う。公明正大で正義に厚く、おおらかで明るい。街で困っている方がいれば迷わず手を差し伸べられるし、領地で私と会う際も常に明るく楽しそうで朗らかに笑っていた。
一方私は中肉中背、茶色の髪はすこしだけ癖毛で顔は小作り。派手なものは好みではないのでいつも大人しい色味のドレスを着ているせいか、地味令嬢と呼ばれたりもしているようだ。事実なので、さして気にしていないのだけれど。
そんな私が唯一誇れる点と言えば、所作の美しさと言えるだろう。勉学の成績も褒められはすれど、それは親から受け継いだ頭脳でもって大した苦労も感じていないからどうでもいいと思っている。
一方所作については、幼い頃から嫌と言うほど努力を積み重ねてきたものだから、我ながら自慢というか、まあはっきり言うならばこの国のどの令嬢たちよりも優れている自信があるのだ。
自惚れていると言われたって怖くない。だって私が血反吐を吐いて手に入れたものは、誰にも取り上げることなんて出来ないのだから。
私の母は、男爵家の生まれであった。とても美人であったため、学生時代には高位貴族から果ては王族までもが夢中になったのだという。しかし下位貴族では身につけられる知識もマナーもそれなりのものでしかなく、妾ならともかく正妻として嫁ぐには色々と足りないものが多過ぎた。
最終的に母を娶ったのは、私の父である知の伯爵家の嫡男である。それでも母からすれば十分な玉の輿であり、現に今も男爵家では到底叶うはずもない豪勢な生活を送っている。
幸か不幸か父の家系の頭脳を受け継いだ私から見れば、おそらく父はお飾りの妻が欲しかったのだろうと思う。それなりの力を持つ伯爵家だ。下手に頭の回る女性を妻に得て、引っ掻き回されるのが面倒だったのだろう。それならば、十分なお金を与えるだけで大人しくしている馬鹿な女の方が邪魔にならないというわけだ。
美しかった母も子を産み年をとり、今では人並みの容姿になっている。与えられたお金を美容の方面にも使っているようだから、もちろん貴族として最低限の美貌を保ってはいるけれど。それでもお金の使い方が下手なのだろう。呪術めいた怪しいアクセサリーやら、そこら辺の草の汁を煮出したような謎の美容液を嬉しそうに仕入れては顔に塗っているのを見ると、父の目論見は成功しているのだろうな、と思う。それで互いに幸せであるなら何よりなのだが。
違ったのは、私の方だ。
私が二歳の頃、父によって家庭教師がつけられた。最初は様子見だったのだろうが、難なく課題についてくる私を見て父は理解したらしい。私が使える駒であると。
最初は各種方面の膨大な勉学知識を。周辺国の言語を。そしてその後は、王族にも嫁げようというマナーを。
間違えば叱責され、怒鳴られ、叩かれ、失望されて。終わらぬ課題に寝る間もなく、腕や足からあざが消える日もなく。
しかしここで諦めれば、自分にもあの母のような暮らししか待っていないのだと分かっていたから、必死で努力した。
勘違いしてほしくないのは、私は母を嫌いだとかそういうわけではないということだ。母は、幸せだと思う。しかし私は母と同じような幸せを感じられないということ。何も考えずに生きていくには、私には物事が見え過ぎたのだ。
十歳の時、父によって私の婚約者が選ばれた。相手が伯爵家の子息だというので、正直びっくりはしたけれど。だって私は王家にも嫁げる教育を詰め込まれてきたのだ。同格の家となると、これまでの投資が無駄になるのではないか、と。
しかし相手の家が武の一族だと知り、これもまた重要な政略であるのだなと理解した。大きな戦争の気配もないこの時代では、武力の持ち方も変えていく必要があるのだ。
自らの使命を心に刻み挑んだ婚約者との対面の日。
私はいい意味で裏切られたような気がした。
「やあ! 初めまして。僕はサイラス。君が僕のお嫁さんになるんだよね? これから仲良くしてくれると嬉しいな!」
そう言って明るく笑ったサイラス様は、地味な私を見ても少しも嫌そうな顔をしなかった。
質実剛健な庭を不器用な手付きでエスコートしてくれて、毎朝ここで鍛錬をしているんだと少し自慢げに笑って。
この人ならば、政略など抜きにしても好きになれるかもしれない、と。確かにその時私はそう思ったのだ。
それからの私は数年後の婚姻のために準備を始め、サイラス様の家の領地について調べたり、騎士の妻としての心構えなども学んだりした。栄養学から、傷んだ筋繊維の炎症反応に至るまでだ。
それぞれの領地は少し距離が離れているから、普段の交流は手紙で行うことになる。サイラス様は明るく朗らかな方だけれど、彼の書く字は大きく勢いがあって、素直なものの言いようはなるほど彼らしいななどと思い微笑ましく受け取っていた。
彼が王都に出て、お父上のもとで騎士になり。その頃から少しずつお手紙の返事が遅くなっていることについて、気になってはいたけれど。
私も今年からは王都の学園に通うから、そうすれば直接顔を合わせて話も出来るし、何も問題はないと思っていた。
思って、いたのだけれど。
「──見て、あれじゃない? サイラス様の婚約者」
「えっ? あの地味な女が? 聞いていた通りね……釣り合わないにもほどがあるじゃない」
「ほんとよね。サイラス様ったら次期騎士団長間違いなしだし、それに加えてすっごく格好良いんですもの」
「そうよね! しかもとってもお優しいし!」
「ええ、あんなにお強いのに笑った顔は可愛らしいし!」
華やかな女性たちが噂をする声がこちらまで届く。
確かに、事実だ。彼が有望株であることも、見目が良いことも、朗らかで優しいことも。
当初の手紙のやり取りの中で彼の人となりも少しは知れてきたように思うし、ここ数年はなかなか顔を合わせることもないけれど、それは仕方のないことだと自らに言い聞かせて王都へやって来たのだ。これからの未来は明るいものだと信じて。
「お待たせ、エミリア。久しいな。君は相変わらず……元気そうだ」
「ご無沙汰しております、サイラス様。お会いできて嬉しく思いますわ。サイラス様は益々ご活躍の様子、お伺いしております」
「まぁね、王都では刺激的なことが沢山あるから勉強になるよ。──さて、その様子じゃ……まぁ、田舎から出て来たてでは仕方ないか。個室を取るから着いて来て」
私の姿を頭の上から足の先まで確認したサイラス様は僅かに眉を顰め、エスコートの手を差し出すこともなく踵を返した。
学園に入学するため私が王都に出てきてから、既に半年以上が経っている。数度手紙を差し上げて、ようやく叶った再会の日であった。
最後に領地で会った際、「父上のように立派な騎士になってエミリアを迎えに来るからね」と笑った明るい表情は今や見る影もない。この数年間で彼の中の何かが変わってしまったのだろうか。記憶よりずっと逞しくなった体躯、少年らしさが抜けて精悍な顔。腰に下げた剣もしっくりと馴染み、噂通り騎士として活躍している姿が目に浮かぶ。ただあの頃のように朗らかな笑顔が私に向けられることはなく、出迎えも歓迎の花も不器用な褒め言葉さえ贈られることはない。
足の長いサイラス様に遅れまいと、小走りで追いかける私に容赦のない声や視線が刺さる。
「まあ、エスコートもされないなんて」
「惨めね」
「当然ね」
「だってあんなに地味で」
「センスも悪くて」
「サイラス様には釣り合わないわ」
私と同様に聞こえているはずのサイラス様は、手を差し伸べるでもなく庇ってもくれないらしい。
なのに、きゃあきゃあと響く黄色い声には愛想よくその大きな手を振って応えるのか。わざとらしく躓きかけた令嬢には躊躇なくその手を差し伸べるのか。久しぶりに見る朗らかな笑顔は、私に向けられたものではなくて。
「もう少し早く歩けないのか」
「申し訳ございません」
息を切らせる私に贈られるのは、令嬢たちの嘲笑と凍てついた視線だけだった。
◇
月に一度、定められた婚約者同士の交流日。直前や当日朝になってからの急な知らせで仕事を理由に断られ、延期となること多数。ようやく会えた日でさえも、予定が詰まっているからと儀礼的に挨拶を交わして早々に解散となることしばし。私が王都に出てきてから一年近くが過ぎていた。
心に積もる諦観の念はもはや見て見ぬふりをできぬほどに存在感を増している。あの明るく朗らかで優しかったサイラス様はもういないのだ。それでも、まだ。もしかしたら、信頼し合えるパートナーにはなれるかもしれないと。最終的に結婚するのは私なのだから、その時に彼と彼の家の役に立てたら良いと思っていた。そのように教えられて育つのだ、貴族の子女というものは。心の奥底に溜まっていく滓のような黒いものは、着実に折り重なっていくというのに。
「ここだ。学園時代の友人と幾度か来たが、君の田舎とは段違いに洒落ているだろう? なかなか予約も取れないし、いつ来ても飽きないような斬新で美味い料理が出るんだ」
珍しく多弁なサイラス様は自慢げだ。
「そうなのですね。確かに素敵な店構えです。これは隣国の建築様式を模したものでしょうか? お料理ももしかすると隣国の──」
「相変わらず君は訳の分からぬことばかり賢しらにひけらかすのだな。もう、いい。あまり他の者にも見られたくないし、さっさと入ろう」
掴まれて引かれる手首が痛い。大きな手の太い指が食い込んで、もしかすると痣になるかもしれない。大股の歩幅に合わぬ私の足がつんのめり、たたらを踏むとたいそう嫌そうにじろりと見降ろされてしまった。
「鈍いのは相変わらずだな」
「……申し訳ございません」
私はとっくに帰りたくなっていた。
「お待たせいたしました」
スマートなお仕着せを纏った給仕が、美しく彩られた料理をサーブしていく。確かにうちの田舎でこれはなかなか見られないかもしれない、と思いつつ待っていると、サイラス様は給仕の退室も待たずガチャガチャとカトラリーを手に取った。
「ああ、腹減ってたんだよな、午前中も訓練があったから。わざわざこのために抜けて来たんだから感謝してくれよ。君とは違って僕はもう騎士として勤めているし、午後からもまた戻らねばならない。出来るだけ急いで食べてくれよ? 忙しいんだ」
彩りよくかけられたソースもお構いなしに、数種並べられた前菜はずざーっと串焼き肉のようにフォークへ刺さっていく。その全てをまとめて大きな口の中に放り込むと、やはり入れすぎたのか頬を膨らませながら時折ソースをびちゃびちゃ溢し、咀嚼音をたてながらサイラス様は凄い勢いで食事を進めていく。私も、そして給仕係の青年も、茫然とした顔でそれを見つめた。
むっちゃむっちゃむっちゃむっちゃ
考えてみたら、彼と食事を共にしたのはこれが初めてだったかもしれない。領地では、じっと座っていることを苦手とするサイラス様に合わせ、庭を散歩したり街へ散策に出かけたりすることが多かったから。
「ああ、この緑のやつはあんまり好きじゃないんだよな。昔弟がこれを食ってるときにゲロ吐いて、汚かったのを思い出しちゃうから」
むっちゃむっちゃむっちゃむっちゃ
ぽい、と皿の端に棄てられた緑の葉物がくたりと萎れている。
「ああ、だからエミリアもさっさと食べてくれないか? ただでさえ女は食べるのが遅いんだからさ。終わったらさっさと戻りたいんだよ僕は」
ばりばりと掻き毟られた頭から、はらりと髪の毛が皿に落ちた。
むっちゃむっちゃむっちゃむっちゃ
そう、確かに騎士は忙しいのだろう。訓練も大変だと思う。頑張っていらっしゃるのだろう。時間も、ないのだろう。けど──。
ざわざわと粟立った腕を、こっそり撫でた。私、もうこのお野菜は食べられないかもしれない。
◇
それからも、婚約者同士の交流日はしばしば中止となって。数か月に一度、しぶしぶと言った様子でサイラス様の仕事の合間に食事を共にした。昼休みに会うのが一番都合が良かったのだろう。彼自身の予定を調整したくなかったのかもしれない。
その度に私は違和感を積み重ね、積もっていく心の滓をどうにか追いやろうと努力した。言ってはいけないこと、気付いてはいけないことに気付いてしまいそうだったから。
「いつまで経っても君は地味だな……その優秀な頭で少しは王都の流行りなんかも学んだらどうだ?」
「申し訳ございません」
華やかなレースで飾られた明るい色のドレス、高く豪奢に結い上げられた髪。こってりと塗られた白粉に真っ赤な唇。
流行だと言われても、真似する気にはなれなかった。夜会でもあるまいし、昼間からあんなに胸元を露出して歩くのはマナーにも反しているはずだ。
エミリアはいつも森の妖精みたいで可愛いね、連れ去られてしまうと困るからしっかり僕の手を繋いでいて、と。そう言って恥ずかしそうに頬を染めたサイラス様の記憶が思い出される。
いいえ、人は変わるもの。流行りも、好みも、時に驚くべきスピードで移り変わっていくのだわ。そうしてまた先代の流行が再燃することだってあると、知識では知っているけれど……。
鳥肌を隠した食事中。自身の下腹部を徐にさすったサイラス様は、はぁとため息を吐きながら言った。
「今日は朝から腹の調子が悪いんだよな。なのにわざわざ交流に来てさ、辛気臭い中で飯食って余計に催してきた気がするわ。ちょっと手洗いに行って来るから部屋から出ずに待っていてくれよ」
食事中に話すようなことではないと思う。どうしても我慢できないとして、もう少し婉曲的な言い方があるだろう。騎士として勤めているにしても、貴族なのだ。武官は皆このようにデリカシーのない言い方をするのだろうか。
騎士団の上着を脱ぎ捨てばさっと椅子の背にひっかけると、剣帯を外し彼の父君から成人祝いに贈られたという立派な剣は無造作に壁へ立て掛けた。
こちらを振り返ることもなくバタンと音を立てて扉を閉めて、サイラス様は足早に個室を後にした。
今のうちに食事を進めてしまおうか。本来なら彼の帰りを待つべきだろうが、さっさと済ませて帰りたがっているのだからそうした方がいいかもしれない。何より彼とテーブルを共にしていると、どうしても食欲が失せてしまって美味しい料理もなかなか飲み込めないのだ。ひとり残された今ならば味も楽しめるかもしれない。
置いていたカトラリーにそっと手を伸ばそうとしたその時、壁際からかたんと音が鳴った。扉も窓もないその方向には、先ほどサイラス様が置いて行った荷物が残されている。よく見れば、立て掛けられた剣がずず、ずずとゆっくり倒れていくところだった。
もしあれが勢いづいて床にぶつかってしまったら、豪奢な意匠の細工に傷がついてしまうかもしれない。彼はあの剣をたいそう自慢に思っているようだったし、実際騎士団長である彼の父が選んだというそれは名のある鍛冶師が打ったものだと聞いた。武芸を嗜まない私から見ても美しいと思える逸品だったし、粗雑な行いが目立つサイラス様もあの剣だけは大事にしていたと思う。それにしては、あんな不安定な場所に置いて行ってしまったあたり何とも言い難いが。
騎士にとっての剣とは、とても大事なものなのだという。己の命を守るものだから、最も身近な相棒だ。そこに何か細工をされればひとたまりもないのだし、当然のことだと思う。そんな大事なものを置いて行ったのは、私を信頼してくれているのだとも思えるけれど……。
ともかく私は急いで立ち上がり、ずり下がる剣に駆け寄った。走る為には出来ていない繊細な靴や広がるドレスに苦戦しつつも、なんとか床に倒れきる前に腕を伸ばして支えることが出来た。明日は身体のどこかが痛むかもしれない。でも、彼の大事な物が傷付かなくてよかったと、心から思っていたのに。
「何をしている!!」
気付かない間に部屋へ戻ってきていたらしいサイラス様は、その顔を憤怒に染めて怒鳴り声を上げた。大股でこちらへ駆け寄ると、むしり取るように私の手から剣を奪い取り、さも何かしらの細工を為されたのではといった様子で真剣に検分を始めてしまった。
私を、疑っているのだ。
「お前は知らんだろうがなっ、騎士にとっての剣はこの上もなく大切な物なのだ!! それを勝手に触れて、そんなことが許されると思うなよ……っ! これは、我が父から頂いた大事な剣で、我が誇り……騎士の誇りを汚すなど言語道断だ!!」
この上もなく大切にしていたのなら、なぜ置いて行ったのだろうか。大事な物ならばなぜ持っていかなかったのか。私の頭の中では冷静にそんなことを思うのに、自分より何倍も大きな身体を持つ成人男性に恫喝されるとそれだけで心は委縮してしまう。
「ですが……」
言わなければ。倒れそうになった剣を傷付けまいと、支えただけなのだと。誤解で、勘違いなのだと。
「言い訳するな!!」
顔を赤くしたサイラス様は剣の鞘で私の太もものあたりをバシンと打った。
「──いっ……」
痛みにうめき声が出るが、叫んだり泣いたりはしない。必死で歯を食いしばり顔を俯かせるのは、以前のマナー教師に鞭打たれた頃からの癖だ。泣くと、その後数倍打たれるのだから。
痛みと恐怖に身体を震わせる私の様子にはっとしたサイラス様は、急に慌てた様子で剣を持つ手を下げた。
扉の外からはざわざわと人の気配がする。この大声が外まで響いているのだろう。
「おっ、お前がいけないんだからな! 騎士の妻になるというのに不躾なことをするからいけないんだ! いつまでも田舎の感覚を引きずって貰っては困るんだよ、恥ずかしい婚約者がいて僕が可哀そうだと思わないのかっ!!」
喧騒に気付かないサイラス様は更なる大声で怒鳴り散らし、その勢いで彼の口から飛んだ唾が私の頬にべちゃっとかかった。
ああ、もう、無理だわ……。
必死で我慢してきた。見て見ぬふりを、気付かぬふりをしてきた。
でも、もう無理だった。
ぐちゃぐちゃと音を立て、口の中まで見えるほど下品に咀嚼する姿だとか。キィキィと耳が痛くなるような音を立てて肉を切り、口からはみ出そうなほど大きなまま齧り取ったかと思うとぼろぼろ溢したり。皿の上で頭を掻きむしり、髪の毛を落としたり。食事の場で不浄の話を平然としたり。
粗雑な扱いも、見目を貶めるような言葉も、なんとか我慢は出来た。でも、もう無理だった。
生理的に無理なのだ。鳥肌が止まらないのだ。汚くて汚くて、耐えられないのだ。
「申し訳ございませんでした」
「……は?」
「私の至らぬ点でサイラス様のご不興を買ったこと、大変申し訳なく思っております。自身の出来得る限りで改善しようと努力してきたつもりですが、これ以上は出来かねます。ですので、もう私たちの婚約継続は難しいでしょう。今後のことは両家の契約の話として、家を通じてご連絡差し上げたいと思います。数年間ありがとうございました。今後のサイラス様のご活躍、遠くよりお祈り申し上げております」
痛む足をごまかし、美しく見えるようカーテシーをする。にこりと微笑むと、茫然と立ちすくむサイラス様を置いて私は颯爽と部屋を後にした。
「…………は?」
残された彼がどんな顔をしていたのか、私は知らない。
◇
初めてエミリアに会った時、素直に可愛いなと思った。派手な華やかさはないけれど、美しい所作でなされた挨拶には見惚れたし、いつも穏やかに僕の話を聞いてくれて嬉しかった。それまで剣を振って鍛錬することしかしてこなかったから、女の子の喜ぶ話題なんてひとつも知らなくて。それなのに、鍛錬の方法や武器の種類なんかの話でさえとても興味深そうにしっかり聞いてくれるのだ。ちょっと他より優れているらしい僕の見た目に惹かれ、集まってくる近所の子たちとは違う。あの子たちは「すごい」「格好いい」とは言ってくれるけれど、僕が話したことの内容なんてひとつも覚えていなかったのだから。でもエミリアだけは違った。前回話したことを、次回もっと詳しく調べて質問までしてくれる。真っすぐにこちらを見つめて、真剣に向き合ってくれている。そんな相手が結婚相手だなんて、僕はついているなと思ったのだ。
穏やかに交流を続けて、きっと数年後にはエミリアと夫婦になるのだと思っていた。そこに疑問を持ったのは、やはり僕が王都に出て来てからだ。
学園に入学し、同年代の男女が一堂に会して。今まで僕が暮らしていた領地はなんて田舎だったのかと愕然とした。
同じ制服を着ていようと、分かるのだ。髪の毛の艶、ヘアスタイル、美しく整えられた化粧。言葉選びや王都で流行の演劇、スイーツの店。皆あか抜けていて、オシャレで、洗練されていて。ものすごく輝いて見えた。
僕も学園を出て騎士団に入れば、この王都で暮らすことになるのだ。もちろん地方領での勤務もあるかもしれないが、騎士団長の息子である僕はおそらく近衛の配属になるだろう。そうなったら、この洗練された都会の空気に負けるわけにはいかない。
そこからは必死で学んだ。幸いにして僕の容姿は都会でも通用するものだったらしく、持ち前の明るさで教えを請えばほとんどの女の子たちが様々な王都の常識を教えてくれた。学園を出た後は騎士団の仲間たちから華やかな遊び方も教わった。婚約者を持つ同期には、賢しらな女の躾け方も聞いた。彼曰く、最初にしっかりと分からせておけば、結婚後も夫婦生活が上手くいくのだという。確かにエミリアはとても賢くて、最近では手紙に書いてくる内容もいまいちよく分からないことが増えていた。このままでは田舎臭い婚約者に主導権を握られ、尻に敷かれているなどと嗤われてしまう。二人の生活が上手くいくよう、心を鬼にして振舞っていたのだ。
それもこれも全て、エミリアと結婚するための努力だったのに。
「サイラス! お前、エミリア嬢を剣で殴りつけたというのは本当かっ!!」
ノックもなく扉を開き、駆け込んできた父のこめかみには青筋が浮かんでいる。
「えっ──いや、なぐっ……ては、鞘が、多少……当たった、かとは……」
本当に殴る気など一切なかった。父に貰った大切な剣に触れたエミリアをしっかり躾けようと思い、言い訳ばかりするものだから少々頭に血が上っただけなのだ。
「この大馬鹿野郎が! 医師からの診断書も送られてきているんだ! 鞘の彫りの模様までしっかり残るほど、濃い痣になっているとな!!」
「えっ──そん、な……」
「腕にも青くなるほど手の跡がついているらしいぞ。お前は、恥ずかしくないのか? 曲がりなりにも騎士だろう。騎士とは、か弱い令嬢を守るのではなかったか? ましてやお前の婚約者だろう。エミリア嬢は、エミリア嬢はあんなに一生懸命騎士の勉強をして……。我が家の役に立とうとあんなに努力していたのに……。なにが気に入らなかったんだ? そんなに嫌なら私たちに言えばよかっただろう。暴力で押さえつけようなどと、私は……恥ずかしい。騎士としての心構えは幼い頃より叩きこんできたつもりだったのだがな……」
怒り心頭で怒鳴り込んできたはずの父は、いつしかぐったりと項垂れて唇を噛んでいた。
そう、父はエミリアをたいそう気に入っていたのだ。そして僕も、エミリアが嫌だったわけではなかったのに。
「エミリアは……」
「もう、婚約は破棄された。慰謝料も支払った。今後こちらからの接触は一切禁止だ。あたりまえだろうな、それほどの怪我を令嬢に負わせたのだ。お前は婚約者としても、騎士としても失格だよ」
「そ、んな……」
ちょっと分からせようと思っただけだったのだ。今後の二人の為に、なると思っていた。
結婚前までは、華やかな都会の女性と多少遊ぶのだって勉強なのだと。そうやって学んだことをエミリアにも教えてやって、彼女ももっと洗練された女性になれば良いと、思っていたのに。
もう、エミリアは僕のものではないのか。
◇
あれから私は病院でしっかりと診断書を取り、それを盾に交渉して早々に婚約破棄をした。父は多少ごねたが慰謝料を差し出すことで納得させた。確実に向こうの有責だから、さほどの傷にもならず次の婚約者を探せば良いと思ったのだろう。
しかし街中でまことしやかに囁かれる噂話によると、私はあの温厚なサイラス様を激怒させた礼儀知らずの性悪女であるらしい。扉の外で話を聞いていた人たちから流れたものだろう。市井の店になど入らない父はまだ気付いていないようだ。
このわずかな時間の猶予を利用して、私は精力的に活動した。
まず、学園の同級生であるエルドアン殿下に接触を図った。彼は隣国アペルティアンからの留学生で、比較的自由に動ける立場の第三王子である。学園卒業後は外交に携わる予定で、見識を深めるための留学であるらしい。定期的に行われる学力試験でも私か彼のどちらかがトップであったから、挨拶を交わすこともあったし互いに分からないところを質問し合うこともあった。だが、それ以上の私的な話は一切したことがなかったのだ。彼に婚約者がいないことは噂に聞いていたけれど、私にはサイラス様がいた。妙な噂でも立てられては良くないと異性関係には殊更気を配っていたのだ。
でも、もうそんな配慮もいらない。
「エミリア嬢、足を痛めている……? 不躾な質問をすまない、歩き方が少し気になったんだ。でも、もし私で力になれることがあれば手伝うよ」
私の様子を一目見て、エルドアン殿下はすぐに気遣ってくれた。よく気が付き、優しい方なのだ。
いつもなら「問題ありませんわ」と答えて終わるところを、ここぞとばかりに遠慮なく相談させていただいた。婚約を破棄したことと、その理由。今の私が噂されている内容、そしてそんな状態だからこそもうこの国を出たいのだと。
「アペルティアンでは女性も自立して仕事を持てると聞きましたわ。私、周辺五ヵ国語は話せますし、読み書きだけならあともう二ヵ国語出来ますの。通訳でも翻訳でも構いませんし、計算もご存じの通りそれなりに得意ですから税吏のような仕事も可能かと思います。領地経営に関する処理でしたら既に習得済みですし、資料整理の雑務でも構いません。料理は流石に出来ませんけれど、お茶でしたら美味しく煎れられると思います。あの、アペルティアンにお連れ頂けたら、あとは自分で何とか致しますので……殿下がお帰りになる際に、同行させてはいただけませんでしょうか?」
目を丸くして私の話を聞いていた殿下は、段々とその表情を喜色に染めてがっしりと手を握った。細身だと思っていたけれど予想以上に大きな手だ。アペルティアン人特有の褐色肌が、私の白い肌と重なって一層際立つ。初めて触れたエルドアン殿下の手は、少しだけ冷たかった。
◇
「お父様、これまで私を育てていただいたこと、感謝いたします。素晴らしい教育を施していただいたお陰で使節団にも選ばれましたわ。我が家の名を汚さぬよう、精一杯努めます」
「あ、ああ……そうしなさい」
「お母様、お見送りをありがとうございます。最後にひとつだけ、毎晩肌に塗っている緑の草は薬効がありませんし逆にかぶれますから、おやめになったほうがよろしいですわ。代わりに煎じ薬のレシピを書いておきましたから、侍女にでも渡して試してみてくださいね」
「あら、そうなの? どうりで最近かゆみで寝られなかったのよ。オシャレは我慢と思って頑張ってたのに、駄目だったのね~。ありがとう、エミリア。やってみるわ」
今日、私はこの家を出る。アペルティアンに行けば、そう簡単に帰ってくることは出来なくなるだろう。エルドアン殿下が用意してくれた使節団の立場はそういうものだ。
親の死に目にも会えなくなるかもしれないし、これまで築いてきた人脈や友人なども全て置いて行く。それでも、構わない。
「行ってまいります」
さようなら。私を大事にしてくれなかったお父様。
さようなら、私に興味がなかったお母様。
さようなら。私を蔑み、馬鹿にして、嘲ったこの国の皆。
さようなら、サイラス様。この国を出る決心をさせてくれて、心から感謝しています。
「──良かったの? 縁を切るなら手続きをして行った方が一度で済んだと思うけど」
「いえ、良いのです。もう会わないというだけで、今の私に知識を授けてくれたのはこの家の娘であったが故ですから。辛いことも多かったですけれど、それが巡って殿下のお役に立てるのでしたらありがたいことですわ」
隣国へ向かう馬車の中。エルドアン殿下は片肘を突き、少し面白そうに言った。彼は伯爵家を出て、アベルティアンの貴族家と養子縁組を整える提案もして下さったのだ。さらには今後、殿下の側付きとして外交のサポートを任せてくれるとも。
「まあ、君が吹っ切れたなら構わないよ。第三王子なら、伯爵家の娘でも問題なく釣り合うしね」
「……え?」
「ふふっ。いいや、まだ。でも近いうちに協力を頼むかもしれないから、その時は頼むよ」
「え、ええ勿論。私にできることでしたら」
「君にしか出来ないことだね。ははっ、案外君は無防備で可愛らしい! ──これからが楽しみだよ」
大きな声で笑い声をあげても、エルドアン殿下は上品だ。
旅の間に幾度も食事を共にしたけれど、嫌な気持ちになることなんて一度もない。旅慣れない私を気遣って下さり、間違っても手首を力いっぱい掴むエスコートなんて絶対にしない。話題選びもお上手で、ユーモアもあるが誰も貶めず傷付けないその塩梅が絶妙だ。
きっと、この方となら。ずっと共に過ごしても、無理せず穏やかに心地良く過ごせると思う。
逃げ出したいと縋った私に快く手を差し伸べ、救ってくれた彼だから。
これから、精一杯力になろう。私の持てる全ての力を使って、恩を返そう。
「これから末永くよろしくお願いいたしますね、殿下」
何故か急に耳を赤くしたエルドアン殿下が、妙に可愛らしく見えた。
◇
聞くところによるとサイラス様はあの後新しい婚約者を探し始めたものの、難航しているのだとか。
幼い頃ならともかく、この年齢になれば顔合わせは食事会の形式がほとんどだ。そうなれば結果は聞かなくともわかる。一切食事の場を共にしない、ビジネスライクな契約夫婦ならなんとか……見つかる可能性もあるだろう。
また私の実家では母が懲りずに手を出した美容関連の品に問題があったらしく、火消しや資金繰りに苦労しているようだ。あまりにも母を放置していた父が悪いと思う。あのような女性を妻として迎えたのだから、お金を与えるだけでは遅かれ早かれ同じことが起きていただろう。これまで私がそれとなく危険そうなものを排除していたのだし、今後は夫として責任を持って引き継いで欲しい。
社交界でも問題ありの家として顰蹙を買っているようだが、賢いお父様のことだ。きっとなんとかするだろう。
そして私はといえば、予想外に押しの強かったエルドアン様に陥落する日も近い……かも、しれない。