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わたしの最期の願いを聞いてほしい

「お姉ちゃん、もうダメみたい。ごめんね、リコット」


 この日は、この季節、この場所においては珍しく快晴で、窓から差し込む強い陽光は、薄いカーテンを通ってなお強く、ベッドの中で浅く呼吸を続ける女の顔に注いだ。その眩さは、まるで白紙の様に乾き、枯れている彼女を、天国まで連れて行ってしまうのではないかとリコット・ダゲレオは思った。


「違うよ、お姉ちゃん。だって、お姉ちゃんは『大』魔術師なんでしょ? こんな病気ぐらい、跳ね飛ばしてよ」


 リコットは布団からはみ出た彼女の手を強く握った。


『あっはっは、リコットはのろまだなあ』

『ずっといじけてても、お父さんに怒られるだけだよ』

『ほら、早く、立って! お姉ちゃんが守ってあげるから』


 いつの記憶だろう。酷く昔な気もするし、つい最近の出来事だったとも感じる。物心ついた頃には始まっていた、自称『由緒正しき家系』の父が取り仕切る、辛い修行の日々。そんな中、姉であるライカだけがリコットを守ってくれた。怖くて歩けなくなっていたリコットの手を握り、引っ張ってくれたのは、いつだって姉のライカだった。


 ――そのライカの手が今は、まるで湿気た石のように固く冷たい。


「大魔術師って言ってもね、運命には逆らえないんだよ。わたしは、ここで死ぬ。いいんだよ、もうわたしは、やりたいことはやり切ったんだ……大体ね」


ライカの視線は、リコットには向いていない。ベッドの中、ただ真っすぐ天井を向いている。


「死ぬ前に、もう一度わたしの可愛い妹に会えてよかった。部屋から出てこなかったらどうしようかと思ってた。いっそのこと、魔法で連れてきちゃおうかなって」


 ライカの口角が、僅かに持ち上る。


「そんなこと言わないで。何度だって遊びに来るから……」


「来てくれて嬉しいよ。ちょっと心配だったんだ。もう長く部屋からほとんど出てないって聞いてたし」


「それは……」リコットは口籠った。


「ごめんね、わたしが旅ばっかりしてて、家に帰ってなかったからだよね」


「それは、わたしが弱いから……だから……」


 ず、と鼻をすすって目をこする。もう、リコットは姉の顔を直視できない。


「わたしが、守ってあげればよかったんだよね。駄目なお姉ちゃんでごめんね」


 違う、違う、と、そう言いたかったのに、なぜか涙と嗚咽でリコットはそれ以上言葉が出なかった。


「でも、最期にリコットが自分でわたしのところに来てくれて、本当に嬉しいんだ。リコットは出来る子だよ。それは、お姉ちゃんが保障する。あのね、ごほん。大魔術師様がそういうのだ、だから、もうリコットは大丈夫。お父さんなんて気にするな、リコットは、リコットの好きに生きればいい」


 芝居のように大袈裟な口調でライカは言う。そう言いながら、ゆっくりと身を動かし、空いたもう片方の手をリコットの頭に掛けた。


「お姉ちゃん、そんな、無理しないで」


「ううん、これが今、わたしが一番したいことだから」


 そういって、ライカはリコットの頭を不器用に撫でた。リコットはつい、布団の端を掴んで顔を埋めた。視線すらまともに定まらない姉の様子を見るのがあまりにも辛かった。


「リコットは強い。思い出して、技のライカと力のリコット。わたし達姉妹で、打ち破れなかった試練はなかったでしょ?」


 オビュリシカ王国最高の魔術師としての栄誉〈救世大魔術師〉を与えられた若き才能ライカ・ダゲレオ。たった一人で国中を旅し、霊峰竜ビフレストを討伐し、世界樹の種を持ち帰り、疫病蔓延る辺境の地で、二千もの命を救った英雄。それが今、たった一人の妹の頭を撫でるのにも肩で呼吸をしなくてはならない。


「お姉ちゃん、もういいから」


「そっか。もう子供じゃないもんね」


 寂しそうにそう言って、ライカは手を止めた。


「そうじゃなくって……」


 リコットは、ライカと目を合わせる。もう、そこにリコットが映っているのかも確信は持てなかった。ただ、ベッドにゆっくりと体を戻そうとする姉の肩に、リコットは慌てて手を掛け、そっと、なるべく刺激にならないように気を付けながら寝かしつける。


 そうして漸く、姉は乱れた呼吸を落ち着ける。ベッドに収まったライカの胸が、ゆっくりと上下する。ライカは誰よりも強くて頼りになる自慢の存在だった。だけど、今やそれはこんなにも弱弱しくベッドの中に埋まっている。


 昔は、姉に色んなことを教わった。


『魔導書の読み方はね、コツがあるの』

『呪文を唱えるときはとにかく胸を張って!』

『足腰も大事だけど、体重移動とか、体幹も意識するの。わかるかなあ、背骨とか、その周りの筋肉で体の軸ってのを考えてね……』

『剣術かあ。じゃあ、ちょっと振ってみな。お姉ちゃんが見てあげる』


 ふと、思う。そんな姉に、自分はずっと与えられてばっかりだった気がする。


「……ねえ、お姉ちゃん、わたしに何か、できることはない?」


 それは、深く考えて出た言葉ではなく、ふと彼女の口をついて出た不意の一言だった。


「リコット……」


 わざわざ首を傾けて、姉はリコットを確かに見た。まるでもういなくなってしまう様な、虚ろなそれではない。昔、二人でしょうもない悪戯を考えていた時のような、そんな瞳。それが嬉しくて、ついリコットは前のめりになって姉の前に顔を突き出した。


『お父さんのパンに芋虫入れておこうよ!』

『お父さんの剣の鞘の中を水でびちゃびちゃにしようぜ!』

『お父さん、朝起きたら口の中に蜘蛛がいたら流石にビビる説を検証しよう』


 幼い日の姉の目の輝きたるや!


「なんでもいい、なんでもいいから、今、わたしにできることってないかな! その、お姉ちゃんに比べたら、わたしなんて大したことは出来ないけど……」


「リコット……」


 ライカの目が、一瞬だけきらりと光った。潤んでいる。さっきまで乾ききった紙切れのようだった彼女の顔に、確かに生気をリコットは感じた。


「そっか、あのね、ちょっとだけ……我が儘言っちゃおうかな」悪戯っぽくライカは微笑む。そうだ、昔から、そういう顔が似合う子供だった。


「うん。なんでも言って! わたしにできることなら何でもするから!」リコットは唾を飛ばし、縋るように言った。


「じゃあね、男の人の■■■■が見たい」


「今なんて言った?」


 聞き間違いだろうか。リコットの表情が凍り付いた。この日は、この季節、この場所においては珍しく快晴で、窓から差し込む強い陽光は、薄いカーテンを通ってなお強く、リコットに注いだ。しかし、リコットのその表情は、まるでそれを受け付けず、冷気すらうっすらと放っているように見えた。


「聞こえなかった……かな?」それまでの白い顔が嘘のように、ライカの顔が赤く染まっていく。恥ずかしそうに顔を反らし、縦しんば己の頬に手を当ててはにかんだ。


「あのね、■■■■が見たいの。あ、もしかして、リコットは知らないかな。■■■ともいうんだけど」


「いや、あの……」困惑を押しのけ、リコットは喉の奥から音を絞り出したが、それはまるで声にはならなかった。聞き間違いであってほしい。まさか、今際の際らしい姉の口から、あまりにも下品な言葉が飛び出した気がしたのだが。


「■■■■! ■■■! ■■■! ■■■です! 知ってる? あー、もしかして知らないのかなー? リコットったら初心なんだから……あのね、■■■■っていうのはね、リコットは知らないと思うけど、男の人のお股に……」顔を真っ赤にしつつ、姉は目を爛々と輝かせて語り始めた。


「知っとるわい」


 そうして、リコットの口から飛び出た言葉はあまりにも冷たく尖っていた。


「え……知ってる? この姉よりも先に、■■■■を……知っている……だと?」


 次に凍り付くのはライカの番だった。彼女の目がばきりと開ききり、妹を見つめた。この日は、この季節、場所にとっては珍しく快晴で、窓から差し込む強い陽光は、薄いカーテンに緩和されてなお力強くライカに以下省略。


「待って、わたしが大陸全土、全国各地津々浦々を巡ってあらゆる厄災を退けている間に、妹が姉に先んじて大人の階段を……?」


 がたがたがたがた。ベッドが振動し始めた。それは他ならぬ大魔術師ライカが、目の前の現実を受け入れられず恐怖に慄き震え始めたからである。心なしか、あれだけ晴天だったはずの外は陰り、気圧もどんどん下がっていくようだった。リコットは仄かな頭痛を覚え始める。


「違う! 何言ってんの、この馬鹿姉! なんか心配したわたしが馬鹿みたい!」


 リコットは勢い良く立ち上がってベッドに背を向ける。


「あ! 違うの! 待って! お願い! 一生のお願い! 一生のお願いだから!」


「今それ使う?」


 姉の悲痛な叫びに対し、リコットは冷たく言い放つ。


「……うん。使う」


チッ。リコットは改めてベッドに向き直り、傍の椅子に座った。


「で、なんだっけ?」そして足と腕を組み、ライカへ訊ねる。


「ちょっと待って。今お姉ちゃんに舌打ちした?」姉は不満に満ちた視線を妹に送った。リコットは露骨に顔を歪める。


「……やっぱり帰ろっかな」妹は素早く身を揺すり、帰る素振りを見せた。すると姉は手を伸ばし、妹の服の裾を掴んだ。


「嘘ですなんでもありません。それでね、お話聞いてくれる?」


「一生のお願いなんでしょ」つん、とリコットは言う。ライカは改めて深呼吸すると、リコットの目を深く見た。


「お姉ちゃん、男の人の■■■■が見たいの。本当に。嘘じゃないし、ふざけてもないよ」


 やっぱ帰るね、という言葉をリコットはぎりぎり飲み込んだ。とはいえ、ライカのお願いは普通、真顔で言うことではないと思うことだけは否定できなかった。それが、表情に滲み出て、皺という形で刻み込まれる。


「あのね、お姉ちゃんずっと、あまりにも強すぎて、ずーっと一人で旅をしてきたでしょう。だから、仲間もいないし、当然男の人とも……ね?」


 ね? じゃないが。リコットは呆れてものも言えない。溜息をつきたいが、こんなことで『一生のお願い』を使った姉の手前、何とか堪えた。


「それでね、それだけがちょっと後悔なんだ。二十歳も超えて、男の人と、ほとんど喋ったこともないんだよ? でも、もうこんな体なんて誰にも見せられないしさ。首から下なんてほんと凄いんだよ。骸骨にそっくり」


 姉はそう言って笑って見せる。しかし、その目には涙が浮かんでいた。ついさっきの饒舌な様子とは打って変わって、その顔には明らかな悲しみが浮かんでいる。


「だから、男の人とお付き合いするのは諦めました。でも、死ぬ前に折角だからさ、見てみたいじゃん」


「……何を?」リコットはつい、もしかしたら何かが変わってはいないかと期待して訊ねた。


「男の人の……」


「やっぱ言わなくていい!」リコットは思わず遮って立ち上がった。


「じゃあ!」ライカは期待に目を輝かせる。


「いや、それは無理。わかったから、お父さん呼んでくるね。見せてもらえばいいじゃん」


「ああああああ! そんなんじゃないのはわかってるでしょ! なんかこう……なんかこう……違うじゃん! わかるよね!」ライカは悲痛な叫びをあげる。


「くっ」リコットは押し黙った。気持ちがわかった。わかってしまった。父親のを見ても何も思わないだろう。むしろ嫌悪感すら覚える。


「ねえ、なんとかならないかな? あのね、とっておきの作戦があるの!」ライカは改めてリコットに訊ねた。


「いや、無理でしょ。無理無理!」リコットは姉の手を振りほどき、まるで逃げるように走り出す。椅子が足に引っかかり、盛大に倒れるが、もう気にしてなどいられなかった。


 しがみ付くようにドアノブに手を掛けて、回す。開ける。そして廊下に転がり出た。振り返ることもせずに、ドアを叩きつけるように閉じる。ゆっくりと呼吸を落ち着ける。


 この廊下はちょうど、家の外側に巻きつくように作られている。窓からは当然日が差しているが、方角が違うおかげで姉の病室よりもどこか優しく、涼しげにもリコットは感じた。まるで宥められているようだった。


 ここは、リコットとライカの家族、ダゲレオ一族の別荘地。この廊下も、幼いころ何度も訪れた。豪奢ではなく、あえて木目を前面に出した柔らかな雰囲気が特徴のそこに、一人の男が立っていた。


「あ、ロッカさん……」


 二十六歳、ライカが所持する魔導具の特許や種々の権利を管理する商会の代表にして、姉の右腕ともいわれる男。それが、このロッカ・フォクシーだった。すらりとした四肢に、乗っかっていて当然と言わんばかりの切れ長の目の男。ついでにまつ毛まで長い。かっこいい、という言葉よりも、いっそのこと美人と呼んで差し上げたい顔つき。そして、彼が纏う服装も、一丁前の商会の代表らしく、貴族に負けない折り目も布地もしっかりしたものだった。しかし、それなのに、装飾は抑え目で、きちんと時と場を弁えた男だと分かる。顔だけではない。その内面もまた整った紳士である。


「あの、聞いてましたか……?」


 姉の痴態、或いは乱心としか言えない馬鹿騒ぎ、仮にも国を代表する大魔術師の世迷言。聞かれていたとなれば大事である。


「いいえ。この部屋はライカ様が発案した防音魔術の粋を集めて作られています。この部屋の中で起きたことを知ることができるのは、かの魔王とて困難でしょう。全て、今日、あなたと最期のお話をしたいから、と」


 そう言われると、リコットは黙り込むしかなかった。


「お話の内容は訊きません。ですが、不躾ながら、一つ。よろしいでしょうか」


 ロッカは丁寧に前置きをした。ここまで言われては、リコットはもう、頷くしかなかった。


「ライカ様は、現在二十三歳にして、これまでに世界を四度は救っている偉大なるお方です。そんな方が、つい先週、どうしても妹さんに会って、最期の頼みをしたいとわたしに言ったのです。一生のお願いだと、そう言っていました」


「あ、あの馬鹿姉め……」リコットはぶつりと呟く。


「それはきっと、わたしにはできないことなのでしょう。わたしはただの、ライカ様に書類の管理を任されている一介の従者です。それが、悔しくてたまりません」


 その表情は暗く、彼の拳はずっと握られたままだった。リコットの言葉は聞こえなかったようだ。


「様子を見ればわかります。きっと、大魔術師様の最期の望みとは、わたしや、どんな勇者であろうと実行は困難な、とても危険で恐ろしいことだと思います。ライカ様、いいえ、リコット様の一族、ダゲレオ家に受け継がれる力の内容はわたしも知っておりますので。だからきっと、口に出すのも悍ましく、誰だって耳を塞ぎたくなるようなことでしょう。でも、逃げないで、せめて最後まで話を聞いてはくれませんか。それだけでいいのです」


 ロッカの全身が震えている。歯を食いしばり、苦々しげに床を睨んでいる。


「こ、この……」


 リコットもまた拳を握り締めた。くそ、こんな男にまで何を背負わせているんだ、うちの馬鹿姉は。


「あああああああああああああっ!」リコットは叫び、自分の中の全てを追い出した。素早く踵を返し、姉のいる部屋に戻る。そして、ぼうっと窓の外を眺めるライカの元に戻った。


 ライカは、鬼の形相でいる妹を見て目を丸くした。対して、リコットは腕を組んで鼻息荒く怒鳴りつける。


「一回だけだからね! 一回だけ、その作戦の、内容だけは聞いてあげる!」


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