三男:いつもの朝
その人物が居間に入ってきたのは、月次郎が朝食を食べ始めたときだった。
「おはよう」
「…………」
月次郎から声をかけるも、三番目の兄、風夜から反応はない。
この兄が昔から低血圧ぎみであることを知っている弟は、特に気にすることなく目玉焼きを口に放り込む。
風夜はほぼ開いていない目で身体を折るようにして食卓に座ると、その体勢のまま動かなくなった。こういうときはエンジンがかかるのを待つしかない。
「何か飲む?」
やがて食べ終えた月次郎は、席を立つと同時にさりげなく尋ねた。
「……いい。自分でやる」
時間を置いたからか、今度はきちんと返事が返ってきた。
食器を流しに持っていきながら、
「そういえば夜、父さんと通話する予定だけど。風兄は?家にいる?」
月次郎がそう声を掛けると、ほんの少し顔が持ち上がった。
黒い前髪の隙間から切れ長の涼しい目と通った鼻筋がこちらを向く。
「いや、帰りは遅くなる。電話でまた今度話す」
端的な返事に、わかった、と月次郎は相槌を打った。
大学院に籍を置く風夜の生活スタイルは、中学生の月次郎からすれば掴み所がない。
研究室に行くと言って大学に行く日もあれば、休みの日はバイトをしていたりする。
そして朝に弱いこの兄が、なぜ予定がない朝も自分と同じ早い時間帯に起きてくるのか、月次郎はいつも不思議に思っていた。
その理由に気付いたのは中学に上がった頃だった。
一文字家に母はいない。
すでに亡くなっているからだ。
そして父親はというと文具メーカーに勤めており、数年前から頻繁に海外出張が入るようになった。その流れで、現在は単身で海外暮らしをしている。
社会人の次男はとうに家を出ているし、四男の朔乃は大学一年生でいつも朝が慌ただしい。長男はいつもいるとは限らない。そんな中、まだ子どもである末っ子が朝食を誰かと一緒に取れるようにと、苦手なはずの朝に起きてくるのは三男である風夜なりの気遣いの現れだった。
「それじゃ、いってきます」
元気よく出て行った弟を見送った風夜は、壁際のカレンダーに視線を向けた。
しばらく眺めてふっと息をついたあと、ゆっくりと立ち上がって朝食の支度を始めた。
***
さて。
話は変わってこの三男、人に見えないものが視えたりする。
月次郎が家を出てから数十分後。出かける支度を整えた風夜は大学へと向かった。
最寄りの駅で降りたあと、コンビニに立ち寄ってから線路沿いを歩く。
途中、踏み切りを渡ろうとしたところで警報器が鳴り始めた。こればかりはタイミングだ。仕方ないとばかりに風夜は立ち止まる。
正面に目を向けたとき、それに気が付いた。
線路を挟んで向かい側、ゆっくりと降りてくる遮断機に触れそうなほどギリギリの位置に、女が立っている。うつむいた表情は見えない。足下は裸足である。
異様な雰囲気だがすぐ近くに立つ人々が気にする様子はない。
「…………」
風夜はわずかに目をすがめた以外、すこしも表情を変えなかった。
やがてけたたましい音とともに電車が通過していき、遮断機が上がる。
女の姿はどこにもなかった。
付近の地面に束ねられた白い花から、柔らかな香りが鼻に届いた。