小さな翼④
ゴールデンウィーク明けの登校が、これ程までに清々しいのは生まれて初めてだった。
それは勿論、葉月さんと会話できるからだ。ほんの2日前に会ってはいたが、それでも心待ちにしているのには理由があった。
5月5日に葉月さんに会った時、とある本を例の小説と引き換えに彼女に渡した。
君に贈る歌。そういうタイトルの漫画で、巻数は5巻とそれほど多くないため、僕は一度に全てを葉月さんへ渡した。感想戦を行うのが他の何よりも楽しみであったから。
「川端くん、おはよ!」
「うん。おはよう」
教室へ入るなり、すぐに彼女から声をかけられる。朝のHR前ではあるが、早速感想を聞かせてもらおう。
「漫画読んだよ!とっても面白かった」
「そう言ってもらえて、貸した甲斐があるよ」
「主人公とヒロインのやりとりが絶妙だったよね。それと・・・・・・」
すると、その漫画の3巻を鞄から取り出した葉月さんが、何やら妙なことを言い出した。
「この漫画を貸してくれたのって、私が弾き語る以外にも何か理由があるの?」
「???いや、特に深い意味はないけど、前にも言ったように小説からコミカライズした作品で、僕がとても感銘を受けたものだから、葉月さんにも見てもらおうかと思って」
この漫画は、原作が小説で発行部数がそれなりに増版されたおかげで漫画化された作品であった。ライトノベルがコミカライズされることは良くあることだが、小説がそうなることはそうそう無い。漫画化を決めた出版社の英断には頭が下がると言ってもいいくらい素晴らしい作品だと僕は思っている。
君に贈る歌という小説は、文字通り主人公と関わりのある人々に対して、ギターを弾きながらその相手を鼓舞するという話で、留学するクラスメイトや病気の幼なじみ、そして彼の創作(作曲)活動に大いに携わるヒロインへ彼の想いを歌に乗せて贈る内容である。
確か3巻の内容だと病気の幼なじみ女子とのやりとりがメインだったな。その子の日常に対して卑下する姿が、葉月さんはあまり好きではなかったのかもしれないな。
「いや、特に注視すべき点はなかったと思うけど・・・・・・」
「そっか。ならいいんだ」
そう言った葉月さんの寂しい表情が、僕はどうにも引っかかる。まさか葉月さん、悲劇のヒロイン的な境遇、というか病でも抱えているというのか。
そんな要らぬ勘繰りにより午前中、僕の頭の中はモヤモヤで雲がかっていた。
「川端くん、お昼ご飯、一緒に食べようよ」
「えっ・・・・・・」
不意に飛んできた葉月さんの言葉に、僕はつい口籠もってしまう。僕の昼食の時間といえば、読書やスマホをいじりながら一人で黙食が通例であったからだ。
それでも、拒否する理由が見当たらない僕は彼女の提案を了承した。
「じゃあ外で食べよ!」
葉月さんの言われるがままに、僕らは弁当を持って教室を後にすることになった。
周囲の視線が気になる、というか何故だか痛い。好奇な、というよりも嫉妬に通ずる何か。葉月さんは何も感じていないのだろうか?
あれこれ考えているうちに、僕は中庭へと導かれていた。正直、ここへ来るのは初めてに近い。全くと言っていいほどこういう場所には縁が無かったからだ。
12時過ぎの太陽の日差しが思ったよりも強かったため、大木のすぐそばにある陽の陰ったベンチへと僕らは腰をかけた。
そこに座る二人の距離は買い物に行ったあの日よりも遠い。なぜなら、二人の間にお互いの弁当箱や水筒がまるでシンメトリーの如く向かいあって置いていたからだ。むしろ、心の距離感はより一層縮まっているように僕は感じた。
「今日はお弁当なんだね」
「うん。今日は母さんが自分の弁当を作るついでに僕のも作ってくれたから」
「ついでなの?」
「そうだよ。あの人の気分によって僕のお昼が手作りになるかコンビニになるか決まるから」
僕の母は自分本意でしか行動しない。子供のためではないことはこの弁当にも見てとれる。彼女の好きな大学いもが多くの頻度で入っているから。それに僕の嫌いなチーズ入りハムカツも彼女にとっては大好物だから普通に入れているのだ。それでも作ってくれることに対して、僕は誠心誠意を以って最後まで食すことに決めている。
「葉月さんはそのお弁当、自分で作ったの?」
「そうだよ。私の方は、お父さんにもついでに作ってあげてるの」
葉月さんの家庭事情は少なくとも聞いていたから、彼女がお弁当を作っていることは何となく想像がついた。毎朝のように料理をしていることに対して、自然と僕は彼女に尊敬の念を覚え、こう一言告げる。
「偉いね、葉月さんは」
「そう?学費はお父さんが払ってくれてるんだから、褒められることなのかな」
そう話す彼女の人となりに、僕は素直に尊敬するのだ。到底凡人、しがない学生には行き着かない心遣い。
「そういう考えを持っている時点で称賛に値するよ。ごめん、偉そうに言って」
「ふーん。まあ、でも川端くんがそう言ってくれるんなら、エッヘン!」
「なに?急に偉そうにして」
気を良くして殊勝な態度を見せる葉月さんに対して、僕が冷静に突っ込みを入れると彼女は、
「だって、川端くんが偉いって言うから素直に受け入れようかなって」
と、箸を持ったまま両手をグーにして腰にあて、胸を突き出して全身であだち充の作品に出てきそうな人物を表現して見せる。
「ところで、何でお昼誘ってきたの?クラスメイトに色々と勘繰られるかもよ?」
少し意地悪を込めた僕の問いに、彼女は意外と冷静な返答をしてきた。
「別に気にしてないよ。クラスメイトの何人かは、私が川端くんと仲いいのは知ってるし。知らない人が噂してても、きっと奏凛あたりが上手く言ってると思うよ」
全くもって冷静でいる葉月さんに、何だか僕の専売特許が奪われているような気がする。
「でもなあ・・・・・・」
「むしろ、面白いことに発展してたらいいなって思ってる」
「えっ・・・・・・」
卵焼きを軽快に頬張る葉月さんとは対照的に、僕はご飯が喉を通らなくなってしまった。
言葉を詰まらせる僕に、葉月さんは少し物憂げに話しかけてくる。
「ちょっと教室では話せないことを暴露しようと思って」
「・・・・・・」
明らかに先ほどまでとは雰囲気の違う葉月さんに僕は返す言葉が見つからない。今は彼女の次の発言に注視するしかないと、この時の僕は考えていた。
「ダンマリしちゃたね。そうなるよね・・・・・・あのさ、わたし、中学生の頃、病気で入院してたんだ。あの漫画の子みたいに」
自然と青空を見上げる葉月さんの表情は優しく澄みきっている。それとは対照的に会話の内容は、僕の心情を暗澹たるものに誘いつつあるのだけれど、それでも彼女から目を背けることはしないでおこうと思った。
だって、今はこうして元気でいるのだから。
「あの子は残念なことになったけど、わたしはピンピンしてるからね。だから安心して」
「・・・・・・信じていいの?」
「うん。でも通院はしてるんだよね。経過観察だっけ?血液検査の値を定期的に調べて異常がないか確認してるんだって。お父さんは仕事が忙しいからお母さんと行くんだけどね、その時に母の日プレゼント渡そうと思って」
神妙な面持ちでそう話す葉月さんに、僕から猜疑心は湧いてこない。
それでも、どうにも感傷的にならずには入られない僕に、葉月さんは優しくフォローしてくれる。
「本当に大丈夫だから。ほら、ご飯食べよ!」
「・・・・・・うん」
食事の間、僕らのあいだに沈黙が流れる。正直、「神様は二物を与える」なんて言葉は人間の考えたただの御都合主義の産物だ。
この世の大多数の人々の妬み、嫉みから現れた偶像であるからこそ、世に広まった言葉であって、実際は葉月さんのように、好意的な外見と内面を持ち合わせていても、どうにもならない先天的不利や病気を与えられてしまうこともあるのだ。
人はそういう他者がいるからこそ自分が自分でいられると、とんだ思い上がりをするのだろう。そして、こうした事実があるからこそ、世界の調和が保たれるのだろうと勝手に想像してしまう。
「順番が変っちゃったけど、漫画貸してくれてありがとね。ホント面白かった」
「喜んでもらえてよかったよ。主人公とヒロインの掛け合いが秀逸だったでしょ」
「そうだねー。なんかヒロインの子、川端くんみたいだったよね」
「そう?というか女性?」
「理屈っぽいところが。それに何かと否定的なところとか」
葉月さんは笑みを零しながら、僕とヒロインの特徴を言葉に並べる。
「・・・・・・まあ、そうかもしれないね」
「あれっ、なんか川端くん否定しないし!」
何だかバツが悪そうにこめかみを掻いている葉月さん。別に意表を突いたわけではなかったのだけれど。
「別に僕だって、納得できれば素直に受け止めるよ。確かに絵美の性格は、どこか男子、というか男性特有の理屈っぽさがあるよね」
そう僕が葉月さんに賛同すると、彼女はじと目で僕に何かを訴えかけている。
「?どうしたの??」
「川端くんも女子に対して、下の名前で呼ぶことがあるんだね」
何故か怪訝な表情を浮かべている葉月さん。うーん、その理由が皆目見当つかない。
「いや、小説や漫画の人物だけだよ。流石に私生活では使わないんだけど・・・・・・」
「えー、使えばいいじゃん。私とかさ」
「・・・・・・」
恒例の葉月さんのからかいが始まったと思った僕は、
「そういう葉月さんこそ、僕の事を苗字で読んでいるよね?」
と、下を向いて弁当を食べながら鋭くからかい返しをしてみせた。これではきっとぐうの音も出ないだろう。すると葉月さんは更にこう切り返す。
「えー、なになに?川端くんは私に下の名前で呼んでほしいの?」
恐らくニヤニヤしているだろう彼女は、僕の方へ顔を近づけてくる。
「別に。ただ僕だけだと不公平と思って・・・・・・」
そう呟きながら、僕はご飯を口にした。
「話しかけてもいいけど、基本私の方が先に川端くんに話しかけるし、声も比較的大きいけど大丈夫?結局、色々と噂になるかもよ」
「・・・・・・それはお互いに都合が悪いから、やはり苗字で呼ぶことにしよう」
「あー逃げたー。やっぱり恥ずかしいんでしょ?最初からそう言ってよー」
結局、なんて事ない不毛な話を続けた僕ら。まあこれがコミュニケーションというものだから無価値なんて野暮なことは思わないけれども。
「そういえばさ、あの漫画、小説もあるって言ってたよね?」
「うん。三冊くらいかな」
「貸してほしいな」
「別に問題はないけど、葉月さん先日購入した本、まだ読んでないよね?」
「そうだよ。でも小説も読んでみたくなったの!まずはそれを読んでからバイオリンの子の話読みたいんだ」
「なんか順番が逆のような・・・・・・。それに僕のと交換できるのはいつになることやら・・・・・・」
それでも彼女の説得に敗れ、後日その小説版も貸すことになった。まあ意外にも、しっかり読む時はすんなりと進めているようだし、感想も楽しみだから不満はないのだけれど。
昼食を終えた僕らが教室へ戻ると、早速葉月さんの親友である小出さんが彼女に話しかけてきた。
「みっちょん!みっちょんの言う通り、みっちょんと川端くんのこと、色々聞かれたんだけどー。まあフォローしといたけど」
「ありがとね奏凛。今度飲み物でもおごるから」
「スタバの新作で許してあげる」
二人のやりとりを聞いて、申し訳ない気持ちになりつつも僕は自分の席へと着く。すると、斜め前の席のクラスメイトの男子に話しかけられる。
「川端くん、最近葉月さんと仲良いよね。もしかして付き合ってるぅ?」
椅子の背板に腕を抱えながら前屈みに座る彼。興味津々な彼の素振りに、おざなりな対応をとろうか、もしくは僕らしくあけすけにものを言おうか考えたが、葉月さんのこともあり、
「ご想像にお任せするよ」
と、その場をやり過ごそうとした。それでも彼は話すのをやめない。
「何だよそれぇ。付き合ってるでしょう絶対」
「・・・・・・どうしてそういう考えに至るのか皆目見当もつかないよ」
彼の独特の口調とその先入観に少しばかり苛立ちを覚えてしまう僕。
「それはさぁ、1年の頃に川端くんと同じクラスだった奴に聞いたんだけどぉ、クラスではぶられてる葉月さんを守ったって聞いたよぉ。めっちゃ勇気ある奴いるなぁって、そいつが部活中に言ってたんだよぉ」
「勇気あるというか、きちがいなだけだけど」
「えぇー!自分でそれ言っちゃうー?おもろいなぁー川端くんはぁ」
人目を憚らずに笑っている彼。別に面白いことは何一つ言っていないのだけれど。その笑いが収まると再び僕に話しかけた。
「オレ、君みたいな人好きだよぉ。もちろん友達としてぇ」
「それはどうも。ありがたく心に受け止めておくよ。ところで、どうして君は僕が葉月さんと付き合ってるって思ったの?」
「だってぇ、普通守ってくれたら女子は嬉しいでしょう。しかも一度ではなく何度も。自分を犠牲にしてまで川端くんは行動したんだからさぁ、葉月さんは好意以上の感情を抱くと思うんだけどなぁ。それに彼女可愛いしね。事実、今日こうして逢い引きしてたんだからぁ、いよいよ付き合ったなって思うでしょ普通ぅ」
意外にも理にかなった彼の推測に、僕は少なからず感心してしまう。それでも完全に見誤ったその見解を正す必要がある。
「別に自分を犠牲にしたつもりはないけどね。それに、残念ながらその推測は間違っているよ。」
「そうなの?」
「うん。それにして逢い引きだなんて、随分と大袈裟な事を言うね。というかよく知っていたね、その言葉。だけど密会していたわけではないよね?思いっきりクラスメイトの目の前で、二人で教室を出たんだから」
「ははは。やっぱり川端くんらしさ出てるなぁ。的確すぎるでしょ、そのツッコミぃ」
自分で言うのも何だが、僕らしい言葉の切り返しに、顔を埋めながら笑っている彼。どうやら彼もまた僕の言動がツボに入っているようだ。
すると、落ち着きを見せ始めた彼は、再び話し始める。
「オレもさぁ、川端くんみたいに小説読んだりするんだよぉ。まあほとんどがラノベだけどぉ」
「そうなんだ。それは奇遇だね。僕もライトノベルはそれなりに読んでいるよ」
「いや、だから知ってるしぃー」
想定外だった。バリバリ部活をやっているような彼が、ライトノベルなり小説を読むなんてことを。偏見以外の何物でもない僕の思考ではあるが、彼が普段、休み時間であったり空いた時間に、読書をしている光景を全く見たことがなかったのだから仕方ない。普段から自分の机にへばりつき、読書時々人間観察している僕なのだから間違いはない。いつも彼は机に突っ伏しているかクラスメイトに宿題の解答を聞き回ることに躍起になっているのだから。
「田辺くんはさ、どういうジャンルを嗜んでいるんだい?」
「そうだなぁ、基本ラブコメかなぁ。やっぱり青春感じたいじゃん」
「いや、高校生なんだからリアルに今を感じようよ」
何気ない僕の問いかけに、やはり彼は、平常時にも柔らかい表情をさらに一段と崩し、とろとろになっていく。
「ヤバい、泣けてきたぁ。これ以上川端くんと喋ると、疲れ果てて午後寝そうだわぁ」
「睡魔に襲われるのを僕のせいにしないでくれる?」
高校生になってから、こうして僕を面白いと言ってくれる人は葉月さん以来二人目だ。
田辺塁。茶髪に軽くパーマをかけて制服のスラックスを腰履きしたその出で立ちは、いかにもといった今時の男子高校生のそれだ。僕の斜め前の席に座る彼はほぼ毎日、休み時間にバッテリー充電を行なっている。恐らくは放課後の部活のためではあるのだが、もしかすると夜遅くまでライトノベルを読んでいるのでは、と僕にとって機運の良い方向に捉えてしまっていた。