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小さな翼③

 喫茶店を出てからは、葉月さんの意思のままに行動を共にすることになった。

 まずは早速、先ほど葉月さんと話していた僕にとって人生初の楽器店に赴いた。こちらも大通りを少し逸れたところにお店があり、ショッピングセンターにあるそれとは違い、初見にはどうも入りづらい雰囲気があったが、常連である葉月さんは自然に店に入る。そこに付きそう僕も自然体を繕った。

 店内には所狭しとギターやベースが壁面に掛けられていた。壁面以外にもピアノであったりキーボード、ドラムも並べられている。ギターに関してだけでも数が多く、音楽を全然知らない僕でも圧倒された。以前に葉月さんが教室で弾いていたアコースティックギターだけでも様々あり、値段に関してもピンキリで安い物が一万円で高い物だと百万円くらいのものが並んでいる。普段見かけない値段に思わずぎょっとしてしまった。

「なになにー。川端くんもギター欲しくなった?」

 ギターコーナーを一通り見ていると、葉月さんから声がかかり、店員でなくホッとする自分がいた。全くもってギターを買うお金であったり興味を持ち合わせていないからだ。

「いや、別に。それにしてもギターって色んな値段のものがあるんだね」

「うん。アコギなんかは数千円のものからあるけど、やっぱりそれなりの音を出すんなら三万くらいのものからがいいかな」

「・・・・・・そうなんだ」

 三万円なんて、普通の高校生ではお小遣いの範囲では買えない額だ。バイトをするかお年玉を貯めておかなければ到底買えっこない。ビギナーにとってはかなり勇気のいる買い物と言える。

「エレキも大体それくらいの値段からかな」

 そう言いながら葉月さんは、何やらエレキギターを物色し始めた。すると、近くにいた若い女性店員に話しかける。

「八代さーん。ちょっとこのギター弾いてみてもいいですか?」

 葉月さんの呼びかけに彼女は近づき、

「いいですよ。アンプも繋ぐ?」

 と機材を繋ぐか提案をしてきた。なんだか本格的に演奏を始めそうな気配だ。

「いいんですか?じゃあよろしくお願いします!」

 エレキギターのジャックと呼ばれる部分にコードを繋ぎ、それをアンプに接続する。ここから葉月さんは音の変調を始めた。

 彼女は僕にゲインを上げると多少のミスタッチを誤魔化せたり、ドライブでトーンに歪みを加えるとエレキらしい迫力が伝わることを教えてくれた。

「チューニングはどうする?」との定員さんの問いに、

「あっ、何となくでいいんで適当にやります」と葉月さん。

 あれ?今までのはチューニングじゃなかったのか、と思っていると彼女はギターの柄の先にある六ヶ所のペグと呼ばれる部分を回して音程を合わせている。なるほど、六弦全ての音をこうして調整しているのか。それにしてもチューニングの道具を使わずにやれるなんて、葉月さんは絶対音感か何かの持ち主なのか?

「すごいね。何も使わずに音程を合わせられるなんて」

「別に完璧に合わせているわけではないよ。日頃からチューニングしていたら、それに近しい音には合わせられるようになっただけだから」

 そう言いながらチューニングを済ませた葉月さんは、ある曲を演奏し始めた。精悍な歌声を乗せて。


「足りない、足りない誰にも気づかれない〜」


 アコースティックギターが織り成す繊細な音色とは対照的に、エレキギターには力強さと迫力が伝わってくる。以前から感じていたこと、おこがましい考えではあるが、そのどちらで演奏しても他を引きつける何かを葉月さんは持っているように思える。 そして、それらと共鳴する彼女の歌声にも同様なことが言えた。

 今、目の前にいる彼女の指先を見ても、先ほど喫茶店で思った感情とは異なる。正確には全く気にならないと言えば良いか。あまつさえ、サウスポーということで目立つというのに、鋭く弦を移動し抑える指たちに尊敬の念すら覚える。決して上から目線で言っているのではない。今、目の前で起きている行動、光景が一つの芸術を醸し出しているのだ。全てが完璧ではない、だからこそいいのだ。


 葉月さんが演奏を終えると、女性店員が彼女に話しかける。

「相変わらずいい音出すねぇ、美千奏ちゃん」

「そんなことないですよぉ」

「いや、ホントに」

 この女性店員がお世辞を言っているのかどうかは定かではないが、音楽に何ら精通していない僕でもその音色には聞き入ってしまった。

 響き渡る弦による幾重にも及ぶ創造性に、演奏後も僕は時間を忘れてしまっていたくらいに感銘を受けていた。きっとこの先も、この感情が消えゆくことはないと思う。

「川端くん、どうだった?エレキの演奏?」

 店員と専門的な話を終えた葉月さんは、僕に感想を求めてきたので素直に褒めてみた。

「よかった、と思う」

「えー。それだけ?」 

「僕は音楽に関して、残念なくらい無知だから詳細な評価はできないよ。だけど、ただ単純には良いと思ったよ。この曲、結○バンドの曲だよね?」

 巷、とうかアニメ好きの間で話題となった作品を、僕はSNSによって知っていた。とあるライトノベル作家をフォローしていたところ、ヒットした事がきっかけである。多少の興味が湧いたので主題歌等を聞いたところ、素直に良い曲だと感じた。有名アーティストが楽曲提供したことも一因だと感じる。

「そうそう!一緒のバンドの子がそのアニメ見てたらしくてさ、その子の推しを演奏してみることになったんだ」

 笑顔でそう話す話す葉月さんに、アニメの方は見たのか尋ねたところ、

「見てないよ。その子から借りたアルバムを借りて一通り聞いてみた感じ」

 と、あくまでアニメに影響されてはおらず、そのバンドメンバーと実際に聞いたその曲に感銘を受けたようだ。彼女の演奏にその一端を感じる。

「川端くん、申し訳ないんだけどもう一曲演奏してもいい?」

「うん。時間もまだあるしいいよ」

「じゃあ一番好きな曲を演奏するね。それと・・・・・・」 

 続けて葉月さんが突拍子もないことを言い出す。

「〇〇って曲知ってるんなら、川端くんも一緒に歌ってくれない?」

「へ・・・・・・いや歌下手だし、無理だから・・・・・・」

「歌詞わかんないの?だったらスマホで歌詞見ればいいじゃん!ねっ、歌お!」

 思わず気持ち悪い声が出てしまった僕に葉月さんは、どうしてもと言って僕の拒絶を受け入れてはくれない。

「・・・・・・わかったよ」

「やった。じゃあ始めるね」

 前奏を弾き始める葉月さん。全くもって心の準備が出来ていない僕は、とりあえず小声でもいいから彼女に合わせようとする。ていうか店員もそばにいて、とても恥ずかしいのだけれど。

 葉月さんの声をなぞるように僕は声を添える。これでは一緒に歌ってはいないと第三者から見たら感じるだろう。それでも葉月さんは演奏を続ける。僕のぎこちない歌声を店員はどう思っているのだろうか。こんなゴールデンウィークの真っ只中に、他に客がそれほどいなくて幸運だ、と今はそう思うしかない。

 

 僅か5分弱。されど5分弱。体感的にこれほどまで長く感じたのは、中学時代に1度だけ出場した体操の大会。床の演技以来だ。初心者丸出しの演技で、ただただ辱められた思いだけが残ったあの5分間以来の感覚。


「川端くん、どうだった?」

 ゆくりなく葉月さんが僕に感想を求めてきたので、

「どうも何も恥ずかしい以外の何ものでもなかったよ」

 と、僕は膝を落とし、眇めながら葉月さんに現在の心情をできるだけ体現してみせた。

「えー。そんなに嫌だったのぉー?」

 残念そうな表情を見せる葉月さんであるが、こちとら人前で歌うなんて経験したことないんだから仕方ないよね。

 すると、意外にも女性定員と店内にいた数名の客から拍手を浴びせられる。まあこの讃美は九分九厘、葉月さんに向けられたものだろうけど。ていうか意外とお客さんいたんだな。どうやら僕自身緊張していたらしい。周りが見えていなかっただなんて、僕らしくないな。

「流石だねー美千奏ちゃん」

「ありがとうございます!」

「それに彼氏くんもよく頑張ったね」

女性店員のその言葉に僕ははじめ、自分のことを指しているなんて認識は全くなかった。しかし、すぐさま葉月さんの反応で気づかされる。

「違いますよぉー八代さん。彼は高校のクラスメイトで、罰として買い物に付き合ってもらってるんです」

「そんなこと言ってー。たった今、彼と弾き語ってた時の美千奏ちゃん、気持ちがこもっていたというか、生き生きしててすごく楽しそうだったよ」

「そりゃ、まあ・・・・・・川端くんとは仲いいし、素直に楽しかったですよ。ねっ?」と僕に助け船を要請するかのように視線を送ってきた。

 女性店員の鋭い指摘に、一瞬言葉に詰まった葉月さんであったが、至って普通の事だと言わんばかりの様子ですぐに言い返していた。それでも店員の、仕事モードが少し緩んでいるかのように相好を崩している様子が、彼女の本音を物語っている。

 いつしかその店員の言葉によって、僕は自然と面映くなってしまっていた。それは彼女も同じなのだろう。ほんの僅かではあるが頬が赤らんでいるのが確認できたから。

「繰り返すようだけど、羞恥心をとても焚きつけられた気分かな」

「わー。出たー川端節」

「そもそも僕は、葉月さんみたいに人前で歌った事なんて学校行事しかないんだから、上手く歌えるわけないんだよ。音を外して当然だよ」

「えー。川端くん全然下手じゃなかったけどなぁ」

「葉月さん、難聴なの?」

「別に耳は悪くないし!川端くんひどーい」

 『耳は悪くない』の言葉を重く受け止めた僕は、

「・・・・・・冗談のつもりだったけど、差別的発言に捉えて気を悪くしたのなら謝るよ。ごめん」

 と素直に謝った。本意ではなくとも葉月さんに反省の色を伝えた。僕のこの言葉に彼女も、

「いや、大丈夫だよ・・・・・・なんか、私こそ急に付き合わせてごめんね」

 と、申し訳なさそうに一瞥した。

 そんな僕らのやりとりに、再び女性店員から一言飛んでくる。


「やっぱり付き合ってるんじゃないの?」


 弦を購入した葉月さんは、その女性店員に、「また来ますね。一人で」と告げて、入り口で待つ僕と共に店を出た。

 音楽の余韻を残しつつも、僕は彼女の買い物に再び付き合い始めることに。

 葉月さんが母の日プレゼントを買おうと誘ってくるが、僕と母の関係性は熟年夫婦のように冷え切っているため、とりあえず僕は保留する旨を彼女に伝えた。

「じゃあ駅方面に行こっか?」

「うん。駅に近い方がすぐに帰れるしね」

「またそういうこと言うぅ」

 こうして連れない僕の態度にも決して引かない葉月さんと元来た道を引き返す。


 とあるデパートで母の日グッズを探しに行った際にも僕らはカップルに見間違われた。やはり休日に高校生くらいの男女が、二人きりで買い物しているとそう思われるんだな。行く店行く店で、何度店員に声をかけられたことか。初めは葉月さんの、その容姿が故のコミュニケーションかと思いきや、他のしがないカップルにも話しかけているからそういうわけではないらしい。そんな穿った見方をする僕もしがない学徒なのだが。まあ要するにセールストークというわけである。

「よかったね。お母さんにぴったりの贈り物が見つかって」

 笑顔で僕にそう話しかける葉月さん。結局、彼女にそそのかされて、僕も母親に贈り物をすることになり、ある物を購入するに至った。

 それは、ホットアイマスクである。母は普段からデスクワークに勤しんでいて、家でもダイニングテーブルに陣取り、パソコンに向かって仕事をしている光景もよく見かけていた。そして、書類作成と思われる業務の合間に、彼女がよく目頭を押さえていることも知っていた。それでも結局のところ、それを贈る決心がついたのは葉月さんのプレッシャー、いや後押しがあったからに他ならない。それくらい彼女の言動は僕に多大な影響を与えている。周囲にほだされる事なく、物事を全うしてきた僕でも意外にあっさり押し切られる。正に逡巡の余地がないとは、こういうことを言うのだろう。


 陽射しが弱まり、冷んやりとした空気に心地良さすら覚える夕さり時。そして、空がオレンジに映えようとする彼誰時にさし迫ろうとしていたところで、僕らは各々の帰路に着こうとしていた。

実は僕と葉月さんは数十分前から、とある公園のベンチで、テイクアウトしたカフェラテを口にしながら駄弁っていたのだ。これは完全に活動限界に達していた僕に、葉月さんが与えてくれた安らぎ・・・・・・なのか?ちなみにこのベンチは以前に僕らがこうして仲良くなるきっかけとなった『出会いベンチ』ではない。

「そろそろ充電は完了したかな?川端くん」

 ほんの一握りの心配を持ちつつも、ニヤニヤしながらそう僕に問いかける葉月さん。余程、僕の体力の無さが壺に嵌ったのだろう。終始変わらぬその表情に、僕は少しばかり飽きが来ていた。

 とはいえ、こうしてベンチで二人きりになるのは、あの日以来だし、平静を装うのもやっとであるし、まだまだ場慣れするのは先になりそうだ。ただ、前回と少し様相が異なるのは、会話している時の葉月さんとの距離だ。前はソーシャルディスタンスなんてクソくらえと言わんばかりの、もっと僕に近い距離で話しかけられていたはずだ。確かにこのベンチはあれよりも長いし、悠々と腰を掛けるのは自然ではあるのだが、どうしても僕は、ほんの僅かではあるが寂寥感を込み上げずにはいられなかった。

「とりあえず帰宅できるくらいには充電したよ」

「ホントに体力ないなー川端くんは。それで元体操部なの?」

 ベンチの座面の前の方を握りながら、破顔した表情で僕をからかう葉月さん。きっとまた僕の減らず口を聞きたいのだろうか。ここは一言添えるだけにしよう。

「体操部は走り込まないから。筋トレ重視だから」

「・・・・・・」 

 意外にも言葉が出てこない葉月さん。あっけに取られているのかと僕が思った矢先、先ほどまでの距離感、不可侵領域を飛び越えて彼女の不揃いの指が不意に僕の二の腕を掴む。

「確かに。硬いね、腕」

 あまりにも近づき過ぎたその距離に、心臓の鼓動のしなやかさが伝播していないか心配になると同時に、彼女に掴まれた腕をさっと解いた。決して葉月さんのそれを否定するつもりはなく、率直に自身の胸の昂りを振り払うためであった。

「び、びっくりするだろ」

「ごめんごめん。つい気になっちゃって・・・・・・服の上からでもわかったよ。川端くんの筋肉」

 そう言いながら柔らかい笑みを僕に向ける葉月さん。この発言が僕をからかっているものなのか、真意はわからぬまま、僕は彼女に帰宅を促すことにした。それと、

「カフェラテありがとう」

と、約束であるファーストフードの件を、葉月さんにお礼しながら、僕はゆっくりと重い腰を上げた。


 駅のホームで僕と葉月さんは帰りの快速列車を待っていた。

「帰りの電車、混みそうだね」

「そうだね。こうして葉月さんと話している間にもホームに多くの人が流れてきているよ」

 夕陽の照り返しが僕らに向けられるなか、列を離れるわけにはいかないホームで一身に受け続ける。一人であれば苦悶の表情を浮かべるのが僕ではあるが、今日はそこまで気にならない。自分だけではないと言い聞かすことができる。これしきのことでは、僕の癇癪玉はそう簡単には爆発しない。そう思えるくらい、今の僕は変に清々しい気持ちに浸っていた。

「川端くん、今日は付き合ってくれてありがとう」

「こちらこそ・・・・・・まあ罪滅ぼしなんだけどな」

 さりげなく先日の自分の非を認めた僕に対して、葉月さんから鋭い切り返しがやってくる。

「あー、ついに認めたなぁ。どういう風の吹き回し?」

「・・・・・・今の、この空気感が僕を白状させたのかな」

「えっ、なに?よくわかんないよ」

 また川端節を炸裂したと思っている葉月さんに僕は、僕らしく自分の今の心情を遠回しに説明してみせた。

「こうして、君と話していると、僕の心の奥底の残滓がすーっと灌がれているのかな」

「・・・・・・つまり、どういうこと?」

「まあ、その、葉月さんには正直でいようということかな」

「・・・・・・それって、私のこと、好きってこと?」

「話の捉え方が飛躍しているよ。歪曲しているね」

「歪曲って、悪いように解釈することだよね?・・・・・・私は川端君に、私のことを、好感を持って欲しいってことなんだけど、君はそれを迷惑だって捉えてるの?」

 少しばかり棘のある僕の言い方に、葉月さんはさらっと言い返してきた。時折現れる彼女の聡明な部分。流石は学年上位者である。どおりで小説好きのそれがしにも上手くコミュニケーションがとれるわけだな。何度でも言葉にするがこれが俗に言う才媛というわけか。

 そんなことを思いながら、ぐうの音も出なくなってしまった僕に、彼女は優しく言葉を付け加えた。

「私は、川端くんのこと好きだけどなぁ」

 それが友人としてなのか、異性としてなのか、彼女の言葉の真意は伺えない。それでも彼女が僕のことを好意的に思ってくれているのは、嬉しい以外の何物でもなかった。

「・・・・・・ありがとう」

「ははは、お礼言われちゃった。ホント、なんそれ(何それ)だよぉ」

 電車の中でそんな痴話話を周囲の乗客たちは、どのように捉えているのだろう。少なくともカップルではないと認識しているのだろうか。いや、少なくとも近しい関係であると思っていることだろう。

 そう思われていると考えただけで僕は、気持ち悪いくらい、しばらく空いていた、他者との間隙が埋まっていくことに心が満たされる思いでいた。


「電車のなか、ぎゅうぎゅうになってきたね」

「そうだね」

 ターミナル駅を出発してからも、各駅に停車するたびに人混みは増していく。いつしか、僕らの距離は、電車が揺れるたびに吊革に掴まる腕が当たるくらいにまで近くなっていた。あまつさえ、次第に互いの二の腕が接触するくらいにまで近接していった。

 乗換えまではあと二駅。何とも形容しがたい感情が幾ばくにも溢れている。初めは吊革に掴まる葉月さんの手を他人に見られたくないという、ただただ自分勝手な思考に耽っていたが、今の、いやこれまでの時間が、僕にとってかけがえのないものになっていたことに僕は悦びを感じていた。果たして今後、このような気持ちになれる経験があるのか憂いながらも、この電車の揺れが妙に僕の心の弾みに共鳴していることが妙に恥ずかしくなる。


 電車を鈍行に乗り換え、再び僕らは吊革に掴まった。するとすぐに次の駅で、座っていた2人組の女性らが立ち上がったためそのシートに僕らは腰を下ろした、

 先に降りる彼女の方が入り口側に坐する。こうしてまた、しばらく電車に揺れることになった。

「もうちょっとで着くね」

「うん」

 何だか少し寂しげな声音でそう話す彼女に、僕はただ頷くことしか出来ない。これでは日頃から小説を読み漁ってる甲斐がないというものだ。

「アイマスク、喜んでくれるといいね・・・・・・」

「・・・・・・そうだね」

「ちゃんと、渡しなよ」

「・・・・・・わかってる」

 座席に着いたせいか、今日の疲れがどっと押し寄せてきたせいで、お互いの言葉数も少なく単調になっていく。

 それでも会話を続けたい、と少なからず僕はそう思っていた。

 夕闇の中を走る電車が△△駅へと到着した。葉月さんの家の最寄り駅である。葉月さんは眠い眼をこすりながら立ち上がり、

「じゃあ、またね」

 と僕に別れを告げた。

「うん。カフェラテ、奢ってくれてありがとう」

「そんな、何度もお礼しなくていいよ。むしろ、本当はご飯奢るつもりだったのに完全に忘れてたから。こちらこそ付き合ってくれてありがとう」

 お互いにお礼を言い合うことに、僕は何とも言えない気持ちが芽生えていた。

「今度会うのはゴールデンウィーク明けだね」

「・・・・・・」

「???どうしたの?」

「別にぃー。バイバイ!」

 少し、いや思いっきり彼女は僕に向かって射竦めながらも、すぐに小走りで電車を降りた。

 今のやりとりに何か不満でもあったのか、彼女に対して粗相を仕出かしたのでは、そんなことを思っていた僕は、ふと電車の窓の方へ顔を向けると、待ってましたと言わんばかりの表情で窓越しに立っている葉月さんと目が合った。

 何だかやけに満面の笑みで殊勝な態度にみえる彼女に、僕が訝しむ表情を見せると、葉月さんは両手を口元へ近づけヤッホーのポーズをとり、何やら僕に何か言葉を投げかけた。 


「○○○○○○!」


 僕は特段、読心術を学んでいたわけではないので、彼女の言葉を認識することはできなかった。けれど、その言葉の意味がポジティブなものであると感覚的に理解できた。根拠はまるでない。それでもそう思わずにはいられなかった、彼女の表情、優しい眼差しが僕の胸をひとしきりに揺さぶってきたから。

 帰宅してもなお、葉月さんのあの表情が脳裏から消えない。彼女との行動による結果が、今となって高揚感として五感に浮かび上がってくる。

 今日の出来事は現であったのか、そんな気持ち悪いことを考えてしまうくらい、僕の意識は青天井を突き抜けていった。


『こんな状態でゴールデンウィーク明けに葉月さんとまともに接することができるのだろうか・・・・・・』

 そう思っていると、葉月さんからLINEの着信が入る。

【そういえば、川端くんが貸してくれた小説読み終えたから返したいんだけど、ゴールデンウィーク中に暇な日ある?】

 別にゴールデンウィーク明けでもいいよ、と返答しかけたが休日に再び彼女に会えることを欲した僕は、

【いつでも暇だから大丈夫だよ】

 と一言で返した。あまり文字を羅列しては彼女への心証が悪くなってしまう、と情けないことをふと思ってしまったからだ。

【じゃあ明後日の午後でも大丈夫?】

 すぐに来た返信に、僕は【うん】とだけ答えた。

【よろ。じゃあ場所とかはまた連絡するね。おやすみー】

 こうして、ゴールデンウィーク中に再び彼女と会うことで、先ほどまでの心配事は杞憂に終わることになる。アクセル全開だった今日という日が、日常というニュートラルに変わることに多少の口惜しさを感じつつも・・・・・・うん?小説読み終わるの早くないか?


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