小さな翼①
春の陽気に心踊る人も多かろう、4月29日のゴールデンウィーク2日目。一流企業のサラリーマンであったりOLは有給などを使い、1週間以上休みととるらしい。まあ僕ら高校生にはあり得ない話と思っていたけれど、うちのクラスにも親の意向で海外旅行に出かけるため、学校を休む生徒もいるらしい。完全に葉月さんから聞いた話である。
その葉月さんを、今僕は〇〇駅で待っている。前日、教室で待ち合わせ場所と集合時間を決めていた。それでもその日の夜、葉月さんからLINEで『バックれないでちゃんと来るんだよぉー』と釘を刺された。彼女にとって僕はそんなに甲斐性のない人間に見えているのだろうか。はたまた冗談で言ったのか定かではない。
思ったより日差しが痛いなと、まくり上げていたシャツの袖を下ろした。
「川端くーん。お待たせ!」
快活な声に思わず振り返ると、笑顔の葉月さんが胸元あたりで手を振りながら僕のすぐそばまで来ていた。その時の僕は少し複雑な気持ちを抱くことになる。
一つは先日、葉月さんの日記を手にした時のような胸の高鳴りである。彼女の私服姿を初めて目の当たりにして、やはり葉月さんは、みんなから好意を持たれるべきヒトだと感じた。
膝が隠れるくらいのタイトめな黒のスカートを履き、上は白のTシャツにデニムジャケットを羽織った葉月さんのその瀟洒な装いに、僕は少なからずドキドキしたし、彼女のスタイル的にベストだと僭越ながら思った。バンドしてます感はさておいて。
そんな大手を振るってもよい外見のわずかな間隙に、僕は視線を思わず逸らす。葉月さんが堂々とその手のひら、4本の指をまじまじと僕に見せつけている。
この指たちを他人には見られたくないと、僕は率直に思ってしまった。葉月さんが好奇な目で見られることを疎んだからだ。
そんな僕の思いとは裏腹に軽快な素振りで葉月さんは僕の隣にやってきた。
「おはよう」
「おはよ。ていうかもう11時だけどね」
「そうだけど、いつも葉月さんと会う時はいつも朝の登校時だから、反射的にそう言ってしまう感じかな」
「ははは。休みの日も、川端くんはやっぱり川端くんだね」
また理窟じみたことを言ってしまった僕に、葉月さんは笑って語りかける。
「そうだね。あくまで今日も通常運転だから、葉月さんのノリに合わせられなくても御容赦を」
そんな僕の返しに、口元に手をあて必至に笑いを堪える葉月さん。
「オッケー。じゃあ行こっか」
「うん」
軽快なステップで歩き始める葉月さんの少し斜め後ろを僕は歩く。きっとこれがカップルだったら真横を歩いたり、むしろ男の方が斜め前を歩いてリードするんだろうな。
駅ナカの百貨店を練り歩く僕と葉月さん。まずは葉月さんの用事から済ませることに。
「そういえばさ、川端くんは何を買いに来たの?」
僕の方を振り返りそう尋ねる葉月さん。あの日の約束以来、ずっと気になっていたのかな。
「それはこの後のお楽しみということで」
「ふーん。わかった。でもそんなに出し惜しみしてるとハードル上がっちゃうよぉ?」
「大丈夫。そういうの気にしないから」
そんな僕の返答を予期していなかったのか、葉月さんは思わず笑い出した。
「もーっ、あんまり笑わせないでよー」
「笑わせるつもりは毛頭なかったんだけど」
真顔でそう答える僕に、
「そういうとこだよぉ」
と、すぐさま反応する葉月さん。いつしか、僕の真横にピッタリとくっついていた彼女に思わずドキッとしてしまう。そして、時々彼女の腕が僕の腕に当たるたびに、僕は顔が熱くなるくらい気が気でなくなっていた。それでも上手く平静を装うのが僕なのだけど。
「着いたよー」
本日の目的の一つである文具コーナーに到着した。ここで葉月さんの新しい日記帳を選ぶことに。普段日記なんてつけない僕にとって、このように、一区画に多くの種類の日記帳があることに驚いた。
「さあて、どれにしようかな。ていうかいっぱいあるね」
「うん」
葉月さんはふんだんに並べられた日記帳を一冊ずつ手に取りながら、しっかり中身まで確認していく。
彼女の真剣な眼差しに対して、完全に手をもて余していた僕は、ボールペンでも見に行こうと日記帳コーナーを離れようとする。
「あれ、川端くん。どこ行くの?」
「えっ・・・・・・ボールペンでも見に行こうかと・・・・・・」
葉月さんの眼光につい怯んでしまった僕。どうしてそんな顔をするのかと思えるくらいに、彼女の眼は僕の瞳を一点に見つめている。
「今日の私たちの目的、覚えてる?」
「・・・・・・葉月さんの日記帳を買うこと」
「私に付き合ってくれるんだよね?」
僕が言葉を発するのを逡巡するうちに 膨れっ面で僕を見ている葉月さん。いつもと違って何だか不機嫌そうだ。僕は決して忌避感があったわけではないのだが、誤解されたままなのもあれなので、
「・・・・・・おっしゃる通りです」
と、素直に彼女に肯う。これがベストバウトであるはずだ。
「だったらさ、一緒に見ようよ」
「・・・・・・うん」
葉月さんに押し切られ、ただ立ち尽くしているのもあれなので、僕はふと目の前にある黒色の大人びた日記帳を手に取る。完全に葉月さんの好みではないよなーと思っていると、
「あれ?川端くんも日記帳欲しいの?」
と、葉月さんに誤解を与えてしまう結果に。
「いや、何となく気になっただけ・・・・・・葉月さんはさ、何で新しい日記帳を買うことにしたの?」
「えっ?」
「あ、あの日記帳さ、すごく使い込んでいて、とても大切なものだと思ったからさ・・・・・・」
僕と葉月さんの間に刹那、沈黙が流れる。あれ?聞いちゃいけないことだったのかと感じていると、彼女は穏やかな表情で、手にとっている日記帳を見つめながらこう言った。
「あれはね、亡くなったおばあちゃんに買ってもらったものなの」
「そ、そうなんだ・・・・・・」
「あの日記帳、バインダー式でさ、元々あったノートに書ききった後もルーズリーフとか切って使い続けてたんだよね」
感慨深そうにそう話す葉月さんに、僕はただただ聞き入ることしかできなかった。どおりで不揃いの紙が多く重ねられていたわけか。
カバーが緑色の日記帳が擦れるなどして使い古された影響で、霞むような色にはなっていたが、それはそれで趣があるというか興を感じ取れる。葉月さん補正で少し過大評価な気もするが、日常であるはずのその日記が、決して他人には見られてはいけない「非日常」を纏っているような気がして、何ともミステリアスで、だからこそこれからも使い続けて欲しいと僕は思っていた。
その気持ちは配慮に欠けていると十分に感じていたが、葉月さんにぶつけてみることにした。
「なおさらそんな大切な日記帳、買い換えていいの?」
「・・・・・・」
再び僕らの間に沈黙が降りる。葉月さんの様子から、やはりあの日記帳に未練があるように感じ取れた。
すると、僕の言葉を聞いた葉月さんは僕の方を向いて、にこやかにこう言った。
「やっぱりさ、新しく前を向いて歩いていきたいんだと思う」
「・・・・・・」
彼女の言葉の真意が読み取れず、僕は返す言葉がなくなっていた。心機一転といえば簡単だが、言わば彼女の祖母の形見と言っても過言ではないそれを、易々と手放すほどの理由になるのであろうか。
僕は、一つ一つ言葉を選びながらこう彼女に言った。
「だったらさ、後悔しないような良いものを選ばないとだね」
この発言がベストかどうかわからないが、これを聞いた葉月さんの心が多少は踊っているような、そんな表情が飛んできた。
「ホントだよぉー。だから川端くんも一緒に真剣に考えてね」
「・・・・・・うん、わかった」
1時間以上は経っただろうか。お互いに良さそうな日記帳を見せ合ってはどれも些細な点が気に入らなかったり、良いものがいくつか見つかっても、甲乙つけがたかったりと一向に決まりそうにない。
それでも葉月さんが、この中で一番気に入ったものがある。
「やっぱりこのピンクの日記帳が良いんだよなぁ」
その日記帳を何度も手に取る葉月さん。ピンク色のカバーの表面に鍵付きのハート錠が施され、日記だけでなくスケジュールなどの大切な個人情報であったり秘密を書き留めておける、女子高生にとっては可愛いらしい手帳である。
「でもバインダータイプがいいんだよね?」
「そう、そこなの!バインダーだったら即決なのにぃー」
唇を噛み締めそう話す葉月さん。やはり大切なものを買い換えるからには、生半可な気持ちは持っていないのだろう。彼女の決意の強さを感じる。
「じゃあ他の店でも見てみる?」
四苦八苦する葉月さんに僕は軽い助言を与えた。こういう時は、一度気持ちをリフレッシュした方が新たな気づきに導ける。あれ?何か違うような・・・・・・。
「いや、これにする!」
「いいの?」
「うん。それなりに書き込めるし、全部埋まったらまた買い換えるから大丈夫。それにやっぱり一番はこの鍵付きなところだよ」
「やたらとそこに食いつくよね、葉月さん」
「だってこれで川端くんに見られないで済むしね」
僕を見てニヤニヤしながらそう答える葉月さん。その表情からは純粋に僕をからかっているように思えるが、真実を知っているからこその笑みにも解釈できる。
「・・・・・・どういうこと?」
この期に及んでしらばっくれようとする僕に対して、葉月さんの視線は鋭くこちらに向けられたままだ。
「図書室で私に日記を渡してくれた時の川端くんの表情、とっても強張ってたから・・・・・・直感ですぐ見たんだと理解したよ。違う?」
そう彼女の口調に憤懣や軽蔑といったものは感じられず、むしろ全てを受け止めているような、そんな優しさという名の母性を与えられた気分だ。
そんな彼女に、僕は言い訳もせず素直に白状し、ただただ謝ることしかできなかった。
「葉月さんの言うとおりです・・・・・・ごめんなさい・・・・・・」
正直に日記を読んでしまったことを話したが、あのしおりに挟まれた部分・・・・・・出会いベンチで会った日のことはお互いに口にはしなかった。というかできなかったのだと思う。僕があの日の太字で書かれた部分、それが彼女にとっての不可侵領域だと何となく察したから。あまつさえ、問い質すことでこの関係性が崩れるのではないか、と畏怖する自分がいる。
「よし決めた!これにする!」
最終的に例の鍵付きの日記帳に決めた葉月さん。彼女の決断を僕は隣でじっとしながら尊重していた。
「じゃあレジで会計してくるね」
そう言ってレジへ向かう葉月さんの後ろ姿がとても弾んで見えた。そんな彼女を見て日記を書くという行いに対して、少しずつ興味が湧いてきた。とはいえ、僕のような人間が日記を書き始めたらつまらない日常を曝け出すだけで、とてもじゃないが精神が保たれないだろう。
「お待たせ。じゃあ次行こっか」
「うん。ところで葉月さん、次のあてはあるの?」
僕がそう尋ねると、彼女は不思議そうな表情で逆にこう尋ねる。
「え?今度は川端くんの用事に付き合うつもりなんだけど?」
「そうか・・・・・・僕のは最後でいいよ。特にはっきりとした用事ではないから」
「そんな謙遜してー。いいよ行こ」
そう言って、いつしかだらけた僕のシャツを葉月さんは掴んで、通路の方を指差し歩こうとする。思わず躓きそうになる僕を他所に彼女の推進力は増していく。
「で、どこに行くの?」
「えっと・・・・・・書店に行きたいんだけど」
「オッケー。ぜんしーん!」
新しい日記帳を買って高揚状態この上ない葉月さんに、僕はちょっとだけ戸惑いつつもこうして二人でいられることに喜びを噛み締めていた。
駅ナカのビルを4階から6階へエスカレーターで進むと、すぐ正面に書店が確認できた。
「着いたよ」
「うん」
エスカレーターを降りると話が進み始める僕と葉月さん。
「そういえば最近、休み時間に読書しないで、スマホ見てるみたいだけど」
「いや、スマホで読んでる」
「あ、そうなんだ」
最近では「小説家になろう」や「カクヨム」といった、小説の投稿サイトなどの媒体が多く存在しているため、文庫本を切らしてしまった時は、こうしたサイトを活用している。一見便利ではあるのだが、やはり紙媒体の方が読んだ気になるし、時折しおりを挟んで話を整理したり、想像を膨らませる時間が、僕は好きだ。
「つい数日前まで金欠だったんだけど、お小遣いがもらえて、それで今日は何か一冊買おうと思ってたんだ」
僕のひと月のお小遣いは五千円である。そこから小説であったり、ちょっとしたおやつといった嗜好品を賄うのである。
そんな大切なお金を、最近は母親にもらうのが億劫になってきている。ねだったときの母の視線や溜め息が妙に胸に刺さる。共働きでそれなりに稼いでいるんだからいいじゃん、とは簡単に言えない空気感が我が家にはある。息子に興味もそれほどなく、寧ろ大切な資産が減っていくのを嫌っているような、そんな口調で「ハイ」と渡される。そのお金を握りしめ、「ありがとうございます」とただただ感謝の意を伝える・・・・・・これを毎月続けている。
この雇い主と従業員のようなやり取りを他の家庭では行っているのだろうか。家族なのだから、もう少し「ちょうだい」とか簡潔な言葉で終わっているのだろうか。我が家でそんな態度をとったら、きっと母は僕を射竦めるようなことをしてくるかもしれない。父も同様だろう。それが僕と両親の関係なのである。
「そうなんだぁ。高校生にとって貴重なお金だからとっておきの一冊を見つけなきゃね」
そう言って目をキラキラさせる葉月さん。そんな彼女を見て、僕はつい言葉が先走ってしまう。
「うん。だからさ・・・・・・一緒に選んでくれない?」
「えっ?・・・・・・私、小説の流行りだったりわからないよ?」
思わず困惑する葉月さん。そりゃそうだ。普段、滅多に小説を読まない彼女からしたら、少なからず身を委ねられるのは不安だろうし、彼女の性格からして、そう簡単に一蓮托生というわけにはいかない。
そんなこと考えればわかることではあったが、日記を選んだ仲という時点で、一蓮托生している感は拭えないので僕は引き下がらない。
「いや気にしないから。適当に選んでもらって構わないし、葉月さんの直感に身を委ねるよ」
「身を委ねるって、また責任重大なこと言い出してー。大切なお小遣いがムダ使いになっても知らないからね」
はーっと息をつく葉月さん。それでもその息が溜め息とは狭義の意味で少し違うと僕は感じた。
「君が選んでくれたものを無価値だなんて僕は思わないよ。身勝手な人間ではないと僕は思っているし」
そう僕が答えると、葉月さんは目を点にしてぽかんとしている様子であった。
彼女を過大評価しているとは、僕自身思ってもいないのだが、彼女からしたら不意にきた、誇大な賛辞だと感じたのかもしれない。
「ふふっ、ははは。やっぱり川端くんは面白いなぁー。仕方ない。その重要ミッション引き受けましょう」
こうして、僕と葉月さんの全集中第二ラウンドが始まった。