影がひかる
小鳥遊先輩。今井は、彼のことをそう呼ぶ。今井が2歳年上の彼と先輩後輩の仲だったのは、中学1年生と3年生という短い期間、しかもサッカー部を引退するまでであるから半年ほどの期間に過ぎなかった。しかし、そのあと大学生と社会人の関係になった二人が偶然再会した時、今井は自然に。
「小鳥遊先輩」
と呼んでいた。さん、とか、呼び捨てにすることもできただろうが、さらに言えば、全く初対面であるかのようにすることもできた場面において、今井は小鳥遊という人間を先輩と呼んだのだった。
その理由は、部活動において、彼らが同じミッドフィルダーの位置を競い合うような関係であったことと、もう一点、別れ際が印象的だったことにある。
「先輩。カラオケの個室でキスしたらいけませんよ」
小鳥遊がトイレから出てくると、ドリンクバーの前で両手にグラスを持った今井がいた。
「なんだ。お前、見てたのかよ」
「さっき前を通ったら偶然見えちゃったんですよ。見ようとおもったわけじゃありません」
「ふん。そうかい」
「かわいい人でしたね。お似合いとはいいませんけど」右手のグラスに、ソフトクリームを入れながら感想を述べた。
「……おまえ、そういうことも言うんだな。ボール蹴ってるだけの奴かと思ってた」彼は自分のパーカーで手を拭った。手の通った跡が濡れてしまっている。
「先輩ほどじゃありませんけどね、人並みには思いますよ」
「お前の連れは?」
「1年で来てます。歌うの苦手なんで、室料分アイス食べることにしてるんです」
彼はグラスの外にクリームがはみ出しても機械を止める気配がない。ひやりとしてみていると、綺麗なバランスで巻き留めてみせた。
「得意なんですよ。いつもやってますからね。先輩にもやってあげましょう」
「いや、いい、いい。俺はウーロン茶だけ持ってく」
「受験に専念するってことで、部活を引退したんだと思ってましたけど?」
「そうだよ。高校受験に専念するためにしばらくデートできないねって話してたんだよ」
「だったら早く戻ってあげればいいのに」
「そういうなよ、歌うのに疲れることもあるだろ。かわいい後輩の悩みを聞いてやろうってんじゃねえか」
「悩みなんてありませんよ。箸休めに悩みをつままないでください」
「悩まない人間なんていない。いないだろ」
やけに強く小鳥遊は断言した。年齢にそぐわない振る舞いともいえるし、悩み多き年齢ゆえの説得力もあった。
「ええ、いませんね」
「そして、俺は、お前に悩まなくていいってことを伝えようと思っているわけだ」
「悩みを発生させたり消滅させたり、忙しない人ですね」
「そうだ、俺は、受験に恋人に後輩に忙しいんだ」
「へいへい」
今井は、その場でソフトクリームにかじりついた。そこまで長い話をするつもりはなかったのだが、今井にとっては、時間が惜しい。時間で料金が発生しているからである。時は金そのものである。交換価値について考える。
「先輩。時間ってなんでしょうか」
「そんな壮大な悩みは受け付けてない」
「なんでもお悩み相談室というわけではないのですか」
「当たり前だろう。そうだな。「モモ」って読んだことあるか?」
「小学生のころ課題図書として」
「その中では、時間とは音楽のようなものだと書かれていたぞ。普通ひとは耳を傾けない。が、そこに確かに流れており、実感することもできるものらしい。俺はこの説明に今のところ納得しているな」
「応えてくれるじゃないですか。次、お題は「死」でいいですか」
「だから、そんな壮大な話は扱わない。芥川龍之介の自伝的小説は」
「わかりますよ。保吉ですね」
「そうだ、保吉という名前の主人公が芥川の幼年時代を表しているということで描かれる。彼はあるとき死ぬってことがわからないと父親に風呂の中で相談するんだ。父は言葉を尽くして、殺すと死ぬってことを伝えようとするがやはり彼はわからない。とうとう父はあきらめて風呂から上がってしまうんだが、その背中が遠ざかるのを見て彼は、『死とは、このまま二度と父と再会することができないということだ』と悟るんだな。俺は今のところこれで納得している」
「やっぱり答えてくれますね。ありがとうございます。僕もその解釈は好きですよ」
「こういう話ができるってのはいいな」
「え?」
「いや、何でもない」
「それじゃあ次のお題は」彼は、ふざけたお題と並べて、なんてことない調子で言った。「もうサッカーやらないんですか」
「そうだ」小鳥遊もそれに応えた。「それくらい矮小な話がいい」
「最後の試合、後半戦で交代したこと、怒ってますか」
「いいや。何を怒ることがある」
「先輩の方がずっとうまかったのに」
「俺の力量が劣っていたんだ」
「先輩の方がチームメイトの調子に合わせられたのに」
「俺がチームメイトに追いつけなくなってたんだ」
「アイツが」
「もうやめろよ」小鳥遊はパーカーに手のひらを押し付けた。「それで勝ったんだからさ」
「得失点差で、ブロック敗退ですよ」
「それでも勝ちは勝ちだ。それを喜ばなかったら対戦相手に失礼だ」
「言ってましたね、そんなこと。あのときも」
「言ったっけな」
「そういうところ、先輩は勝負事に向いてますよね」
「そうだな。戦う相手には、常に敬意を払って、全身全霊で勝負に当たりたい。そう思ってやってきたぜ」
「僕は、勝てもしないのに、先輩に勝ちたくてもがいてきました。そういう半年でした。2年の差がありますから、僕が絶対的に弱くて、それで変なことはなくて、それが悔しくて。
追いつけたわけじゃないのに、ただアイツが、相手がぶつかってきたから、先輩が転ばされたから交代のチャンスが巡ってきただけの、そんな幕引きで。僕は、悔しい。これでは一生勝つことがない」
「勝ち負けとか、そういうもんじゃないと思うけど。そうだな、悔しいってのは、勝とうとしているからってのは一つ言えるぜ。初めからあきらめたヤツは、悔しく感じることはないし、そして勝つこともないだろうな」彼は、もうすっかり乾いた手をふるった。「わからないだろうけど」
「先輩はすごいです。どうしてそんなに晴れやかな顔ができるんです。僕らは来年あそこまで進めるかで不安で押しつぶされそうですよ。今部屋に戻れば、そんな顔を拝めますよ。どうです、見物に行きませんか」
「後輩しかいない部屋なんてはいれるかよ。てか、もうやめたんだし、先輩でもないだろ」
「先輩は、チームに必要な人でしたよ」
「ばーか」小鳥遊は背中を向けて近くの部屋に戻っていった。「お前もだろ」
もう二度と彼に会えないのかと考えると、その背中は死そのものだった。実際、彼は、中学高校と小鳥遊の顔を見ることはないが、その姿は強く焼き付いていた。
FIN