ビール
時計が日付を跨ごうとしている時間。僕はふと何かに呼ばれるように、飲みかけのビール片手にベランダに出ていた。
一日の仕事の疲れが背中に重くのしかかり、アルコールも手伝ってなんだかけだるい。明日の仕事を思えばとっくに眠らなければならない時間なのに、妙に頭がさえてそれもできない。どうしたものか……。
苛立ちにも届かない吐息を体の外に逃がし、ビールを一口含む。苦味がじんわり口内に広がり、香ばしさが鼻に抜けた。
長く伸びた前髪が揺れた。
風が吹いたのだ。
冬を思い起こさせる冷たさに、口にしたビールが不味くなった気がして、思わず顔をしかめた。
それでも一度手にしたものを手放すのも面倒で、僕はそのまま身を預けるようにベランダに寄りかかり、目を閉じる。
視界は奪われ、暗闇に放り出された僕は、自分の居場所を音にすがり付かせるように耳を済ませた。
もう、虫の音もしない。
まるで真っ暗な闇が全ての音を吸い取ったかの如く静かで、僕は少しだけ不安になって目を開けた。
半年ほど前に隣に建ったマンションに、ポツン、ポツンと明かりが灯っているのが見えた。まるで、夜の海に浮かぶ、漁船の灯りのように、それは静かで、少し心強かった。
僕はしばらくそれを眺め、再びビールを口にした。
不味いのを忘れていた。また、顔をしかめる。同じ失敗。同じリアクション。
くだらない自分に小さく笑みを零す。
ふらり、重い頭をもたげ、アルコールにかすんだ目で空を見上げてみたが、空と地上の境目は夜に隠されて一色の世界にしか見えなかった。
もしかして、今なら君と僕の世界の境目もあやふやになりはしないだろうか?
君を失って、もう何年も経つのに、そんな事を思う僕は、やっぱりまた不味いビールを口にした。
風が吹く。
星が揺れる。
肌をなぞる寒さに、君の最期を思い出す。
あぁ、でも、時は止まりはしないんだね。どれほどこうやって闇の中で君との境目を探っても、君に会えやしないし、ましてや声を聞くこともないんだよね。
君はあの時のままだというのに、僕だけが変わって行く。僕らの溝はこのままきっともっと深くなり、そのうち君といた時間には過去と言う名前がつけられてしまい、交わることのない存在になってしまうのだ。
僕の白髪も増えてきた。不味いビールも飲むようになった。ため息も多くなり、今は諦めが友達だ。
君と過ごした季節はもう遠く、あの時の笑い方さえも今はもう思い出せない。
今の僕には君との季節を眩しく感じる。確かにそう感じている。でもね……
「風邪ひくよ。中で飲んだら?」
僕は背中にかけられた声に、振り返った。
もちろん彼女は君じゃない。だけど、確かに僕が選んだ、僕のかけがえのない人なんだ。
僕は曖昧に返事をして、星空に浮かぶ夜に背を向けた。
そして苦笑いでビールを彼女に掲げてみせる。
「久しぶりに一緒に飲まないか?」
光は人工物でたしかにロマンも哀愁もないかもしれないけど、僕は頷く彼女の笑顔に手にしたビールの味が変わるのを感じていた。
今はもう、踏み出した僕の体を、温かい世界が包み込んでいる。