おかしなおかしの
◇
祐は全身の痛みで目を覚ます。
意識を失っていたらしく、状況が吞み込めない。
ゆっくりと体を起こす。
鉄と油の臭いがキツい。見れば離れた場所に大型車両が煙を噴いて転がっている。あそこから漂ってきているのか。
そうか、と祐は思い出す。あの車に轢かれたのだ。
それに気づいた途端、痛みが増したように感じた。
「祐ー! 生きてるー!?」
走り寄る美雪に祐は信じられないものを見たかのような眼差しを向ける。
「……めずらしいね。僕が崖から落ちても顔色変えないのに」
「うっさい! 心配くらいはしてるわよ!」
まったく、と美雪は頬を膨らませる。
「合流していきなりあんなことになったら流石に慌てるっての」
(いや……雑談している場合じゃない)
祐は周囲を見渡す。
「そんなことより、一之瀬さんは、無事?」
「……無事よ」
一瞬言い淀んだのを祐は見逃さなかった。
「まさか――」
「違うの、ちゃんと間に合ってたわ。あの子は撥ねられてない。無事なはずよ」
(ひとまず助かったようで安心――いや待て)
「はず、ってどういうことだ」
美雪は話したくないのか、口を噤んでしまう。
「教えてくれ。あの後何があったのか」
詰め寄る祐に美雪は露骨に不機嫌になる。
「……駄目よ、本当のこと言ったら、あんたそんな状態でも無茶しようとするじゃない」
「無茶しなきゃいけないことがあったのか」
「っ――祐!」
「……いや、無茶すれば何とかなるってことだ」
堪らず美雪は声を張り上げる。
「ねぇ祐、聞いて! あんたは頑丈なだけなの! 魔法も使えない、便利な能力も無い、無能なのよ! あんたじゃ、どうしようもないことがあるって知ってるでしょ!」
「美雪」
水気でうっすらと光る美雪の目を正面から見つめる。
「やめてよ……そんな目で見ないで……」
「もう、後悔はしたくないんだ」
美雪は唇を噛み、重々しく口を開いた。
「……虚空に、落ちたのよ。あたしの目の前で、消えた。入口もすぐに閉じたわ」
美雪は祐の胸倉を掴む。その胸元に下がった二枚のプレートがぶつかり音をたてた。
「覚えてるでしょ? 二年前の災害の時、あんたは、何も、できなかったのよ……!」
美雪は辛そうで、苦しそうな表情をしている。当時の事を後悔しているのは祐も美雪も同じだった。
大切なものを失った。お互いに、もう二度と、同じ過ちは犯さないと誓った。
「確かにあんたは頑丈だわ。何しても死なないのかもしれない。でもね、それで世界を越えられるわけじゃないの。ましてや原因も、入り口もわからない。あの子の救出は……絶望的なの」
美雪は祐から手を離す。
遠くから近づくサイレンが聞こえる。もう少しもすれば祐は病院へと担ぎ込まれ、身動きが取れなくなってしまうだろう。美雪としてもその方が都合がいいのかもしれない。
「だから――」
祐の眼前に、緑色の光点が浮かび上がる。
「ミドリ」
あるひとつの可能性に思い至った。
「――精霊なら、虚空の場所がわかるかも」
最初に精霊と出会った時、虚空の場所を示していたはずだ。
入り口がひとつとは限らない。一之瀬が落ちたという虚空も、一之瀬と繋がりの深いシルフならあるいは見つけられるかもしれない。
「……ねぇ。どうしても、行くの?」
「うん。……まあ、すぐ帰ってくるよ。だから、例の新作激辛料理はその時食べる」
「……じゃあそれ、頂戴」
美雪は祐の胸元へ再度手を伸ばし、繋がれた紐を引きちぎる。プレートを握ったそのこぶしで祐の胸を突いた。
「致死量まで辛くしてやる」
祐は苦笑すると、血に塗れた手で美雪の頭を思い切り撫でる。
「大丈夫。僕は、死なないから」
そしてシルフに導かれ、その場を後にした。
それを見送った美雪は、くしゃくしゃにされた髪に触れる。
「馬鹿祐……どんなに頑丈でも……二度と会えないなら、死んだも同然なのよ……」
目を閉じ、握ったプレートの内、名前の削れた方を額に当て、美雪は祈った。
「どうか――」
◇
シルフに導かれ祐がやってきたのは、伝説の木と呼ばれていた、大樹の下だった。
「ここに、入り口があるの?」
「コココ……」
実体化したシルフが根元のうろに祀られた祠の中へ突撃する。
随分と罰当たりだが、神様に近しいらしい精霊なら許されるのだろうか。
「それはどっちでもいいんだよ」
祐は首を振り、祠の中へ入ると、声はするのにシルフの姿が無かった。
壁には朽ちた燭台がぽつぽつと配置されている。溶け落ちた蝋は放置され、埃の被った蜘蛛の巣がぶら下がる。祠には長らく人の手が入っていないことが見て取れた。
足元から風の流れを感じ目線を下へ向けると、地下へと続く螺旋状の階段に気が付いた。
シルフの声はその先へ遠ざかっていっていく。
慌てて祐も階段を下りるが、如何せん暗くて前が見えない。
あまり急ぐとうっかり転んでしまいそう――
「あっ」
苔か何かを踏み、階段を踏み外した祐はあちこちぶつけながら速度を上げ転がり落ちていった。
「おわああッ!?」
なんか寒さが和らいだな、とか思ったのも束の間、目の前に現れた木製の板を勢いそのままに吹き飛ばし、祐は広い空間へ放り出された。
顔から着地した祐は口の中に入ってきた血の混じる土を渋い顔で吐き出す。
じめじめして暑い。湿気た風に、草と土の匂い、それに加えて甘ったるい何かの匂いが混ざり、濁流の如く吹き付けてくる。
汗か湿気か、服が張り付いてくるようで気持ち悪かった。
おまけに暗く、木々が密集して周囲の状況が分かりづらい。下手したら夜の街の方がずっと明るいのではないか。
もうひとつおまけとばかりに四方八方からギャアキャアだとか、ガラガラだとか色々な音がして喧しかった。
おおよそまともな場所ではないことはわかる。
「痛ってぇ……」
土を払い、立ち上がる。なんとなしに手をついた木の感触が他の木とは趣が違うことに気が付く。
その木は黒くまっすぐ伸びており、表面や無駄な枝葉が削られていた。柱のイメージの方が近いか。
近くにもう一本同じような柱が立っており、二本の頂点を同じ材質らしき柱が繋いでいる。一部欠けているが、鳥居のように見えた。
どういった経緯でこれがここにあるのか興味はあったが、今はそれよりも大事なことがある。
「ここに、一之瀬さんが……?」
「コココ!」
祐が周囲を確認している間にも、平坦とは程遠い獣道を、シルフは駆けていく。
「あ、待てって!」
急いでその後を追いかける。しかし、悪路と体へのダメージが足を引っ張った。
頑丈とはいっても普通に怪我はするし、痛みも感じるのだ。
馴れもあってベラベラと喋ったりもするが、痛いもんは痛い。
幸か不幸か、あの車がもっと速度を出していたら、流石にここまで動けてはいなかっただろう。
前を爆走していたシルフはそんな祐の様子に気づいたのか、しょうがないなとばかりにUターンしてくる。頭の定位置に飛び乗ると大きく翼を広げた。
羽ばたき始めるシルフに、祐ははっと気づく。
「……お前、まさか……飛べるのか!? 鶏なのに!?」
バッサバッサと羽音を鳴らし、辺りに荒ぶる風が巻き起こる。風の精霊というだけあり、暴風といって差し支えないほどまで強くなる。
やがてその風によって祐の体は浮かされ、上空へと飛び上がった。
「おおおお! 飛んでる!」
風にもみくちゃにされながら、周囲の景色に目が行く。
見渡す限りの森の中に一本だけ、とんでもないサイズの木が立っていた。
やたらと暗かったのも、この木が陰になっていたからのようだ。
目線が高くなったことで、見えなかったものが見えてくる。
これなら案外すぐに一之瀬は見つけられそうだ――そう思った瞬間もあった。
「……あれ、落ちてない? ミドリ? ミド――」
シルフは緑の光点へと姿が戻っていた。
「実体化保てないくらい消耗してんじゃんかあああ!!」
落下する祐の絶叫が森に木霊した。
◇
『一之瀬さん』
「……」
どこからともなく声がする。その声には期待と緊張が滲み出ていた。
いつもなら丁寧に応対するその声を、一之瀬は無視した。
『沙月ちゃん』
今度は違う声で名前を呼ばれる。何度も呼ばれ、聞きなれたはずなのに、今は酷く不快だった。
「……うるさい」
『一之瀬』『沙月ちゃん』『一之瀬さん』
幻聴は次第に大きくなり、頭の中で反響する。
『一之瀬さん、お願いがあるんだけど』『一之瀬さんがいれば百人力だよ』『沙月ちゃん助けて!』『――ちゃんってなんでもできてすごいね』『――、ちょっといいかな』『――がうちのクラスでラッキーだったよ』
「うるさい」
『『一之瀬さ――』』
「うるさいッ!!」
『沙月』
一之瀬は、はっと我に返る。
一之瀬を心配するように三体の精霊が一之瀬を覗き込む。
大きな木を背に、膝を抱え座り込んでいた一之瀬は、目の前に漂う青い水母の触腕に触れる。
「……ごめんね。心配しないで」
どれくらいこうしていただろうか。
頭上を見上げるが、日は傾く気配を見せていない。
そもそも夜があるのかも、わからないが。
遠くには変わらず巨大な樹が鎮座している。
一之瀬は視線を落とす。
足元には未だ淡く光る花が連なり、道を示していた。
(私がいなくなれば、騒ぎになる。誰かが見つけてくれる)
あちらの世界で一之瀬沙月は必要とされているのだ。後は、待っていればいい。きっと、なるようになる。
でも、もし助けが来なかったら? 大逆転劇のようなことが何も起きなかったら?
いいや、逆だ。起きるはずもないのだ。
隣界に落ちて生還した事例などほとんど存在しない。
神隠しなどと言われたりもするが、本当に神がいるならなぜこんなことをするのか。
一之瀬は果て無く続く崖を虚ろに見つめる。
(ここで、死ぬのも……ありなのかな)
辛いなら、終わらせてしまうのも悪くない。幸い、ここなら誰にも迷惑はかからない。
ここで生き延びても、どのみちあちらの世界では死亡したことになる。
しかし、そこまで考えて、首を振る。
「……行こう」
誰にでもなく告げる。それに答えるように、三体の精霊は光に姿を変えた。
一之瀬は緩慢な動きで立ち上がると、花の導く先を目指し、ゆっくりと、歩き始めた。
◇
淡い光に導かれるまま鬱蒼とした森を力なく歩いていると、直前までの暗い視界から一転し、眩しいほどに陽が差し込む。
一之瀬は白く霞む視界に不快感を隠そうともせず、手を翳す。
細めた目が光に馴れたところで、辺り一面に薄桃色の花が咲き誇る広場であることに気がついた。
花畑の中央に小さな家が建っている。
その家は独特な雰囲気を纏っていた。
パステルカラーの瓦屋根に、丸や星の形の窓、赤白黄のマーブル模様の柱で支えられた、ふわふわと柔らかそうな壁。
少し離れたところに家をぐるりと一週囲む柵が建てられ、その中でポップな見た目の牛や馬が草を食んでいる。
足元ばかり見ていた一之瀬の心に、僅かな希望が灯る。
人がいればまだ、なんとかなるかもしれない。
花の香りで満ちたメルヘンチックな空間に、砂糖由来の甘い匂いが濃く漂う。
意識した途端、一之瀬のお腹がかわいらしい音を立てた。
そういえば、ここに来るまで何も口にしていない。
引き寄せられるように、一之瀬は柵を越え、不思議な家へ近づく。
「どなたか、いらっしゃいませんか……?」
三度のノックにも反応は無く、一之瀬はそっとクチナシ色の玄関扉を押す。
鍵は掛かっておらず、すんなりと中に入ることができた。
「ごめんくださ――」
ポキリと、扉の取っ手が欠けてしまった。
「ごめんなさい……」
予想以上に扉は脆く、取っ手はおろか、動かしただけでパラパラと破片が落ちる。
欠けた取っ手も、少し握れば簡単に変形しそうだ。
崩れた扉の中や、取っ手の中は黒っぽいものが詰まっていた。
「……?」
なんだかその扉や取っ手から甘い匂いがする。
いや、この家のそこら中から甘い香りは漂ってきているのだが、確実にそのひとつは扉だった。
空腹だったこともあってか、興味本位もあり、一之瀬は取れた取っ手を前に生唾を呑む。理性の僅かな抵抗虚しく、堪えきれずに齧りついた。
サクサクとした軽い表層の中は砂糖のように甘く、果物のように香り、生クリームのようになめらか。極上の餡の味がする。
最中だ。間違いなく、これは誰が食べても最中だと言うだろう。
夢中でその魅惑の食べ物を口に運び、正気に戻った時には手の中にあったそれは綺麗に無くなっていた。
もう少しだけ……扉をもぎ取りたい気持ちを今度こそ理性で抑えつける。
自分のはしたなさを恥じながら、一之瀬は家の中へ目を向けた。
中は隅々まで手入れが行き届いており、埃ひとつ落ちている様子はない。かまどには火が点けられ、その上で大鍋がコトコトと湯気をたてている。誰かが生活している、そう考えた途端、緊張の糸が切れた一之瀬はへたりこみそうになる。
歩き詰めによる疲労物に加え、物を食べたからか、急激に眠気が一之瀬を襲う。
壁際に置かれたふかふかのベッドに目がとまり、吸い込まれるように近づく。
そのまま倒れそうなところを、安心するにはまだ早い、となんとか踏みとどまった。
「勝手に入って、壊して、食べて……その上、寝るなんて……これ以上、失礼……できま、せん……」
思考のまとまらない今の一之瀬が、身体を横たえるまで、長くはかからなかった。
ほどなくして、安らかな寝息が聞こえてくるのだった。
◇
わたしがいなくなったら一体何がおきるのだろう
何が変わるのだろう
誰が困るのかな
勉強や魔法が苦手な人に、教えることはできなくなる
部活動の助っ人はもうできなくなる
悩みを抱える人に声をかけることはなくなる
学校運営で突然人が空いたら、それもきっと困る
ああ、私がいなくなると困る人がたくさん
あれ、“私”が? それとも“わたし”?
……そっか、“わたし”がいなくなっても誰も困らないのか
……じゃあ自分自身にとっては?
その答えは随分昔に出している
“わたし”がいなくなっても、困らない
なんだかもやが晴れてスッキリした気分
今日はよく眠れそう
◇
一之瀬は気持ちのいいまどろみの中目を覚ます。ここまで熟睡したのは初めてかもしれない。
暖かな日差しを受けながら、知らない天井をぼんやりと眺める。
「おはよう」
一之瀬はギョッとしてベッドから飛び起きる。
目の前にはローブ姿の女性が椅子に腰かけていた。
目深にかぶったとんがり帽子の下から落ち窪んだ双眸が覗く。
今時珍しい、おとぎ話の古風な魔女といった風貌だった。
「あっ、あの……っ! その、ええと……!」
「ゆっくりでいい。落ち着いて、座って、話すといい」
魔女は煤で黒く薄汚れた裾を振り、一之瀬の近くの丸椅子を指差す。
一之瀬はおとなしくその指示に従う。魔女の柔和な声音のおかげて冷静さを取り戻すことができた。
「あの、ごめんなさい。いきなり来て勝手に寝て……それに入り口の扉を……」
「おいしかったかい?」
「えっ、あ、はい」
まさかそう訊かれるとは思っておらず、素直に反応してしまった。
「それはよかった」
そう言って魔女は立ち上がる。その足元からぬるりと音もなく現れた嗤い顔の特徴的な猫が、魔女の後をついて行く。
「あのっ……ここは、どこでしょうか?」
「それはこの家のことかい? それとも――この世界のことかい?」
一之瀬の横を通りすぎ、壊れた扉の前に立つ。
「こっちの住人じゃないんだろう? 見ればわかる」
魔女が欠けた取っ手を小突くと瞬く間に新品同様の姿に戻った。
「次はカスタードにしてみたけど、食べる?」
「え、遠慮しておきます」
残念、というと魔女は自ら直した取っ手をちぎり、口に運んだ。
サクサクと咀嚼音がするのを聞きながら、食べ終わるのを待って一之瀬は一番大事な話を切り出す。
「わたしは、帰れるんでしょうか……?」
自然と声に緊張が混じる。
魔女は指についたクリームを舐めとった後、たっぷりと時間をかけて一之瀬を観察する。
足にすり寄る嗤う猫を抱き上げ、再び椅子に座ると長い爪で一之瀬を指差した。
逸る気持ちを抑え、一之瀬は次の言葉を待った。
「ずいぶんと服も髪も汚れてしまっているね……どれ、お前も手伝ってくれ」
魔女がそう言うと一之瀬の背後からニンフが現れ、元気に触腕をうねらせる。
ニンフの出した宙に浮く水の塊が、洗濯機で丸洗いするように一之瀬の全身を包み込む。顔や手についていた泥や血の汚れは消え、枝葉でできた傷すら綺麗に塞がっていた。
最後に魔女は指を振る。すると一之瀬の服はたちまち掻き消え、水色のエプロン姿に早変わりした。
チン、と鈴を弾いたような音が鳴る。一之瀬の両足に悪路で履きつぶれた靴は無く、代わりにガラスのヒールを履いていた。
これも魔法だというのか。
一之瀬自身、魔法には長けた方だと思っていたが、流石にここまで何でもはできない。
あまりのやりたい放題っぷりに驚きよりも困惑が勝る。
その流れで大事なことを忘れてしまわないように、一之瀬は再度の確認の意味を込めて声をあげた。
「あ、あの……っ」
「元の世界への帰りかた、ね……知っているともさ」
「でしたら――!」
魔女はにっかりと嗤う猫を膝の上で撫でながら、一之瀬を見透かすように見つめる。
無意識に浮かせてしまった腰を再び下ろす。
今でこそ親切に対応してくれているが、何がきっかけで期限を損ねてしまうかわからない。一度信用を失えば、こちらの願いは決して聞き入れてもらえないだろう。
「っ……でしたら、それを教えていただけませんか?」
ふぅむ、と魔女が言うと、膝の上の猫は何かを察し、溶けるように何処かへ姿を隠す。
「教えてあげてもいいんだけどねぇ。代わりと言っちゃあなんだが……ここまで来たんだ、少し話し相手になっておくれよ。外からの来客は久しぶりなんだ」
本音を言えば、三上の怪我の心配もあり、すぐに帰らなければという思いはあった。しかし、今の一之瀬に拒否する選択肢は無かった。
「お嬢ちゃん、名前は?」
「あっ、わたし――」
「ああいや、せっかくだ。そうだね……餡子を食べたアンにしよう」
「アン……」
「そう。嫌かい?」
一之瀬はそんなことないというように首を振った。
「じゃあ決まりだ」
魔女は立ち上がると、奥の部屋へと続く扉に手を掛けた。
「あの……ここにはずっと一人で……?」
魔女がパチンと指を鳴らす。すると、かまどの火が消え、掛かっていた鍋がひとりでに奥の部屋へと飛んでいく。
「いいや。一人じゃない」
いらっしゃい、と魔女は手招きした。一之瀬は開け放たれた扉を潜る。
その部屋は来賓用に作られているようで、凝った装飾品や、鮮やかな絨毯、輝くシャンデリアで彩られている。
大きなテーブルには豪勢な料理がところ狭しと並んでいた。先ほどの鍋も中央でカタカタと揺れている。
席には既に何名かが腰かけていた。
片眼鏡をかけた兎、大きな帽子で顔が全て覆われた男、頭の空っぽな案山子に、凹凸だらけのブリキ人形。
一之瀬のそばにある煌びやかな椅子がすっと引かれる。
「お座りなさいな」
対面に座った魔女から促され、一之瀬は戸惑いながらも腰かけた。
パン、と 魔女は手を叩く。
「さあ、皆。今日もおかしく愉しく、食事をしよう」
◇
どれくらいの時間が過ぎただろうか。はじめは警戒と戸惑いのあった一之瀬も、今日だけで舌が肥え切ってしまうほどの絶品に舌鼓を打っていた。
一之瀬の食器の傍ではあるだけのチーズを食べ尽くしたヴルカンが、気持ち良さそうに眠っている。
陽気に踊る帽子の男の隣で、ブリキ人形が自らの体を楽器に見立て音楽を奏でる。片眼鏡の兎はリスのように人参を目いっぱい頬張り、案山子に背中を擦られている。
熱に浮かされ、すっかり笑い上戸になった一之瀬は、当初の目的も、不安も忘れていた。
そんな時、パシャと一之瀬の顔に水がかけられる。
「ぷはっ……ふふっ、どうしたのニンフ? 一緒にお話したいの?」
ノームが何かを伝えたそうにエプロンの裾を引っ張る。
「ノームさんまで……? どうし――」
冷えた頭でようやく両者の意図に気がつく。
「さあ、アン。料理は美味しく食べているかい?」
魔女は指で机をなぞる。その指に合わせ、空っぽの皿に豪勢な料理が現れる。
「まだたくさんある。好きなだけお食べ」
「い、いえっ、十分頂きましたから……!」
「そうかい?」
魔女は不敵に笑うと、近くにあるきれいに平らげられた手羽の骨を仰々しく掲げた。
「ああアンや、こんなに細っこい腕じゃあ食べるところもないね!」
冗談めかして言う。それを聞いて同席者たちも大声で笑った。
「あのっ……!」
一之瀬の声にピタリと笑い声が止む。
視線を一身に受け、緊張に手が汗ばむ。
しかし、伝えねば、と一之瀬は臆せず言葉を続けた。
「もうそろそろ、帰らないと……いけません」
「それは、アンが来た世界へかい?」
「はい」
魔女は名残惜しそうに目を伏せる。そして、食事の始まりと同様に手を叩いた。
今までの豪華絢爛な空間が嘘のように消え去り、はじめの部屋で、古い椅子に座った一之瀬と魔女だけが残った。
窓から差し込む茜色の斜光は部屋に明暗の線を引く。
その眩しさに一之瀬は手を翳した。陰になった魔女は輪郭がぼやけて見えた。
「……アンが本当に望むのなら、その願いを叶えよう。それをする力もある」
「それは、どういう――?」
陰から出てきた嗤う猫が、何かを咥え一之瀬の傍にすり寄る。キラリと夕日を返すそれを一之瀬は受け取った。
どうやら手鏡のようだった。
「覗いてごらん」
言われるままに、一之瀬は手鏡に写る自分の顔を覗き込んだ。
「――」
全身を茜色に染め、無愛想な顔でくすんだ灰緑色の瞳の女が、鏡の奥でこちらを見つめている。
「今、どんな顔をしている?」
そこに写し出された自分の姿に一之瀬は一言。
「これが……私……?」
「……アン。元の世界の話をするとき、笑顔が消えている自覚はあるかい?」
一之瀬ははっとして顔を上げる。
日没前の最も赤い陽が部屋の陰を侵食していく。
曖昧にぼやけていた魔女の顔が徐々に明るみに出る。
大きな帽子に隠れ、今まで顔はしっかりと見えていなかった。
「あ――」
年若い女だった。
長身から降りる長い黒髪に、紫紺の瞳。どこか懐かしい面影がある。
かつての幼さはなくなり、背格好も変わっている。
しかし、共に今を生きていればこのような姿だったのだと確信めいたものがあった。
――彼女は紫織だ。
何度も幻覚を見た。何度も懺悔を口にした。
もう会えないと思っていた人が、触れられるほど近くにいる。
散々再会の言葉を用意していたはずなのに、うまく出てこない。
「アンにとって、元の世界は“帰るべき場所”なのかい?」
ドクンと心臓が脈打つ。
元の世界が自分の帰るべき場所か、などと考えもしなかった。
帰らないという選択肢があるのか。
「――」
「見ていたよ。ずっと」
鼓動は次第に早鐘を打ち始める。
何のために帰るのか?
10年近く会っていない親など、いなくても変わらない。代わりに親身になって育ててくれた人たちはあの事故の際に強い不信感を抱いたままだ。
何より、代わりのいる“私”ではなく、“わたし”は必要とされていないのだ。
義務も、期待も無い、自由でありのままの自分でいてもいい世界。
不安も、恐怖も無い、理想的で開放的な世界。
一之瀬はずっと疑問だった。なぜこの世界に来てしまったのか。
きっと彼女に導かれたのだ。きっと“わたし”を必要としてくれているのだ。
「わたし、は――」
ちらりと三上の顔がよぎる。まだ、無事を確認していない。
他にも未練がないわけではない。それに、紫織と一緒に元の世界に帰る選択も――
「ねぇ……一緒に帰ることは、できないの?」
紫織は黙って首を横に振る。
紫織は帰る手段を持っていて、なおこの世界にいたのだ。紫織にとって、元の世界は帰るべき場所ではないと判断したのだ。
それならば、“わたし”は――
窓の外は薄暮が迫り、部屋の中は暗く相手の顔もすでに見ることができない。
「紫織ちゃん――」
「アンには、そう見えるんだね」
「……? どういう――」
言い終わる前にガタッ、と椅子を鳴らし紫織は立ち上がった。
「ああ、もうすぐやってきてしまう。時間がない」
何かを急ぐ紫織は出口の扉を開け放ち外へ出た。
その後を追いかけ一之瀬も屋外に出る。
背の高い樹木に覆われた森林はすでに暗黒に包まれている。
真っ暗なその奥は見通すことができない。しかし、そこから何かの気配を感じた。
一歩ずつ、ゆっくりとした足取りで、ひとつの影が近づいてくる。
全身泥や枝葉に塗れ、血を流し、それでもなお、まっすぐにこの家へ向かってきていた。
「アンには、あれがどう見える?」
「酷い怪我をしていて、辛そうで……なんとか助けてあげたい、です」
そう、と紫織はその影に憐みの目を向けた。
「あれはね、アンの――サツキのために負った傷なんだよ」
一之瀬は目を見開く。
「わたしの、所為――?」
顔が見えるくらい近くまで、その人影はやってくる。その頭には、見覚えのある鶏が乗っていた。