隣界
◇
シルフ、ニンフ、ノームにヴルカン。他にも擬態が得意なドライアド、人見知りのカーバンクル、驚かすのが好きなウィルオウィスプ――
わたしにとって、精霊はかけがえのない隣人で、幼いころからともに過ごしてきた、大切な存在なのです。
だから、精霊たちの彼に向ける信頼には正直、嫉妬しました。
一番の友達を盗られてしまったような気がして、少しだ悔しかったのです。
けれどその思いとは裏腹に、不思議で、おかしくて、どこか居心地がいい。
しっかり笑ったのはいつぶりでしょうか。
つい、彼女の――紫織ちゃんの姿を重ねてしまう。
理解してくれるかもしれない。
私ではなく、わたしで居ていいのかもしれない。
本心を、誰にも伝えられなかった思いをぶつけてもいいのかもしれない。
ああ、でも……多くは望みません。ただ、誰もが手にする、ありふれた日常を――
◇
「三上さん、わたし――」
帰宅する道すがら、一之瀬は意を決し口を開く。
しかし、その続きを言葉にする前で三上の端末がアラームとともに着信を知らせた。
「――美雪からだ。ごめん、少し待ってもらっていいかな」
手で軽く制止し、三上は通話に出てしまった。
美雪という人は何度か名前が挙がっていた覚えがある。相当に親密なのだろう。
もしかしたら、特別な関係なのかもしれない。
先ほどまでの一之瀬に対する態度と打って変わり、憎まれ口を叩きながらも歓談をしている。
歯に衣着せぬ物言い。心を許し、本音をぶつけ合える関係。互いに理解し、認め合う、親友のような――二人の間にある独特の空気。
「――羨ましいな」
伝えなくてよかった。このタイミングで、着信があってよかった。
二人の間に一之瀬の入る余地は無い。
「……うん、交差点の――え、すぐ近くまで来てる?」
通話を止めたのを見計らって、一之瀬は三上に改めて声をかける。
「今のが、美雪――さん?」
「そう。何か、近くまで来てるみたい」
どうしても気になったことを一之瀬は訊いた。
「美雪さんは、三上さんの彼女さんですか?」
「まさか! 腐れ縁だよ。……でも、もう10年近い付き合いにはなるかな?」
まるで長年連れ添った夫婦みたいだ、と思う。10年は相当だ。
ただ、本人が違うと言っている以上、それを指摘するのは失礼というものだろう。
「ふふっ、幼馴染なんですね」
「そんないいものでもないよ。録な目に遭わない。さっきも新作激辛料理の試食しろだとか言ってたし、今から合流するのも買い物帰りの荷物持ちだよきっと」
「でも、一緒にいるんですよね?」
「まあ……あ、ほら」
気恥ずかしそうに頬を掻く三上は、何かに気が付き道路の向かい側を指差す。
それにつられて一之瀬も視線を移すと、夜道を照らす街灯の奥に大きく手を振る人影を見つけた。
大通りを横切る横断歩道を挟んだ先に、どうにもサイズの大きい防寒着を着込んだ女の子が立つ。あれが美雪なのだろう。
明かりの下に映し出された姿は小柄で、大きいバッグを引きずるように持っている。
一瞬こちらを見て、固まったように思えたが、気のせいだろうか。
小さな体躯はどことなく、当時の紫織に似ているような気がした。
故障なのか、頭上の街灯が明滅する。明暗が繰り返され、視覚情報がうまく入ってこない。
明滅が収まり、再びその姿を見た一之瀬は大きく目を見開いた。
美雪の立っていた場所に、別の人が立っている。
「そん、な……」
よく知った顔。忘れるはずもない、当時のその姿。
「紫織ちゃん……?」
ありえない、という思考は一之瀬にはできなかった。
虚ろな足取りで一之瀬はその影に近づいていく。
(ずっと会いたかった。ずっと謝りたかった)
表情は見えない。
怒っているだろうか。また笑ってくれるだろうか。
覚えていてくれているだろうか。また、友達になってくれるだろうか。
視界が白く染まる。
さっきまで見えていた紫織の姿は消え、同じ場所に立つ驚いた表情の美雪が、何かを言おうと口を開けていた。
「一之瀬さん――ッ!!」
「え――」
三上の切羽詰まった声に振り返るよりも早く、痛いほど強く体を前に押された。
白と赤のまぶしい光。けたたましいクラクションに混じる金属の擦れる音。立ち上る煙と鉄の臭い。
振り返った先に三上の姿は無く、停止した大型車両だけが虚しく道路を占領している。
「あ」
過去の光景と今が重なる。
あの時と同じ。紫織が、いなくなった時と同じ。
動悸が早まる。息ができない。なのに喉奥から声が絞り出てくる。
「あ、あぁ、ああああああああッ!」
鳴りやまぬクラクションに悲痛な叫びは掻き消える。
転んだ際に開いた胸元の懐中時計が黒く光を放ち、輝きを増していく。
「あ――――」
パキリ、と何かが割れる音がした。
◇
不思議な空間に一之瀬は立っていた。
視界も思考もはっきりとせず朧気で、もやがかかったような感覚が頭を支配する。
ぼーとして、うまく思い出せない。さっきまで、何をしていたんだったか。
「沙月」
「――っ!?」
急激に頭が覚醒する。
忘れるはずも無い、懐かしいその声に一之瀬は振り返った。
そこにはカジュアルな服装に身を包んだ10歳くらいの女の子が立っていた。
「紫織、ちゃん……?」
「ん。どうしたの?」
「どうしたの、じゃないよ……っ! 今まで、どこに……」
「どこにって……お互いに好きなお菓子を買ってここに再集合、でしょ?」
「お、お菓子……?」
紫織の手にはぱんぱんに膨れたビニール袋が握られている。
紫織は中に手を突っ込み、ほら、とチョコレートの箱を取り出した。
「今日はウチでお菓子パーティをするから、一緒に買いに来たんじゃん」
「あ――」
そうだ。そういえばそうだった。
見慣れた街並みの中心で、幼い一之瀬も大量のお菓子を抱えて立っていた。早送りのように人が行き交う中、シンボルの時計塔の前は人を見つけるのに最適で、よく待ち合わせに利用したのだった。
頭上の大時計が鳴る。
「大丈夫?」
「……うん、大丈夫っ! 早く行こっ!」
一之瀬の口から、意思に反して言葉が出てくる。
いや、そうじゃない。当時は、そう確かに思っていたのだ。
一之瀬は軽快に走り出す。
ありふれた日常。誰も気にも留めないような一幕。
しかし、平凡とは程遠い、特殊な環境で過ごす一之瀬の目には全てが宝物のように映った。
こうして、自由に友人と遊べる日自体、珍しかった。今日という日も、隙を見て大人たちに黙って外へ出ていた。
だからこの時はワクワクと嬉しさで胸がいっぱいで、予想外の出来事など微塵も想定していなかった。
大きな交差点。近づくサイレン。歩行者信号は青だった。
『行っちゃ駄目……! お願い……お願い止まって……!』
しかし、先ほどと違い全く体が言うことを利かない。
その時は大通りにしては珍しく、他に横断者がいなかった。何も知らない幼い一之瀬は意気揚々と横断歩道を渡る。
『違うの、このままだと……やめて……紫織ちゃん……』
サイレンとは別に甲高いクラクションが響いた。
「沙月ーッ!!」
『やめてー---!!』
紫織と一之瀬は同時に叫んだ。
幼い一之瀬の背中が強く押される。
慌てて振り向いた時には、紫織の姿は無かった。
『嫌、もう、嫌ぁ――』
散乱したお菓子が粒子となって消えていく。
不規則な雑踏も、喧騒に溢れた街並みも、そして幼子のごとく泣き喚く一之瀬自身も、急速に霧がかかるように薄れていき、全ては白く染まった。
◇
一之瀬は一人、真っ暗な道を歩いていた。
照明は手元の端末だけ。微かな音と前を行く精霊を頼りにほとんど手探りで歩を進めていた。
仄かに灯る精霊の光も足元までは照らしてはくれない。
一之瀬が【火焔】と唱えるが、辺りを照らす炎は一向に現れない。
何度目かの挑戦であったが、その全てで失敗していた。
他にももっと直接的に光を放つ魔法など、いくつか試したが、一番良くて精霊の灯火にも満たない光しか生み出せなかった。
その光も一之瀬はすぐに消した。
(これ以上は、やめておきましょう……)
そもそも魔法のリソースが自分の魔力である以上、長時間の使用には向いていないのだ。
今の精神状態ならすぐに消耗し、どのみち消すことになる。おまけに使っただけ疲労・倦怠感はあるのだから、やるだけ無駄だ。
「ヴルカンさん……」
赤い光点が輝きを増す。しかし暗闇に吸い込まれていく光は道の奥まで照らすことなく、足元が見える程度にとどまった。
端末の光よりは視界はよくなったが、明かりが心許ないことには変わりない。
どうしようもない不安に駆られ、しゃがみ込みそうになるのを気持ちで抑えつけ、足を動かす。
意識を取り戻したのはどれほど前だったか。訳も分からずパニックになりそうなところを、精霊たちがいたおかげで何とか持ち堪えられていた。
頭には実体化したニンフが乗っかっている。生き物が触れているだけでも安心感は段違いだった。
真っ白な場所にいたかと思えば、次は真っ暗。急激な変化に吐き気がする。
今はどこを歩いているのだろうか。なぜ、あんな場所で倒れていたのだろうか。いつから、どれくらい意識がなかったのだろうか。なぜこんなにも暗いのだろうか。
いくつも疑問が浮かんでは消える。どれにも答えはでないまま、一之瀬は端末の時計を見る。
故障なのか、時折おかしな数値を表示するが、午後7時くらいだろう。
その確認を最後に、警告画面が表示され、端末から明かりが消えた。
「嘘っ、こんな時に……!? ……あっ!」
焦って色々触っている内に取り落としてしまった。
足元しか見えないこともあり、落とした端末は見あたらない。
しばらく探していたが、結局見つからず、後日探しに戻ろうと思い、先程よりもさらに重くなった足どりで歩みを再開した。
直前までの記憶が曖昧で、なぜこうなったかがわからない。夢に見た白い世界も白昼夢のごとく思い出せない。それがまた、怖くもあった。
夢を見る前、何か大事なことがあったように思うが、それも一向に思い出せなかった。
――やがて一之瀬はその歩みを止めた。
明かりが見えたのだ。先の見えない道のりに、終わりを感じたのだ。
出口はもうすぐそこだった。
何のことは無い、明かりのついていない通路を歩いていたのだ。暗くて当然だ。
なぜ気づかなかったのか、そんなことはどうでもよかった。安心感で足の力が抜けそうになる。
しかし暗闇から逃げたい一心で、一之瀬は明かりの元へ歩みを早めた。
「早く、早く出よう……!」
程なくして一之瀬はその明かりの元へたどり着いた。
苔むした石の壁にいつ取り付けたのかもわからない木製の扉がついている。
腐食が進み、ボロボロと穴開きになったその扉の先からその明かりは漏れていた。
わずかな逡巡の後、一之瀬は意を決し、扉を開け放つ。
暗闇の中にいた一之瀬は眩しさに目を細めた。
「え――」
さっきまでとうってかわって、しっとりとした湿気を含む仄かな熱が肌を撫でる。淀みのない空気が吹き抜け、一之瀬の髪をさらう。
扉をくぐり、最初に目に飛び込んできたのは一面の鮮やかな深緑だった。行手を阻むように飛び出しているそれがすぐに植物であるとわかる。葉の形からシダ類か。
青い草木と土の匂いに混じるフローラルな香りが鼻腔をくすぐる。
「ここは、どこ……?」
見覚えのない場所。そもそも、住んでいる街にこのような場所は無い。
どういった経緯でここに来たのか、やはり思い出せなかった。
すぐそばの苔に覆われた立て看板を見つける。
『おかしな ゆめの』
その意味するところは分からなかったが、人の手が一度入っているなら、どこかに道はありそうだ。
葉を避け、枝と蔦のアーチをくぐり、根を踏み越える。
周囲には蔓や苔に覆われた大木がずらりと並んでいた。生い茂る枝葉が光を遮り、巨大な影を映し出す。
カラフルなキノコにおかしな形の葉っぱ、カラカラと楽しそうな音を鳴らす木の実。
夢よりも夢のような、神秘的な空間に一之瀬は立っていた。
もしかしたらさっきの夢の続きを見ているのかもしれない。
「……夢」
先ほど見つけた看板を思い返す。
そう思えば、色々としっくり来るのだった。
ポコンとコミカルな音が鳴る。見れば目線の少し先で、薄桃色に淡く光る花が一輪咲いていた。
その花へ近づいていくと、同じ光る花がポン、ポンと咲き連なっていく。
そこには一本の“道”が出来上がっていた。
「これ……案内されてるの?」
ニンフ、ノーム、ヴルカンが一之瀬から離れ、花の行く先へ向かう。
少しためらいはあったものの、追いかけなければ一人ぼっちになる。
みんなを見失わないようにと、花を目印に一之瀬は歩みを進めた。
◇
吹き抜ける風にさわさわと揺れる梢、仲睦まじくさえずる小鳥、湿った土の匂い。
先ほどまでの不安と疑問はどこかへと消えてしまい、周囲に溢れる魅力的な体験に心を奪われる。
しかし冬服の一之瀬にはこの環境は暑過ぎた。
汗を拭い、手を掲げる。大きな木陰が途切れ、差し込む木漏れ日に一之瀬は目を細めた。
すでに一之瀬には何が夢で、どれが現実なのか、わからなくなっていた。
手を上げた際にぶつかったのか、かちゃり、と胸元で音がする。
そこには傷ついた懐中時計がぶら下がっていた。
「これ、は――」
ずっと思い出せなかった記憶が走馬灯のように堰を切って蘇る。
そうだ。確か、今日は学校で用事があったのだ。それで、夜に花火を――
そこでようやく一番の違和感に気がついた。
「陽が、出てる……?」
汗が伝う不快感も、地面に足を付けた感触も……こんなリアルな感覚が夢な訳がない。
一度は消えた疑問が再度湧き上がってくる。
まだ全部は思い出せていない。だが、早く戻らなくてはという思いが強く胸を支配した。
意識が飛ぶ直前に何か、大事なことが起きたはずなのだ。
「帰らないと――」
一之瀬は、はっと来た道を振り返る。
道を作り上げていた薄桃色の花は一輪も見当たらなかった。暗い緑色の枝葉が視界いっぱいにあるだけだった。
足元で咲いていた花は光を失い、はらりとその花弁を散らした。
心に浮かんだひとつの可能性。
えも言われぬ焦燥感に駆られ、一之瀬は走り出す。
ここは馴染みの場所からすぐそばにある、不思議なところに違いない。頭を強く打って、昼まで寝過ごしたに違いない。
そう言い聞かせる一之瀬は、しかし、次第に思考が焦りで塗りつぶされていく。
地を這う根に足を取られ、硬く鋭い棘に頬を切り、それでも構わず走った。
意味不明の看板が目に留まる。ならその近くに埃で薄汚れた扉が――
「っ……なんで……お、おかしいよ」
看板の先にはナイフで切り取られたかのような崖がまっすぐに伸びていた。その眼下にはどこまでも続く、広大な森があり、さらにその奥には雲より高い大木が一本、そびえている。
遥かな空をまっすぐに貫く、とてつもなく大きな樹木の周囲では、見たことの無い生物たちが悠々と空を飛んでいた。
「なに、これ……わたし、夜に……交差点で……そう、思い出した、あの時……」
一気に血の気が引いていくのがわかった。この場所に一之瀬は心当たりがあった。
途端にあたりの葉擦れが恐ろしく思えてくる。
「どうして……?」
木の実はカラカラと嗤う。
「どうして……?」
どこかでポン、と音が鳴った。
呼吸が震える。
鬱蒼とした森の奥へと続く、花灯りの道が出来ていた。
ひっ、と喉奥から悲鳴が漏れる。
気づけば一之瀬は走り出していた。
花開く音が後を追いかけてくる。
崖沿いに行けば古びた扉があるかもしれない。その先には真っ暗な道があって、そこから帰れるかもしれない。
――かもしれない? 帰れなきゃおかしい。かもしれないなんて言ってたら駄目。
「ここはどこ?」
いつか終わりがあると信じ進む。
「夢を、見ているの?」
平穏が音をたてて崩れていく。
「学校は、街は、みんなは、三上さんは――」
どうしようもない、自分の無知を、愚かさを呪った。
疲れ果て、足を止めるまで、どこにも扉は無かった。どこまで行っても、崖、蔦、葉――
ポン、とすぐ近くで音がした。不気味に光る花が、足元に咲いていた。
「わたし、何に……関わってしまったの……?」
突如として開く、虚空のその先――隣界。
一之瀬は今、誰もいない世界に独りで立っていた。