再会
◇
「いやー、全身血塗れのあんたが平然と恨み言垂れ始めたときは流石にキモ……驚いたわ」
「キ、キモくないし……!」
祐が崖から落ちてからしばらくの日が経ち、世間は完全に冬の様相を見せていた。
校内でも完全に衣替えが完了し、いまだに夏服を着るものはどこにもいない。最近は快晴の日が続いているが、明け方などは外はすっかり冷え切っており、毎日の登下校も一苦労である。雪が積もっていないだけマシなのだろうが。
最近になってようやく祐は全身に着けていたギプスやらなんやらを外すことができた。自由になった腕は依然とほぼ変わりなく動かすことができる。
「大体、美雪が――!」
「あーはいはい。いい加減小言は聞き飽きたわ」
あの日は別の道から崖下へ降りてきた精霊使いの女性に助けられた。意識はあったが朧気で、何をしてもらったかまでは思い出せない。簡単な手当て等をしてくれたのだと思う。
その後ある程度意識が回復したため、救急搬送されている間、一緒に運ばれていた美雪へ向けて延々と文句を垂れていた。
ちなみに残念なことに、確かにあったはずの虚空は、跡形もなく消え去ってしまっていたらしい。
今は規制線が張られ、近隣一帯に近づくことはできなくなっている。
今は学校の屋上で、昼食を取っているところである。いつもは見晴らしがよく人気の屋上も、冬の寒波の前には閑古鳥が鳴いていた。
当然今も寒い。
なぜ屋外、とは思うが、美雪の人のいない場所がいいという要望を聞いた結果である。
美雪は手作り弁当から脚の足りないタコさんウインナーを一匹、口に運んだ。
「前々から思ってたんだけど……あんたってさ、実は軟体動物?」
「タコじゃないよ」
「じゃ、外骨格に守られた?」
「虫でもないよ!」
「心臓3つあるとか?」
「だからタコじゃないよ!?」
「んー……でもね、普通の人なら死んでるわよ」
美雪はさらに、失敗したらしい形の崩れたハンバーグを一欠片つまみ、祐へ見せつける。
「あは、ぐちゃぐちゃになっちゃった☆」
ケチャップの滴るミンチと美雪の満面の笑顔が妙に狂気染みていた。
その美雪の視線が少し上を向く。
「クケッ」
祐の頭上で何かが鳴いた。
美雪はハンバーグをつまんだ箸でその何かを指し示す。
「その緑色の鶏……相変わらずね」
「どうすればいいと思う?」
祐は頭に鎮座する鶏(名前はミドリにした)をひょいと抱えた。全身がライトグリーンの羽毛で包まれており、羽を閉じるとずんだもちに見える。もふもふで見た目よりもずっと軽く、さわり心地は極上である。
「いっそ焼いたら?」
「ココココ!」
ミドリはザクザクと祐の手のひらを鋭いくちばしで刺し、異を唱える。
「痛だだ! 今の僕悪くなくない!?」
ミドリは知らん顔で膝に座り直す。
鶏に言葉が通じるはずもないのだが、危険は敏感に察知して応じてくるのだ。
「毎日どこで拾ってくるのよ?」
「いや、なんかいつの間にかいるんだって」
学校に復帰したあたりから、気づけば後ろをついてきていたり、頭に乗っていたりしていた。鞄から出てきたこともある。そしていつも、ふとした時にはいないくなっているのである。
最初は祐も美雪も驚いていたが、慣れもあるのか、今ではちょっとしたマスコットになっている。
今朝も美雪に散々こねくり回されていた。
「まあおとなしいし、あたしはいいけど」
美雪はそう言いながら、摘まんだままだったハンバーグの欠片を鶏に与えた。
「今度、鶏そぼろあげてみようかしら?」
やはり狂気を感じる。
一通り食事を終えた美雪は弁当箱を片付け、口の端を上げた。
「――でさ、祐。今日は見せたいものがあるの」
美雪は今にも話したくてたまらないといった様子で、キョロキョロと首を回し、辺りに他の人がいないか確認する。
「見せたいもの?」
「ひひ……これよ!」
そう言って美雪はポケットからピカピカの懐中時計を取り出す。懐中時計を開くと、その文字盤は硝子のように透き通っており、宝石の類いを想像させる。元々は外の金属部がボロボロで、無価値な骨董品といった様子だった。中の文字盤が壊れないようにか、周囲を囲う金属フレームは新調され、頂点の穴には新たにチェーンが通されている。
「それって確か、虚空のそばに落ちてたんだっけ?」
「そ、知り合いに頼んで、加工してもらったの」
美雪は嬉しそうに手の中で懐中時計を転がす。
「さっき受け取ってきたばかりなのよ。いいでしょ?」
虚空が発生すると発生源近くで時折こういったものが手に入ることがある。虚空遺物と呼ばれるもので、不思議な力があったり、ただのガラクタだったり様々である。美雪が虚空を見に行きたがっていたのもこれを手に入れるためだった。
祐には虚空遺物どころかただのガラクタとしか思えなかったのだが、美雪はそうとは思っていないようだった。
美雪は懐中時計を高く掲げた。その文字盤は太陽の光を受け、プリズムのように七色に煌めく。
「虚空遺物――これが、もしかしたら伝説の塊だったりするのよね」
きゃー夢あるぅ、と美雪ははしゃぐ。
しかし本当に伝説の遺物ならば、もっと強い特徴があって然るべきではないかと思う。
知識として知っているものだと、異様に大きい剣や生物のように脈打つ鉱石、瘴気を放つミイラの腕など、もっと普通ではない特徴があるはずだ。それこそ、おとぎ話かと思ってたら本当にありました、なんてこともある。
その辺で見つけた石ころが伝説では先人たちの苦労も報われない。
「見てもいい?」
「いいわよ。あ、壊さないでね!」
祐は懐中時計を受け取ると同じように陽光に翳してみる。
やはり、ただの硝子細工にしか見えなかった。
「ココッ」
軽やかな動きでミドリが飛び上がり、懐中時計をパクリと咥えた。
「あっ」
「ちょっ――!?」
ミドリは餌だと思ったのか、懐中時計を飲み込もうと首を振る。しかし、大きすぎて大部分がはみ出てしまっている。
「駄目よ! せっかくのお宝なんだから!」
取られまいと美雪は手を伸ばすが、奪い返す前にミドリは懐中時計を咥えたまま走り出す。
縦横無尽に駆け回り、美雪の手をすり抜ける。中々捕まらない。
「待ちなさい! いつもおとなしいくせに……!」
「ケッ……」
ミドリは美雪の頭を踏み台にして、器用に祐の頭に着地した。
「この……っ、祐! やっぱり丸焼き! 今日調理実習あるわよね!?」
危険を察知したのか、ミドリはおもむろにバサバサと羽ばたき始める。
屋上の柵へ目がけて跳躍すると、少しの滞空時間を経て落ちていった。
「チィ、逃げられた……!」
美雪はミドリの飛び出していった柵へ駆け寄り、悔しそうに爪を噛む。
「ちょ、美雪――!」
祐の制止も聞かず美雪は柵から身を乗り出し、大きく息を吸った。
「トリぃー! どこ行ったー! 時計返せー!」
美雪の帰ってこいコールに答えるように、どこかからか鶏の甲高い一声が響く。直後、眼下から強烈な突風が吹き上げた。
「うぎゃー!?」
「ぐぇっ」
もろに風を受けた美雪は後ろに吹き飛び、祐を下敷きに大きな尻もちをついた。
「もー! なんなのよー!」
「気を付けてくれ……!」
「うっさい!」
美雪は不満そうに立ち上がり、打ったお尻をさする。絶ッ対ウェルダンにしてやる、と美雪は呪詛のように呟く。
「祐! 追うわよ!」
「えぇ……」
ぶつけた所を押さえながら祐がゆっくりと起き上がる。
「何言ってんの、あんたの所為でしょうが! 手伝いなさい!」
「ですよねー……」
いいから早く、と美雪に急かされ、祐は面倒臭そうにその後を追うのだった。
◇
靴を履き替え外へ向かうと、少し離れたところで走るミドリが見えた。
二人に気づいたミドリは速度を上げ一目散に逃げていく。
「なんかあたしたち避けられてない!?」
「丸焼きとか言うから……」
懐中時計を咥えたままのミドリは不規則な軌道で祐たちを翻弄する。
「ちょこまかと……!」
「ねぇ、あれってそんなに大物なの?」
祐はかねてからの疑問を口にする。
「当ったり前でしょ! 売れば黄金、使えば至宝、学術的価値は青天井のレア物よ! 専門家に見せたら泣きながら頭を床に擦り付けてたわ! 絶対逃さないんだから!」
「……ちなみにいくらくらい?」
「ゼロがいっぱい!」
「なるほど……!」
確かにそれをなくすのはとても惜しい。わざわざ人のいない場所を探していたのも、話を聞かれ盗まれることを警戒してのことだったのだろう。
そもそもあれにそんな価値があったのか。いや、それを加工してよかったのか……?
「それにそんなの持ってるだけで全方位マウント取り放題じゃない!」
「うわ、急に小物……」
「誰の胸が小さいですってぇ!?」
「そこまで言ってないよね!?」
実際胸も小さいけど、という言葉を祐は呑み込んだ。
美雪はそんな胸の前に手を構え、力強く言葉を発する。
「【火焔】!」
キュボッという軽やかな音を立て、美雪の掲げた手のひらの上にテニスボールサイズの火の玉が現れる。ゆらゆらと揺らめき、輝きを放つ。
美雪が手を前に突き出すと、その火の玉はミドリに向かいまっすぐ発射された。
しかし、背中に目があるかのように、華麗に避けられてしまう。
「マジで焼くの!?」
「大マジ! 祐はあっちから回って! 挟み撃ちにするわ!」
祐の返事を待たず、美雪は火の玉を発射しながらミドリを追いかけていった。
出会ってまだ間もないが、名前までつけた鶏がこんがり焼きあがるのは勘弁してほしい。
なんとか先に捕まえたいところだ。
祐は美雪の指し示した建物を別の道から回り込む。
「【火焔】ァァッ!」
奥の角から、美雪の怨嗟の籠った、文字通りの呪詛が近づいてくる。
ミドリが火の玉を避けた瞬間の隙を狙う。これしかない。
「焼き鳥になってませんように――!」
建物の角からミドリが美雪を引き連れ現れる。
美雪の手には、先ほどよりも数段大きい火の玉が複数浮いていた。
「お、おいおいおい――!?」
「死ねぇー!」
「僕もいるんだけどぉ!?」
問答無用とばかりに火の玉は発射される。
飛び上がったミドリは、祐の顔面を踏み台に上空へ逃げた。
それにより姿勢を崩してしまった祐は避けられないと直感した。迫る炎に祐は思わず目を瞑る。
「――ニンフっ!」
「ぷるぷる!」
鈴の音のような声と、よくわからない声(?)がした次の瞬間、風呂釜をひっくり返したような、とんでもない量の水が祐の背後から放たれた。
火の玉は一瞬で鎮火される。その延長にいた祐はもれなくずぶ濡れになった。
突然のことで呆気にとられた祐は、その場で棒立ちになってしまう。
「……寒っ!」
冬の空っ風に吹かれ、祐は身を縮ませた。
「す、すみません、危ないと思って……勢い余ってやり過ぎました……」
その綺麗な声音に祐は振り返る。
少し離れたところに、一人の少女が立っていた。
端整な顔立ちに透き通る白い肌。
肩口で切り揃えられた美しい赤茶色の髪は、絹糸を思わせる柔らかさで風にたなびき、花のような甘い香りを運んでくる。
その下では、長い睫毛に隠された萌黄色のくりっとした双眸が水晶のように煌めいている。
しなやかで肉付きのいい魅力的な肢体に、服の上からでもわかる膨らみを備える。
直前まで走っていたのか、薄い朱の口からは艶やかに吐息が漏れ、背徳感を持って祐の耳朶を打つ。
明らかに他とは一線を画す存在感を持っていた。
そばには青色の生物らしきものが宙を漂っている。お椀から長い紐が伸びたようなシルエットは水母を想起させた。
宙を舞う青い水母が少女の頭にすぽっと嵌まる。遠目には帽子のようにも見えるが、捕食されてないか心配になる。
「ううん、あなたは悪くないよ」
「ぷる……」
少女は頭から降りてきた触腕を持ち、水母へ語りかける。
「祐! 今の何、うわびっちょびちょ……」
「火だるまよりマシかな!」
寒さでがちがちと歯を鳴らす祐を尻目に美雪は明後日の方向を向いた。
「あ、それで祐、あのトリは――」
バサバサと羽音を立て祐の頭に着地したミドリは身体を震わせ水気を飛ばす。
無言で伸びた美雪の手を避けると、水母を乗せた少女のもとへ駆けていった。
「あーっ! やっと見つけました……っ!」
その姿を見て水母を乗せた少女は安堵の声を上げた。
ミドリは少女に両手で抱えあげられ、ようやくおとなしくなった。
「これは……?」
咥えられた懐中時計を不思議そうに見つめる少女に、美雪が駆け寄る。
「ねぇそれ! あたしのなの!」
「もしかして――」
あまりに寒いので場所を移し、美雪と祐はこれまでの経緯を少女に話した。
なるほど、と理解を示した少女はすぐに懐中時計を美雪に返してくれた。
「この子たち、気まぐれで……よくいなくなるんです。でも最近は特に姿が見えなくて、少し気になって探してて……」
少女はミドリの頭を優しく撫でる。
「普段、イタズラはしないんですけど……もう、迷惑かけちゃだめですからね?」
「コ……」
ミドリは怒られて、少し元気がないようにも見えた。
その間に水母は祐の頭へと移動し、長く伸びた触腕でびしょ濡れの祐を雑巾のごとく絞る。痛くはないし、服もみるみるうちに乾いていくのだが、絵面が良くない。どう見ても水母に捕食されていた。
少女も複雑な表情である。捕食されるのを見守るかびしょ濡れのまま放置するかで相当悩んだようだ。
「そうです、自己紹介がまだでした。わたし、いちのちぇっ……」
(噛んだ……)
ミドリを抱えた少女は顔を朱に染め、改めて名乗った。
「一之瀬、沙月……ですぅ……」
よほど恥ずかしかったのか、そのままミドリで顔を隠してしまった。
触腕で簀巻き状態のまま、続けて祐は自己紹介をする。そして、出会ってから疑問だったことを訪ねた。
「この水母は、使い魔か何か?」
水母とは本来、水生のはず。こうして陸上で……いや、空中で生活するものは聞いたことがない。
となれば通常の生物ではないと考えるのが自然だろう。
「いえ、この子は使い魔ではなくて……ええと、使役しているつもりはないんですけど……」
その台詞に祐は聞き覚えがあった。
「使役……使い魔じゃない……?」
「あっ、わたしたち……初対面デス、ヨ?」
一之瀬は妙によそよそしくなる。なにかを焦っているようにも感じられる。
「初対面じゃ、ない……?」
こんな美人をそう簡単に忘れるだろうか?
なんとか記憶を捻り出そうと唸っていると、美雪の持つ懐中時計が視界に入った。
「……あーっ! あの時一緒に不法侵入してたむぐっ」
「あ、あは、は……」
祐は焦る一之瀬に口を抑えられる。一之瀬にとって、どうやら悪いことをしていたという認識らしい。
あの時は顔が隠れて見えなかったが、こんな声をしていたような気がする。
「あの、できればご内密に……!」
喋れないので祐が首肯すると一之瀬はようやく手を離した。水母もそれに合わせ一之瀬の頭の上に戻る。
ようやく触腕の拘束から解放され、一安心である。
「荒っぽくしてごめんなさい。その、あの時の行動は、あまりに浅慮でした……」
もちろんお二人のことも秘密にします、と一之瀬は慌てて付け加えた。
「浅慮だなんてまさか。あの時はありがとう」
助かりましたと祐は深々と頭を下げる。
「いえっ、あの……できることをしたまで、ですから」
というか普通死んでません?という言葉を祐は聞かなかったことにした。
そんなやり取りを気にも留めず、美雪は目を細め懐中時計を見つめ続けている。
「珍しく静かだね?」
「んー、なんか……さっきと色変わった……? 緑っぽい気が――」
祐は美雪の手の中の懐中時計を覗き込む。
美雪の言うように、無色透明だった文字盤は今、白混じりの緑に見える。
屋外だから見え方が違うのだろうか。実際、そういった宝石があったはずだ。
「あの、どこか破損でも……?」
一之瀬は心配そうに懐中時計を見つめる。
すると興味があったのか、その頭上から水母が食腕を伸ばし懐中時計をするりと持ち上げた。
「あっ、こら――」
一之瀬は水母をたしなめると触腕から懐中時計を取る。
その手に握られていた懐中時計はその文字盤の色を淡い緑から美しい碧色へと変えていた。
「今度は青くなってる!」
「ご、ごごごめんなさいっ!? 大事なものなのに色が……!」
美雪は気にしてなさそうだったが、一之瀬はあたふたと懐中時計を返却し水母とともに頭を下げる。
「結局、その水母って一体……?」
祐の疑問に対し顔を上げた一之瀬は、困った、と水母を見る。
「……普段、この子たちは表立った行動をしないんです。不審がられてしまうからという理由もありますけど……それ以上に、そもそも人前に出てこないんです」
水母は祐の近くへ再び寄ってくる。一之瀬の言葉とは対称的に、祐の周囲を気ままにふよふよと漂う。
「なので今回は非常に稀というか……どうやらあなたのこと、気に入ったみたいですね」
一之瀬は小さく笑みを零す。
「誰にも口外しないと、約束していただけますか?」
祐と美雪は頷く。
「もちろん」
「いいわよ」
美雪は一之瀬が抱えたままのミドリの頭を撫でる。
「もしかしてこっちも?」
一之瀬は困った顔で笑うだけで、それには答えなかった。
水母とミドリはそれぞれ青と緑の淡い光を放つ。溶けるように身体が薄れていき、やがて光の球体へとその姿を変えた。
「それって……!」
「はい。ニンフにシルフ――この子たちは、精霊なんです」
二匹が精霊であったことに祐は驚く。
だがそれ以上に、美雪がいつもの傲岸不遜な態度を一変させ、驚愕に目を見開いていた。
「い、今、ニンフにシルフって、言った?」
一之瀬は先ほどと同じように困り顔のまま答えない。
「それじゃああの時の4匹の、残り2匹って」
一之瀬は答えない。
美雪はカタカタと小刻みに震え始める。
「――いや待って。あなたの顔、どこかで見たこと……」
いつもの祐を小馬鹿にする不遜な笑みとは違い、美雪は引き攣った笑顔を作っていた。
「……あなたの、お名前を訊いても……?」
何かに気づいた美雪の震えが一層強くなる。
どうやら懐中時計に夢中で自己紹介を聞いていなかったらしい。
「はい――改めまして、一之瀬沙月といいます」
一之瀬は慣れた所作で一礼する。
ひゅっ、と美雪の喉奥から音が漏れた。
「あ、あっ、あた、私――」
「大丈夫? なんか、いつもの美雪らしくな――痛い痛い!?」
美雪は首が捩じ切れそうな勢いで祐へ振り向くと、その耳を引っ掴み、一之瀬に聞こえないように背を向けしゃがみ込む。
「この馬鹿! なんで、早く言わないのよ! 馬鹿!」
「いや、何の話?」
「わかんないの!? ああ、他クラスのことじゃあんたはわかんないか……!」
「有名な人?」
美雪は壊れた機械のように首を振る。その様子から察するに相当有名なようである。
ただ、深く知らない祐からしてみれば“めっちゃ美人のすごそうな人”くらいの認識のため、いまいち伝わっていなかった。
「へー」
「へー、じゃないわよ! 一之瀬沙月っていったら、学年一の魔術師なんていわれるような天才よ!? それにあの見た目もあって、うちの学年じゃ一大派閥ができるくらい、熱狂的なファンがそこら中にいーっぱいいるの!」
「派閥って。そんな大げさな……」
祐のいるクラスはいたって平凡で、派閥なんて単語とは無縁な集団である。
環境が違うといってもそこまで変わるだろうか。
「あたしも最初はそう思ったわよ! でも前に調べた時は宗教だとか、親衛隊とかまであったのよ? ――普通じゃない。あそこだけ別世界よ!」
いつになく早口で話す美雪は、見るからに緊張していた。
「下手なことして、何が起きるかなんて想像もできないわ」
「悪い人には見えないけど」
「そりゃ、あたしもそうは思わないけどさ……問題なのは個人じゃなくて、集団だからわかんない」
美雪は眉間を押さえる。
「祐、悪いことは言わないから、深く関わるのはやめた方がいいわ。鼻の下伸ばしたくなる気持ちはわかるけどね」
美雪ははっと何かに気づく。
「あれ、あたし、あの子の精霊追っかけまわしてたってこと……?」
美雪は祐の肩を掴む。
「どどどどうしよ……!」
「落ち着け! 何もないよ、考えすぎだって!」
「嫌よあたし、もうちょっと長生きしたいもん!」
美雪は持っていた懐中時計を祐に押し付ける。
「これ、あんたにあげる。大事にしてね」
「ええ!? 大事なものだって――」
「その時計の所有者はあんた。精霊追っかけまわしたのもあんた。オーケー?」
「なんでだよ! おかしいだろ!?」
「うっさい! あんたあたしの幼馴染でしょ! 命がけであたしのこと守りなさいよ役得でしょ!? それにあんたならボコボコにされてもどうせ死なないじゃない!」
「そういうのを半殺しって言うんだよ!」
「じゃあかわいい美雪ちゃんのために命張って死ね!」
「コイツかわいくねぇーっ!」
そこまで言ったところで、一之瀬がやってきた方向から、複数の話し声が慌ただしく近づいてくるのが聞こえた。
美雪は祐の背に隠れる。
一之瀬の近くで漂っていた2つの光はいつのまにか消えていた。
その集団は一之瀬を見つけると足早に近寄る。
そこから一人、長身の男子生徒が前へ出て一之瀬に話しかけた。
「探しましたよ!」
いくつか言葉を交わすと、男子生徒は祐たちを一瞥する。
後ろに控えている他生徒も訝しむ視線を二人に向けた。
「(祐! なんとかして!)」
「ちょ――」
ぐいぐいと背中を押され、倒れるようにして集団の前へ出てしまった。
男子生徒はますます祐を怪しむ。
「……君は?」
一体何を伝えたものかと祐は頭を悩ませる。精霊は口外するなと言われたばかりだ。
「……ええと」
「彼らは関係ありません。私が勝手に出歩いただけですから」
祐が何かを言う前に一之瀬がフォローに入る。
一之瀬の言葉を受けて、不承不承そうにしながらも男子生徒はおとなしく引き下がった。
ただ、めちゃくちゃ睨まれている。まさに突き刺さりそうな視線だ。
一之瀬は祐たちに向き直り、頭を下げる。
「すみません、ご迷惑をおかけしました」
「あ、いや、そんなことは……!」
「――あ、それと」
「え?」
吐息が掛かるような距離まで、一之瀬の均整のとれた顔がぐいと近づく。至近距離に絶世の美女の顔があり、祐の心臓は早鐘を打つ。一之瀬は自身の口元へそっと手を添えると、祐の耳元へ口を寄せ、他の人には聞こえないように言葉を紡いだ。
「残りの2匹を探すのを、手伝っていただけませんか? 精霊が懐くあなたの前になら、現れるかもしれません」
脳を直接撫でるような声で囁かれ、祐は身体が跳ねる。全神経が耳へと集中していた。
祐は気圧されるように一歩下がり、答えを待つ一之瀬の顔をまじまじと見てしまう。重力に逆らう長い睫毛の下で、不安と期待の入り交じる潤んだ瞳が、祐をまっすぐに見据えていた。
一目見た時からとんでもない美人だと思っていたが、状況が彼女を一人の女性として強制的に意識させる。
無自覚なのか計算された行動なのか、とても同年代とは思えない甘美な誘惑に眩暈がした。
派閥を成すほど多くの人が、彼女のファンになる気持ちが祐にはわかった気がした。
祐はうまく言葉にできず、ゆっくりと1回頷いた。
それを確認した一之瀬は、一瞬だけ花が咲いたように破顔し、慌てて表情を取り繕う。
それではと言い、きれいなお辞儀をすると、集団に周りを固められそのまま去って行った。
祐は耳に残る感覚を確かめるように、手を触れる。
「……助かったあ」
美雪はずるずるとその場にしゃがみ込む。
その声を聞いて、茫然自失だった祐ははっと我に返る。まるで夢を見ていた気分だった。
頬が赤くなっている自覚がある。
「ほ、ほら、これ」
祐は恥ずかしさを隠すように一度頭を振ると、押し付けられたままだった懐中時計を美雪に差し出す。
それに対して美雪はひらひらと手を振った。
「別にいいわ。本当にあげる」
「いいの? めちゃくちゃ価値があるんでしょ?」
「あー、さっき言ってたやつね、半分くらい嘘なの」
「嘘!?」
美雪は口を尖らせる。
「じゃなきゃあんた動かないじゃない」
確かにそうだが、これのために焼かれかけたのかと思うと釈然としない。
「失くすのが惜しかったのは本当よ? でも今回ので曰く付きになっちゃったから、おとなしく手放すことにするわ。本当に要らなかったら適当に不燃ゴミに出しといてよ」
「マジか……」
それよりも、と美雪は埃を払い立ち上がった。
「あれが取り巻き……派閥の親衛隊ってやつ? うーん、少し調べてみようかしら」
「関わらないんじゃなかったの?」
「関わんないわよ。でもちょっとでも関わっちゃったから、情報戦で後手にまわりたくないだけ」
美雪は一之瀬の去って行った方を見る。
「あたしもちやほやされたいって思ったりするけどさ……本当に、あの人の周りだけ別世界ね」
丁度昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴った。
「やば……! 急ぐわよ祐!」
美雪は背を向け、元来た道を走り出す。
祐は急いでポケットに懐中時計を捩じ込み、その後を追う。
そのポケットがほつれて穴が空いていることに、この時の祐は気がついていないのだった。