第七話
5
携帯電話が振るえ、机を鳴らしていた。手に取りディスプレイを確かめると未登録の番号が表示されていたので、武雄はそのまま放置した。着信はすぐに伝言サービスに切り替わったが、メッセージが吹き込まれる前に切れた。
「正也が今度、結婚することになった」
それとなく告げられると、幸は身を強張らせた。武雄は構わず幸の身体を背中から抱いた。
「女を孕ませて、その責任を取るんだそうだ」
武雄の腕からうまく体を抜くと、幸はひどく気だるい表情のまま立ち上がった。
「お前に同じことをしても、あいつは責任なんて取ろうとしなかったのに」
離れる背中に、武雄はそんな言葉を浴びせた。幸は何も言わず、脱ぎ捨ててあったショーツに足を通すだけだった。
短い冬休みを終え、武雄は東京へ戻っていた。休日には、必ずといっていいほど、小岩にある幸の住むマンションを訪ねていた。智和も、良太も、正也も、幸の行方を知らなかった。ただ、武雄だけは彼女の居場所を知っていた。それは、偶然ではなかった。幸が子供を生み、智和たちの前から姿を消した後も、二人は連絡を取り続けていたのだった。
「どうしておれにだけは電話くれたの?」
武雄は興味も無いのに、そんな質問をしたことがあった。
「当時は、あなたが一番無害なんだと思っていたんだと思う」
幸の答えはこうだった。
二人は着替えると部屋を出、近所にあるコーヒーショップに入った。幸はそこを気に入っていたが、武雄は気に入っていなかった。
「どうかした?」
幸の様子はいつもと変わらなかったが、不在着信のあった携帯電話を畳むと、武雄はそう訊いた。
「実は、仕事、首になりそうなのよ」
ため息をついた後、幸は自らマフラーで首を絞めて見せ、苦笑しながら、いいえ、と首を振り、確実に辞めることになるでしょうね、と訂正した。
「むかつく女がいて、私、そいつのこと大嫌いだから、目の敵にしていたのよ。でも、そいつ、いつの間にかうちのチーフとできてたらしくて、きっと取り入っただけなんでしょうけど、結局、気づいたら私を通り越して、異例のスピード出世ってやつをしちゃったのよ。それで、今度は仕返しで、私が目の敵にされてるってわけ。それもあからさまに。あからさまにね」
詳しくは知らなかったが、幸はそのアパレル会社に少なくとも四年以上勤続していた。武雄はふと、幸の言うむかつく女が、何年目で彼女の上司になったのだろうと考えた。
「お前はどうして、そのむかつく女ってやつにむかついてたの?」
武雄の問にも幸は答えず、割と上品にカフェオレを啜って見せた。
程なく大学の年度末テストが始まり、武雄はその日程に追われて過ごしていた。忙しい時期だった。忙しいにもかかわらず、週に二度は決まって正也の披露宴についての報告と相談の電話が良太からかかってきていた。
忙しい時期だった。武雄は忙しいとき、人との関わりを煩わしく思ってしまう嫌いがあった。だからなのか、目立った理由もなく、彼は幸からの電話の着信を拾わずにいた。彼女は十日に一度の割合で電話を掛けてきた。武雄は三度、その電話を取らずにおいた。一ヶ月弱の間、彼は幸の声すら聞いていなかった。大学の年末テストは終盤に差し掛かっていた。
「何で電話にでてくれないのよ」
幸はコタツに入り、テレビのバラエティー番組を眺めたままそういった。電話に出なかったことなど、少しも気にしている風ではなかった。
「どうしてこんな所まで来たんだよ」
「電話、出てくれないから」
散らばった雑誌やらプリント類をどかしながら、武雄はコタツに足を突っ込んだ。部屋の灯りが付いていることを確認していた武雄は、無断で幸が自分の部屋に上がりこんでいたことにも驚かなかった。
「ちゃんと鍵くらい掛けときなさいよ」
武雄がテレビを消すと、幸は傍らに落ちていたらしいポルノ雑誌を手に取った。
「どうして来た?」
バッグからありったけの参考書を取り出し、コタツの上へ置いてみせた。埃が立ち上ったらしく、幸は大げさに咳き込んだ。
「最終日まで予定が詰まってる。でもあと三科目でテストも終わりだ。その後は、実家に帰るまでの間は暇ができるんだ」
武雄が参考書を開くと、幸はポルノ雑誌を開いた。表紙はどこにでもいるような女子高生のグラビアだったのだが、中身ではSM趣味の特集が組まれているのを、武雄は知っていた。
「そうだ、どこか遠出してみないか? お前、いっつも楽しそうに旅行ガイド見てるじゃないか」
「それで、その先で、こんなことしようとしているんだ?」
幸は挑発的にそういい、体が反り返り、丁度水泳のバタフライをしているような格好のまま宙吊りにされている女性の写真を広げて見せた。舌を木製の洗濯バサミで摘まれ、粘ついた涎がその先から切れないまま長く垂れている。目隠しされ、体中には縄がこれでもかというくらいに食い込んでいる。乳房が押し出され、パンパンに張っている。油でも塗られているのか、高潮した頬も、涎も、乳房も、陰毛も、強烈なライトで艶やかに照らされている。それは如何にも張り詰めた様子ではあったが、何処かに弛緩が見られるようでもあった。(諦めという弛緩 こんな描写必要ない?)
雑誌を取り上げると、幸はつまらなそうに、
「仕事、先週辞めたの」
と告げた。彼女は余り気にしていないそぶりで、傍にあった別のポルノ雑誌に手を伸ばした。
「そんなに簡単に辞めちゃっていいのかよ」
テキストを閉じ、武雄は顔を上げた。
「お前、あそこ、東京に出てきて間もない頃から働かせてもらっていた所なんだろ?」
武雄は安易にそう尋ねたが、先週辞めたなら、今となってはもう取り返しの付かないことになっているということくらいは彼にもわかっていた。
「で? これからどうする気なの?」
テキストを広げ直したが、幸が立ち上がったので、武雄は顔を下げられなかった。
「これから私、武雄に電話しないようにするから、武雄も私に電話、掛けてこないでほしいの」
普段となんら変わった様子もない幸であったが、そもそも彼女が武雄の部屋に尋ねてきたこと自体がおかしくはあった。
「なんだよ、それ?」
「なんだって、つまり、そういうことよ。そうしたいと思っているの」
「何? もしかして電話に出なかったこと、怒ってるの? それなら謝るよ。お前が大変なときに相談に乗れなかったことも悪いと思っているから」
部屋を後にするそぶりを見せたが、武雄に引き止められ、幸はまるで他人事のように、
「別に怒ってないわよ。それは全然気にしてないから」
と首を振って見せた。
「じゃあなんだってんだよ。電話しないでって、そしたら、おれとはもう会わないって言うのかよ」
幸は武雄の問に戸惑いながらも曖昧に頷いて見せた。早足で玄関に向かった幸を、武雄は慌てて追いかけた。
「何かわからないんだけど、仕事も辞めたし、いい機会だから、武雄と会うのも、もう止した方がいいと思ったんだよね」
下駄箱に手を付き幸の様子を窺う武雄に、彼女は早口でそう告げた。忙しなくブーツを履く様が、今にも何処か遠くへ行こうとしているように、彼の目には映った。
「わかったよ。けど、電話は今までどおりくれよ。今度からは絶対でるようにするから。それくらい、いいだろ?」
ドアに手を掛けた幸にそう告げた。
「お前、おれと電話しなくなったら、他の誰と連絡取れるって言うんだよ」
武雄は幸を引きとめようとしたが、彼女は曖昧な微笑を向けただけで、部屋を出て行ってしまった。
「なんだよ。何考えてるんだよ。どうせ、すぐに寂しくなって電話してくるくせに」
閉まったドアに向かって憤りをぶつけた武雄だが、判然としない気持ちのままコタツへ戻るしかなかった。暫く、携帯電話が気になって仕方がなかった。
持て余していた電話の着信音が鳴ったのは、その日のテレビの番組が全て終了し、画面いっぱいに砂嵐が映し出されている頃だった。武雄は座椅子に坐りながら半分眠っていたので、それに気付くと慌てて通話ボタンを押した。
「今どこにいるんだ?」
武雄は通話と同時に電話の向こうの様子を窺った。
「…自分の部屋ですけど…武雄さん、何かあったんすか?」
切迫した声を聞いたからか、崇も合わせて声のトーンを落としたようだった。武雄は項垂れて、
「ああ。何でもない」
お前だったか、という言葉を口に押し込んだ。
「なんだぁ、こんな時だってのに、武雄さんも変なんだもんなぁ」
「…おれは変じゃない。それより、こんな時ってなんのことだ?」
崇の能天気な声に腹立ちながらも、些か救われた観もあった武雄は、普段なら殆ど会話もしない相手の話を聞いてやろうという気になっていた。
「実はですね、最近良太さんの様子がおかしいんですよ。なんていったらいいかわかんないんですけど、いつもの良太さんじゃないっていうか。実際忙しい人ですから、疲れているんだとは思うんですけど、簡単に言っちゃえば、あんまり遊んでくれないんですよね」
本当に困った風なため息を受話器に吹きかけてくる崇に、武雄はため息をつき返した。
「それで、おかしくなる前に何か変わったことはなかったのか?」
「良太さん、正也さんの披露宴の幹事の仕事ほとんど一人でやっているから、それかもしれないですけど。あと、変わったことって言うほどでもないんですけど、強いて言えば、ちょっと前に亜紀の奴が漸く良太さんの家から出ていきました。あとは…」
何か変わったことを頭からひねり出そうとしていたらしい崇であったが、後が続かなかった。
「亜紀、出て行ったのか?」
「ええ、きっと追い出されたんでしょうね」
「あいつ、行くとこなしだったんだよな? 今どこにいるんだ?」
何とはなしにそう聞いた武雄であったが、言った傍から幸の顔が頭によぎった。
「それが、何も言わずに出て行ったきり音沙汰ないらしいんですよ。失礼な奴なんですよ、あいつは」
「電話は掛けてみたのか?」
「ええ。でも、一向に出る気配がないんですよね。ま、どうせまた違う男でも見つけたんでしょうね、きっと」
崇はその後、散々亜紀の誹謗中傷を重ねた末、なお気が晴れない様子のまま電話を切った。
電話を切ったその手で、武雄は過去の着信履歴を遡った。最後に幸と寝た日、二度、未登録の同じ番号から電話が掛かってきていた。武雄は、亜紀の電話番号を知らなかった。




