表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/9

第一話

     1

目が疲れ、窓外を眺めようと武雄は身を捩った。窓が白んで外の様子は窺えない。それでも、冷えた外気に触れようと窓に顔を近づける。店内は喧騒に侵され、耳を欹てても雪の降る音は武雄に届かなかった。

 諦めて、War is hellと窓に指を当てていると、二つのエルを書く前に、逃げるな、と智和に肩を引かれた。

「―――だから俺ぁ言ってやったんだぁ―――」



口からはみ出した海老の尻尾を収めようとして、正也は次の言葉を紡げない。

傍目から見れば冷たい態度で、取り敢えず落ち着けや、と智和は言い、胸を叩く正也のグラスに酒を注ぐよう武雄に顎をしゃくった。

「要するに、後輩がお前の女にちょっかいだしたってことだろ?」

酒瓶を置いた武雄に眼を剥き、肯きながら指差し、正也は反対の手で口を押さえたが、海老の尻尾は敢え無く口から零れた。「食うのか話すのかどっちかにしろや」

すかさずテーブルに落ちた海老にティッシュをかぶせようとした智和の手を正也は払いのけた。何するんじゃあ、と智和が正也を睨む。

「俺ぁ海老の尻尾まで食わんと気がすまんのじゃ」

そう言って正也は尻尾を口に放り込んだ。喧騒の中の剣呑な空気に、海老の殻が砕かれる音が滑稽に響く。口の中には既に尻尾しかないようだ。睨み続けようとしていた智和だったが、耐え切れずに吹き出した。何もおかしいことはしてねぇ。正也は一人だけ不満顔をしていたが、満更でもない気持ちを下手に隠していた。

正也と智和は互いに悪態をつきながら、意見がたがう度に、酒を注ぐのに徹している武雄にどちらが正しいか判断を仰いだ。が、二人は武雄が答える前にくだらない小競り合いに戻り、怒っているようで楽しげで、何処か解放されているようでもあった。武雄は、二人のそんな光景を見守っているのが好きだった。店員が個室の扉を開けると、武雄と智和は黙ったが、正也は高潮した顔を前に突き出しながら話し続けた。武雄が窓に書いた文字がだらしなく崩れてしまったのを確認していると、しっかりした口調で智和が追加の注文をしだした。

 店員が出て行き扉が閉められると、暖房の利きすぎた室内に吸い寄せられていた冷たく心地良い外気が閉じ込められ、部屋は急激に暖められた。寒さにはっとしていた武雄はそれを少し残念に思った。

が、扉は程なく、再び開けられた。

 おお、来たか、と正也が大声を上げ、良太を招きいれた。良太の後を、何処か見覚えのある切れ長な眼と眉が印象的な女性が従ってきた。

「憶えてます? あたしと会ったこと、ありますよね?」

武雄の向かいに坐ることになった女性は、予想に反して落ち着くまもなく武雄に話しかけてきた。コートを脱ぎながら無邪気な笑顔を向けてきた女性の瞳は、

カラーコンタクトで左右で違う色をしていた。


その異様さとなれなれしい態度に武雄は少し嫌悪を覚えた。

女性のことを思い出せないでいる武雄に、ひどぉい、と女性は大袈裟に眉間に皺を寄せ、隣に坐る良太に顔を向けた。

「あたしのこと、忘れちゃってるみたいだよォ?」

武雄は、きっかり一年に一度、年の暮れから始めに掛けて地元に帰ってきていた。目の前の女性と会ったのは、一年前か、二年前か。

確かに見覚えのある顔はしていたのだが、髪型も印象も変わってしまっていて思い出せなかった。

「結婚?」 

智和の声に一同注目させられた。

「俺が結婚して、何が悪ぃことあるか」

武雄に何かを言おうとしていた良太は、姿勢を正していた正也に顔を向け、本気か、とだけ訊ねた。正也は毅然と肯いて見せた。その態度を取った正也が嘘を吐いたことはなかった。

 智和は汚い言葉で正也を罵りながらも、その端々に喜びを感じさせていた。どうせガキでもできちまったんだろ、と言ったり、お前はだらしないからちゃんと首輪を付けてくれる奴がいた方が丁度良いんだよ、と言ったりして少しだけ酒の量が増えた。

 滅多に見られない智和の醜態を拝もうと、良太と武雄は申し合わせて酒を奨めた。女性は目を輝かせ、良太の背中越しに頻りに正也に馴初めやら何やらを質問していた。

「大体、おまえはもっと早く結婚するはずだったんだ」

酒が利いてきた智和が一段大きな声を上げた。豪快に笑っていた正也が真摯な顔を智和へ向けた。

「女を孕ませただけで結婚を決意するなら、何で幸とは結婚しなかった?」

武雄の期待とは裏腹に、智和は悪酔いしていた。押し上げられたプラスティックフレームの眼鏡の奥にある目が据わっていた。ふざけているのではなかった。正也は何も言わず智和を見据えている。

「あの頃は、若かったしな」

武雄より慌てていた良太が、盛んに肯きながら故意におどけた声を出した。

「じゃあなんで孕ませたままでいた。なんで、孕ませたまま逃げたんだ?」

「―――あの頃、こいつにお腹の子をおろさせる為の金なんて、なかったじゃねぇか」

「―――怖かったんじゃあ。俺ぁあん頃、何もかんも投げる癖がついとった」

そう言うと正也は何かを噛み締めながら微笑んだ。智和は正也を睨みながら勢いよく立ち上がった。どこに行くんだ、と良太が不安げに声をだした。帰る、とだけ言って智和は扉を開けた。冷たい外気が室内に吸い込まれた。

悪ぃ、言いすぎたわ。胸一杯に息を吸った智和がゆっくりとそれを吐き出しながら、誰にでもない風にそう呟くと同時に扉が閉められた。正也は眉間を厳しく寄せ、口を突き出し、舌を頬の内側に押し付けているようで、そこだけが不自然に膨らんでいた。

智和がいなくなると正也はそのまま口を開かず、手酌酒を黙って啜っていた。昔から智和と正也の喧嘩は一種の決まりごとで、それが本気になることも多かった。そんな時は決まって智和の方がその場から立ち去り、正也が残るという構図が出来上がっていたので、良太や武雄はその状況に慣れてはいた。

「そういや、まだ思い出せないのかよ?」

良太が努めて明るい口調で武雄に訊いた。良太は暗い場の雰囲気を早く変えたいのであった。女性は武雄の目前までに顔を突き出し、怒った顔や笑った顔、鼻を指で押し上げたりして様々な顔をして見せた。

「ライブに来てくれた人だろ? 思い出したよ。確か、正也の後輩の彼女じゃなかったっけ?」

正也は反応しなかった。が、あたりぃ、と言って女性は嬉しそうに武雄の頬を二三度押した。机に乗り出した体から胸の谷間が覗いた。歯噛みされた舌が口の端で鈍く光った。

「でも、もう真治とは別れたの」

女性は機敏に小首を傾げ、悪びれる様子もなく答えた。武雄は不意に疑問に思った。

「今日二人で来たし、もしかして?」

そう言って良太と女性を交互に指差した。違いますよぉ、と無邪気に否定された。

店を出ると、雪は既にやんでいた。それでもまだ樹木には積もっていて、女性は固くなったそれを丸めて投げてきたりした。

武雄は酔った正也を送っていた。女性は良太の車に乗っていった。武雄は女性の名前を思い出せないでいた。女性を思い出せたのは、智和と正也の会話で幸のことが出たからであった。幸と正也が、武雄がヴォーカルをしていた陰気なバンドのライブに連れてきた後輩二人のうちの一人だったことまでは思い出せた。それでも名前は思い出せなかった。確か、聞いてもいなかったはずだった。ただ、女性の芯の通った強い眼差しだけが印象に残っていた。武雄は、真っ白なギターを爪弾きながら、女性の瞳を見て歌ったことを思い出したのだった。

「あいつ…亜紀は今、良太の家にいる」

正也は何処か遠い目をしながら言った。武雄は考えを見透かされたようで恥ずかしい気持ちになった。

「付き合ってないんじゃなかったのか?」

ああ、とだけ呟き、正也は車内の空気を勢いよく吸った。

「付き合ってはいねぇなぁ。要するに、亜紀が居候してるんだぁ。…あいつは真治と付き合ってるときに親から家ぇ追いだされちまってな。真治と別れてからは、本当に行くとこ無しになっちまってたんだぁ? んで、俺ぁ心配してたんだが、気ぃ付いたら良太ん家に転がりこんどった」

正也は腕を組み、体を左右に揺らしながら坐りなおした。

「居候って、あいつの家、余ってる部屋なんてあったか?」

正也は首を振るだけだった。

「なら、一部屋に二人が住んでるってことか?」

 正也は反応しない。

「それって、成立するのか?」

「…やっぱりぃ、そう思うべ? 俺だったら、一日とこっちの方がもたんもんなぁ」

頭を垂れながら正也は笑った。武雄も笑った。ある程度降り積もった後、踏み固められた雪の道に差し掛かっていた。

「俺ぁあいつの本心がわからん」

対向車線の車のライトが眩しかった。正也は顰め面をしたかと思うと、急に真剣な声を出した。

「良太はあの子が好きだぞ」

武雄は正也の顔色を窺った。彼は武雄を一瞥してから窓外を向いた。

「だからわからんのじゃ、あいつぁ何を思っとる? あいつは無邪気じゃ。普段は底抜けに無邪気じゃ。でもなぁ、時たまじゃが、恐ろしい目をしよる。本当じゃ。よくわからんが、こっちがとられそうになる。曇っとる、鋭くて、ねっとりとした目じゃ。…だからぁわからん。あいつは良太の気持ちを利用しとるんか。それとも知らんで、無邪気に良太を頼っとるだけなんか」

いつの間にか正也は武雄に向きを直して訊ねていた。武雄はわざとラジオの音量を下げた。

「どっちにせよ、二人がくっつけば良いんじゃないのか?」

正也は暫く答えなかった。定期的に街路樹から抜けた月明かりがその横顔を照らした。

良太はええ奴過ぎるからのぉ。呟いた正也は、ゆっくりと頬杖をついた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ