07 前世から愛してる
午前中の書類仕事は今までにないスピードで進んだ。
どんな訓練でもここまでの集中力が出たことはなかったのではないかと思う。
そのおかげで締め切りを間近に控えていた書類がすべて片付き、ロキもご満悦だった。
問題は昼からだ。
午後の訓練を終え、執務室に戻った頃にはもう既に俺はそわそわしていた。
今日の夜はパノンとデート。
そして明日は約束の日だ。
俺はそれまでにパノンに伝える言葉を考えなければならない。
選択する言葉を誤れば俺はパノンを失うことになる。
今までパノンに好きな男がいるのならば血涙をのんで手放そうと思っていた。
だがパノンは好きな男がいるということを嘘だったと告白し、俺のことが好きだと言ったのだ。
そんなパノンを失うことになるなんて、俺はこの先生きてはいけないかもしれな――
「ヴェル。ちょっと。おい!」
「……なんだ」
「何やってんの。そこサインするとこじゃない! 印鑑!」
ロキの呼びかけで思考の海から意識を浮上させた俺は印鑑を押す欄に、思い切りサインを書いていた。
午前中の集中力はデートへの期待感を原動力としていたが、今は楽しみよりも不安感が勝っていて仕事どころではない。
パノンにきちんと自分の想いを伝え、納得してもらえるか。
それが不安で仕方が無かった。
「これは、もう書類仕事は無理だな……」
「もう今日は仕事やめといたら? そんなんで重要書類に適当にサインされても困るし」
呆れ顔のロキが言うことはもっともだ。
団長であり領主であり、王国騎士である俺の元には数々の重要書類がやってくる。
悩む片手間に済ませていい書類ではないものがほとんどだ。
深いため息をこぼして、目の前の書類を未処理の山へと戻してうなだれた。
「ロキ。俺はまずパノンに謝らなければいけないよな」
「そりゃね。今の今まで謝れなかったことも含めて謝らないとだよね」
ロキにさらっと言われて、思わず小さく呻いてしまう。
パノンに前世の話を打ち明けたとき、俺はパノンがあんなにショックを受けるとは思っていなかった。
前世からの愛は俺にとって尊さを感じるほどに価値のあるものだった。
だから俺を憎からず思ってくれているだろうパノンは、俺の愛が前世からのものだと知ったら喜んでくれると思っていたのだ。
なのにパノンはショックを受けた。
『ヴェルメリオ様は、私に愛していると言いました。でもそれは、『パノン』にではなく、『スノウ』に向けた言葉だったということですか?』
パノンが震える声でぶつけてきた言葉は、俺にとってどこか図星だった。
俺がパノンの向こう側に、いつもスノウを見ていたことは事実だった。
触れられたくない部分に触れられた俺は最悪のタイミングで抱えていた不安を爆発させ、パノンを傷つけた。
あんなときにパノンに想い人がいることを責めるだなんて、どうかしていたと思う。
言ってしまった直後に反省したというのに、数日経った今も俺は謝罪できずにいた。
「なんでとっとと謝罪しないのさ。朝食のときも黙りこくっちゃってさ」
「謝罪はしたかった。したかったが、謝ればあのときと同じ質問をされかねないだろう。俺はそのときの答えをまだ用意できていない」
「……パノンじゃなくてスノウが好きだから?」
「違う」
壁により掛かり試すように首を傾げるロキの言葉を即座に否定する。
……否定はしたが、その後になんと言えば良いのかはわからなかった。
「難しいんだ。俺はパノンを愛してる。だがスノウがいなければ、俺はパノンのことを知ろうともしなかったかもしれないことも事実だ」
俯いて呻くように話す。
ここ数日、ずっとパノンに対する自分の気持ちについて考えてきた。
パノンを愛している。
その気持ちだけは確かだったが、パノンの不安を解消できる答えが用意できない。
頭を抱える俺にロキは「ふぅん」と小さく呟く。
それから囁くように言った。
「パノンを手放したくないなら優しい言葉だけを伝えれば良いじゃん」
「優しい言葉……?」
「パノンを愛してる。それだけ伝えれば良い。スノウのことを愛してることは胸の内に秘めておきなよ。
ヴェルは不貞を働いてるわけじゃない。他にももう一人想っている人がいるだけだ。しかもその相手は現在愛を伝えてる人と同一人物なんだよ。
騙してるわけでも、嘘ついてるわけでもない。これが一番賢い案だ」
目を眇め、悪魔が囁くかのように提案してくるロキの案も考えなかったとは言わない。
嘘も方便。
口は災いの元。
いろいろな言い訳が頭をよぎったが、その案は採用したくなかった。
「……パノンは俺に今まで気持ちを伝えてくれた。恥ずかしくても怖くても、勇気を出して今まで伝えてくれていたんだ。そんなパノンに対して俺だけがいつまでも逃げているわけにはいかない」
「じゃあ、どうするの?」
口角をあげたロキに、俺は少しの間をあけて答えた。
そのシンプルな答えはとっくの昔に決まっていたのに、勇気を出すのに今の今まで時間がかかってしまった。
「パノンに言葉を尽くして思いをありのままに伝える。それで俺の妻になってもらう。そんな未来を手に入れる」
決意を口にした俺にロキはふっと笑む。
前世からずっと保護者面をするロキは現世でもこうやって遠回しに俺を鼓舞してくれる。
「ありがとう」と口にすると「なにが?」と誤魔化したロキは俺の答えに心底満足した様子だった。
決意をしたなら、あとは今夜のデートを楽しんでパノンに想いの丈をぶつけるだけだ。
吹っ切れた想いで残された仕事を片付けようとしたとき、ドアがノックもなしに開かれた。
「団長、失礼いたします!」
「どうした」
尋常ではない様子で駆け込んできた騎士の様子に、反射的に椅子から立ち上がる。
転がり込んできた騎士は真っ青な顔をあげた。
「大型魔物の群れが街のすぐそこまで迫っています! 防衛隊で対処できる数ではなく、追憶の煙を吐く魔物もいるため倒れる者が続出しています!」
こんな日に限ってなぜ忙しくなってしまうのか。
怪我人が出る前に処理しなければならないだろう。
騎士の言葉を聞きながらも部屋の外へ向かっていた俺はロキを振り返った。
「ロキ。パノンには遅くなるが必ず迎えに行くと伝えてくれ。魔物の件は伝えなくていい」
「承知しました」
人前であるため恭しく頭を下げたロキを置いて、部屋を出る。
パノンに魔物の件を伝えないように頼んだのは心配をかけたくなかったからだ。
パノンも俺と同じく人生の岐路に立っている。
そんな中で余計な心配はさせたくなかった。
「速攻で片付けるぞ」
「は、はい!」
後ろを付いてきていた騎士が震え上がるように返事をする。
すれ違った人々が「緋色の悪魔だ……!」と悲鳴をあげるほどの殺気を放ちながら街の外へと向かい、宣言通り速攻で魔物を倒した。
でも俺はその後、パノンとの約束を守ることができなくなった。




