05 絶対に惚れたりなんかしない
さっきまで緋色の悪魔でしかなかったヴェルメリオ様が、パッと表情を華やがせる。
ヴェルメリオ様にしっぽがついていたら、そのしっぽは今頃ちぎれんばかりに振られていると思う。
美形は崩さず綺麗な微笑みを浮かべたヴェルメリオ様は、こちらに駆けてくる。
その足取りは羽でも生えているんじゃないかと思うほどに軽かった。
「どうした? こんなところまで」
「……ヴェルメリオ様にお話があって参りましたの」
会っただけで、こんなに上機嫌な対応されたら罪悪感で胸がつぶれそうになっちゃうじゃないのよ!
ヴェルメリオ様の慈しむような瞳を見ていると、胸が苦しくて仕方がない。
視線をそらしながら用件を伝えると、ヴェルメリオ様は「そうか」と仕事中にもかかわらず快く頷いた。
「今からは事務仕事の時間になる。仕事をしながら聞いても構わないか?」
「ちゃんと聞いてくださるの?」
仕事の片手間に聞かれて、ちゃんと取り合ってもらえないと困ってしまう。
ちらっとヴェルメリオ様を見上げると、小動物でも見たような微笑みを向けられてしまった。
「もちろんだ。行こう」
颯爽と踵を返したヴェルメリオ様の後を追って、訓練場を離れる。
ヴェルメリオ様のあまりの変貌っぷりに騎士達がざわついていたけど、本人は気にもとめていないみたいだった。
屋敷と違って、営所は多くの騎士とすれ違う。
その度に騎士たち全員が背中に棒でも入れられたみたいに、ピンと背筋を正して敬礼していた。
ヴェルメリオ様はこのお城のとても怖い主らしい。
訓練中のヴェルメリオ様の姿を見た後だと、納得の評価だ。
辿り着いたヴェルメリオ様の執務室は書類にあふれていた。
重なった書類が塔になってしまったものが、いくつも乱立している。
今にも倒れそうな書類の山々からは離れた応接セットに、ヴェルメリオ様は私を座らせた。
「それで? 話というのは?」
「……お仕事はいいんですの? こんなに書類がたまっていますけれど」
「片付く気配はないんだが、締め切りはすべて守っている。話を聞く間は、剣の手入れという仕事をさせてもらおう」
言いながら、ヴェルメリオ様は腰に佩いていた剣を抜くと、近くの棚から手入れのセットを出してくる。
今から失礼なことを言うのだと思うと緊張してきた。
何せヴェルメリオ様は、私をたたき斬ることができる武器を磨いている真っ最中なのだから。
「そういえば採寸は済んだか?」
「採寸はしないことにしましたの」
「……なぜ?」
ヴェルメリオ様がきょとんとした表情を見せる。
そんな表情をすると、年上のヴェルメリオ様が幼く見えた。
良心がキリキリ痛むのを無視して、私は組んだ足に頬杖をついて言ってのけた。
「ドレスがいらないからですのよ。窮屈なのは嫌いなんですの」
「そうか。窮屈ではないドレスを頼もう」
「いらないんですのよ!」
穏やかに頷くヴェルメリオ様に、語気を強めに返す。
ヴェルメリオ様の剣を磨く手が止まった。
「ヴェルメリオ様。わたくしはなにもいりませんの。欲しいのは婚約破棄への承諾のみですわ。
わたくしは伯爵令嬢の身の上。公爵であるあなたに一方的に婚約破棄を突きつけることはできませんわ。あなたが承諾してくれなければ、婚約が破棄できないんですの」
傷つけているだろうな。
そう思いながらも、強めに言い放つ。
気づけば私は、ヴェルメリオ様に『どうか怒ってください』と祈っていた。
悲しい顔をされるより、怒鳴りつけられた方がよっぽどマシだと思えた。
ヴェルメリオ様の顔からは表情が消え、深紅の瞳が探るように私を見ている。
ボロが出てしまわないように、私は唇を引き結んだ。
「パノンは本当に、俺と結婚したくないんだな?」
「はい」と返すべきだった。
だけどヴェルメリオ様の声があまりにも切なくて、なにも返せなかった。
ヴェルメリオ様は小さく息を吐いて、唇を甘く噛む。
もう私はヴェルメリオ様が握った剣で、たたき斬ってもらいたかった。
「少し考えさせてほしい。予定通り、夕方にパノンの部屋に行ってもいいか?」
「……はい」
小さく頷くと、ヴェルメリオ様は安堵したみたいに微笑む。
でもその凛々しい眉は下がりきっていた。
「パノンの望み通り、ドレスは贈らない。今まで無理してドレスを着てくれていたんだな。これからは好きな服装で過ごしてくれ」
「わかり、ましたわ」
気まずくて死にそうだ。
ロキが「失礼します」とお茶を持ってきてくれたところだったけど、もう限界すぎる。
私は弾かれたようにソファーから立ち上がった。
「それでは、失礼いたします」
「あれ? お茶が入りましたが……」
ぽかんとしているロキの脇をくぐり抜け、廊下を足早に歩く。
すれ違う騎士たちが何か囁いていたけど、今度は聞こえなかった。
長い長い列柱廊にさしかかったところで、足取りが重くなる。
胸が痛すぎて、どうにかなりそうだった。
「パノン様! パノン様大丈夫ですか?」
一部始終を見ていたフィオルが背中を撫でてくれる。
「大丈夫よ。傷つけたのは、私なんだから」
加害者は私。
被害者はヴェルメリオ様。
なぜか泣きそうな思いがしたけど、加害者である私に涙なんか許されるはずがなかった。




