2.川野浩
「確かに、そうかもしれませんね」
その場を切り抜けようと、僕は仮面の奥から嘘で塗り固められた言葉を吐きました。罪悪感が背筋を撫でます。
彼女の言葉は僕にとって意外そのものでした。
葉蔵は『人間失格ではない』、と?
僕は確かに、あの作中で葉蔵が自分自身を「人間、失格」と烙印を押すように罵っているのを見ているのです。しかし、僕はそこで読むのを止めておりました。確かに、最後まで読んでおりません。彼女は、僕の知らない物語の結末を知っているのです。
それは後ろめたいことでした。結末を知らずして彼女を含めた女性群に作品を語っていたのですから。そのことを悟られることは、気分が良くありません。いくら仮面をつけていて、彼女に嫌われることがないとはいえ、僕自身が変に気にしてしまうのです。僕は結末を知っている、最後まで作品を読んでいる。そう思い込んで、彼女に返答しました。
「葉蔵は、人を笑わせようとした、優しい青年ですからね」
「そうだよね。葉蔵は、とってもやさしかった。だから、彼が脳病院に行かされる程まで狂ってしまったのは、きっと、彼のせいじゃないんじゃないかって」
「良い作品でしたね。だから、今回の作品も楽しみなんですよ。『仮面の告白』」
僕はさらりと話題をそらしました。彼女ははっとして、必死に僕の会話に着いてこようとしてきます。
「そ、そうだね! 楽しみ……だね」
何度も頷きながら、彼女は僕を上目遣いに見つめてきます。同意の意味を込めて、僕も首を縦に振り、手に取ったその本に視線を落としました。
無機質な、鉛筆で書かれた古い絵が印刷されています。それは二人の人間を模しているように見え、どこか恐ろしげでもありました。タイトルにある仮面は、どこにも見当たりません。僕は自分の顔に触れました。
仮面は、何かのメタファなのでしょうか。僕はその作品に何が描かれているのか気になって仕方ありませんでした。決して僕は文学作品が好きというわけではありませんが、本作は僕にとって何か巨大な存在となり得る予感がしているのです。
興味関心というよりは、恐怖に似た感覚。自分の解体新書であるかのように、その本が恐ろしいのです。自分について、全てが描かれているのではないかと。
「き、木崎君? 体調悪そうだよ?」
ふと気づいて、彼女の顔に視線を戻しました。彼女は少し慌てて手提げ鞄から花柄のハンカチを取り出し、僕の頬に流れる汗を拭き取りました。彼女の顔が凄く近くにあります。惚れた男に向ける、呆けた顔をではなく、自身の子供をしんぱいするような、神妙な表情。
距離は20センチほど。先程よりもずっと近くで、僕たちは見つめ合います。彼女は首をかしげて、再度僕に体調について尋ねてきましたが、僕はその距離感が落ち着かず、思わず一歩後ずさりました。
「あの、ち、近いかな」
「あっ! ご、ごめんなさい……」
指摘されて、彼女はショートカットの髪を揺らしながら慌てて数歩、後ろに下がります。気まずいような、浮ついたような沈黙が僕たちの間に訪れ、ちらりと顔を見れば、彼女とまた目が合い、頬が熱くなるのを感じました。
「ぼ、僕はもう帰りますね」
そう告げて、本を強く握りその場を後にします。すると、彼女が後ろから「待って」と声をかけてきました。僕が振り返りますと、まだ赤みがかかっている顔をこちらにむけて、恥じるように身体を微かに揺らしていました。長いスカートが風に煽られるようにして華麗に舞っています。
「そ、そういえば、自己紹介、してないなって」
「そうでしたっけ?」
「う、うん。私たちが、一方的に木崎君に話しかけただけで」
しっかり彼女に向き直ります。彼女の言葉を聞く姿勢を示したのです。嬉しそうに顔を緩ませ、彼女は自身の名前を告げました。
「私、東美紀っていいます。美紀でいいですよ!」
「美紀さん。僕は木崎です。よろしく」
彼女は目を細めて微笑み、頭を少し下げてきました。僕もつられて下げます。ぎこちないやりとりでしたが、僕はこの距離感が新鮮でした。自分に好意をよせている女性と向かい合い、名前を言い合う。つまり、そのくらいの関係だというのに、彼女は僕を好きであるかのような態度を取っているのです。
ふと、文豪たちの書物が並ぶ本棚へ視線が行きました。『人間失格』の文字が見えます。僕は、自身を『まだマシ』と述べましたが、存外、それどころではないのかもしれません。
このような、人と人との関係を楽しめるようになった自分は、人間の営みのなかに、はっきり存在していると言えるのではないでしょうか。
気分が良いままに、僕は図書館を出ました。数回振り返りながら、その場から離れていきます。彼女は今も図書館で書物をあさっているのでしょうか。想像の中で光り輝く彼女を想いながら、僕は帰路につきました。もう、『仮面の告白』など、どうでも良くなっています。
学校の敷地を出て、アパートの建ち並ぶ団地に入ります。奥に行けば行くほど、人の気配が消えていきました。僕は少し足を速めてどんどん歩いて行きました。下手な鼻歌でも歌ってしまいそうになるほど、気分は高揚しています。
もう少しで我が家に着くと思ったとき、僕の足はだんだん止まっていきました。目の前に、道の真ん中で、キスをする男女が見えたのです。男が、肉を貪る猛獣のように、女の唇へ自分の唇を押しつけています。両腕は腰に回され、男が肉欲に突き動かされているのがよく分かりました。
僕は一気に冷めた気持ちになんとかむち打って、再び歩み始めました。彼らが道の真ん中で事をなしているので、端っこに追いやられた心地がしながらなんとか道の端を通って彼らを避けます。
ちらりと二人を見ますと、女と目が合いました。ぎょっとして顔をそらしますが、僕の記憶には彼女の顔がもう刻まれてしまいました。あれは、どう見ても、文学の授業を同じくする質問狂、川野浩でした。
僕は早くその場を離れたい気持ちでいっぱいになり、再び足を速めようとしましたが、予想外にも、彼女のかけ声によってそれは妨げられました。
「ねえ、ちょっと待って」
僕は驚いて振り返りましたが、僕よりもキスしていた男の方が呆気にとられていました。川野浩はそんな男に一声もかけず、僕の方に歩いてきます。毅然とした態度の彼女に、僕は戦慄して動けなくなりました。そして、ひとつ、違和感を覚えます。
彼女が、授業で見るときよりも、女性的な魅力を放っているように見えるのです。胸と腰が強調され、顔は妖艶な空気感を感じさせます。歩く度に鳴るヒールの音が、彼女に似合っているように感じました。以前は、酷く不格好だった様な気がしますが、今は別人のようです。しかしそれは、確かに川野浩でした。
彼女はそのまま口づけをする勢いで顔を寄せ、僕が思わず胸を高鳴らせてりうのを無視して唇を僕の耳元に近づけました。
「あなた、仮面つけてるね」
僕は心臓が止まった気持ちになりました。呼吸が出来ず、身体が動きません。力が入りません。自然に腕が痙攣を始めます。彼女がゆっくり僕から離れていくとき、僕の顔を、じっと眺めているのが印象的でした。まるで、品定めでもするように、見つめてくるのです。僕の奥底を見透かしているように。
彼女は男と肩を並べ、近くのアパートに入っていきました。僕はその後ろ姿を眺めることしか出来ず、立ち尽くしておりました。