6.深層の顔
スマートフォンの目覚まし機能が不安定なリズムの音楽を奏でます。
僕はこの音が大変嫌いで、どんなに小さな音量であっても、流されようものなら瞬時に瞼が開きます。舞台を見に来た客を焦らす緞帳のようではなく、瞬く間に、といった具合です。
部屋の空気に濡れタオルのような重みを感じます。カーテンの隙間から差し込んでくる明かりに、太陽のぬくもりはありませんでした。少し肌寒いです。
時刻は八時を示しております。これは、登校時間までかなりの余裕がある時間帯です。僕は朝を苦手としませんでしたから、目が覚めれば惰眠への誘惑などは消失し、役割を失った布団を畳み、朝食の準備を始めます。
まあしかし、朝食といえど軽いものです。あらかじめ買い置きしておいたウインナーと、ひとつの卵、食パン。これだけあれば、寝起きには十分であります。
褒められたものではありませんが、親元(実の親ではありませんけども)を離れてから見始めたテレビをつけて、食事を始めました。朝テレビをつけてまず映し出されるのは、専らニュースかゴシップの類いです。よく知らない偉そうなしゃべり方をする人々が並んで意見を言い合っております。
皆、よくそんなに正直な意見を言い合えるなと、感心しました。
しかし同時に、この人達を嫌に思う人も多いだろうなと、想像しました。
テレビに映る専門家ぶった人々がなにやら議論を交わしています。彼らの中心に掲げられている男の写真。僕はそれに見覚えがありました。
「で、その不倫した内村幸喜が、今行方不明だと」
「謝罪会見が怖くて逃げ出したのか」
「そこでね、今朝新しい情報が入っておりますので、こちらを、ご覧くださいませ」
あたかも重大な情報ですと言わんばかりに音楽が流れ、その終わりと同時に、男が情報の書かれたフリップを示しました。
どうやら、不倫した内村幸喜が住んでいたマンションの一室には、全くの別人である太った男が暮らしていたらしいのです。見事に逮捕されたらしいのですが、「自分は内村幸喜だ」と主張しているとのこと。
ああ、この人は可哀想な人だ。自分が誰であるかさえ、わからなくなってしまったのでしょう。自分の本質を見誤ったのです。
番組を見ている間に、視聴者達が気に入らないことがあれば、クレームだのなんだのが匿名という仮面をかむったSNSや電話を使って彼らに送られるのでしょう。そう思うとなんだか嘆息してしまいそうになりますが、僕にそんなことをする勇気はありません。
食事を終えて手を合わせると、机の端っこに不用心に置かれているものに視線が向きました。白い机の上に乗せていても、確かな存在感を示す、それ。
もちろん、仮面であります。
老人曰く、人に愛される仮面です。僕を失格でない人間にしてくれるものです。
僕はなんとなくその仮面を手にとり、目元や口元を撫でてみました。何の変哲のない、百円ショップの角に放置されていそうな安っぽい仮面。夏祭りの仮面屋に置かれていれば、きっと異彩を放っているこれを購入する者はいないでしょう。
仮面はかむるものであって飾るものではないでしょうから、これはある意味で仮面失格なのでは?
さて、そろそろ時間です。九時からの講義に間に合わなくてはなりません。
本日必要となる重々しい教材をバッグに詰め、少し気分を高揚させながら仮面も中に入れようとしますが、教材に仮面がつぶされてしまうのではないかと不安になったので、タオルを巻いて、出来るだけ重みがかからないように調節してからバッグに入れました。
少し慎重にバッグの紐を肩にかけ、家を後にします。
思った通り、外は曇天でした。僕はカラス色の傘を手に、学校に向かっていきます。地面の具合から見てまだ雨は降っていないのでしょうが、空気はどんよりとしています。そのなかを、僕を含めた学生達は緩やかな足取りで進んでいきます。
道行く人々は皆顔を下に向け、この曇り空の空気感に見合った雰囲気を醸し出しているように感じました。
まだ見慣れぬ景色でしたが、僕も辺りを見回したり、まっすぐ前を向くこともなく、俯き加減で歩いて行きます。特に何か意識しているわけではないのですが、面白みのないアスファルトが目を引いてくるのです。
こうして下を向いているのは、目を瞑っているのと同じ事だと思います。
何にも関心を示さず、特に人と話すこともせず、眠っているように何もせず、ただいつの間にか目的地に到着している感覚。
学校に着けば、人と出会う。誰かと話すかもしれない。つまり、今は孤独な時間なのかもしれません。この間が嫌でしょうがなく、僕を含めた人々は下を向いている(目を瞑っている)のかもしれません。
しかし、僕は次の瞬間、孤独ではなくなりました。
肩を軽く叩かれ、驚きのあまり呼吸を止めてそちらを向きます。まず目に入ったのは、黒縁めがねの向こうに見える、微かな怯えをはらんだ脅迫的な瞳。アフロのごとくパーマか癖毛が目立つ男。僕の今の感情を説明するのならば、誰?
「や、やあ」
男は努めて友好的に僕へ挨拶をしてきたように見えました。僕はそれに応えなくてはならないでしょう。つられて、会釈を返します。ど、どうも、という言葉も添えて。
「お前、確か、同じ授業取ってる奴だよな。今日」
「え、何の授業のことですか?」
本気で彼のことがわからず、聞き返してしまいました。これでは「あなたのことなんて知りません」と言っているのと同じです。
少し気まずくなって僕は視線を逸らしましたが、彼は気にすることもなく授業の名を口にしました。それは、この学校で一番大きな講義室で行われる授業でありましたので、100人を超える生徒が受講しています。
お互いに、知らなくても仕方ないことなのです。
「その授業なら取ってますよ」
「良かった。人違いじゃなかったみたいだな。今日、一緒に受けないか?」
この誘いを断る理由を持ち合わせず、むしろ受け入れる理由も浮かばなかったのですけれど、僕は首を縦に振ってしまいました。嫌というわけではありませんが、彼との間にはなんの関係も形成されておりませんから、彼がどのような対話を求めているのかわかりかねるのです。
故に、下手なことは出来ませんでした。
「あの授業意味あんのかね? 俺は大学ってもっと実りのある学習ができるのかと思っていたよ」
唐突に始まる講義非難、教授批判。
僕は相変わらずこの手の話題が苦手で、首を傾けるのみで対応します。肯定も否定もしません。ただ、拝聴するのみです。
語り口から強い自尊心を感じる彼は、名前を岡崎和樹と言いました。
僕が名乗りますと、一瞬ギョッとしましたが、「俺はそういうの気にしないから」と理解のあるフリをし、今度は僕の両親を糾弾し始めました。
また僕は首を傾け耳を傾け、しかし心だけは傾けず、彼の尊大な意見を拝聴するのでした。今日は学校がひどく遠く感じられます。
目を瞑っていた方が、幾分かマシだったかもしれません。気のせいか、周囲から同情の視線が向けられている気がします。
少し離れたところに、昨日僕に『人間失格』について聞いてきた女群が見えました。僕の方を見て、何やら笑いながら話しております。それがどんな話題なのかなんとなくわかるほどに、彼女らの挙動は可笑しいものでした。
ふと、バッグに詰められた仮面に手をやりました。タオルの奥から無機質な感触。愛の源。僕に、これは本当に必要なものだったのでしょうか? あの女群の中にいる彼女なら、僕を受け入れてくれるのでは?
ふと、過去を思い返し、きっとそんなことはないのだと反省します。
里親たちのうち、誰か一人でも、僕の内側まで好いてくれる人がいたでしょうか。僕の心に、どれほどの人が耳を傾けてくれるでしょうか。今、僕の隣でスピーカーと化している彼も、僕を求めているわけではありません。スピーカーは、聴衆を求めているのです。
仮面が、誘惑してきます。今だ、今こそだと、呟いてきているようです。強く恐ろしい導きでした。しかし、まさに今、タオルの奥へ手を差し込もうとした時、いつのまにかすぐそこに来ていた女群が、僕の名前を呼びました。同時に隣から冷ややかな視線。
ああ、やめてください。大して知らない僕に、そんな目を、冷暖双方の目を、向けないでください。
僕に何を期待しているのですか。
僕はきっと、あなたたちが求めている存在には、なれないのに。