5.仮面人間
男のお腹が膨れていき、そう長くない時間で元のふくよかな姿に戻りました。そして、生き生きとしたイビキをかき始めたことで、僕は胸をなで下ろします。往生していたわけではないようです。
道化の仮面をかむった老人は、男の体たらくを黙って見つめていましたが、やがて杖をつきながら歩き始め、地に転がった仮面に杖先を向けて小突きました。
するとどうしたことか、仮面が操り人形のように何かに吊られる様子で浮かび上がり、おそらく元あった場所であろう壁に自ら掛かりました。周囲に位置する仮面と同様、寸分のズレもなく整列しております。
何事もなかったかのようにその場所に収まった仮面をじっと僕が見つめていますと、老人がまたどこかへ向かって歩き始めました。そして、淡々とした口調で語り始めます。
「その男はね、仮面をかむることで、自分は生まれ変わったとでも思ったのだろうね」
僕は再び地面に転がる彼を見ました。先程のことなど無かったように、機嫌の良さげな顔つきで眠っています。この姿の方が、幾分かかわいげがあるというものです。一度踏んでしまえば身体を吹き飛ばされる地雷をいくつも抱えていたあのイケメンのような姿は、彼の中身、つまり人格とのズレを感じました。
余裕のない演技をしているような立ち振る舞いだったのです。
老人は砕けてしまった仮面の欠片を一つ一つ拾いながら、それらを接着剤もなしに手元でつなぎ合わせながら話を続けます。
「この店に初めて来た時、その男は迷うことなく、イケメンとやらになれる仮面を手に取っていったよ。必死で、欲を丸出しにしてね。初めて仮面をかむったときには、キスで元の姿に戻った王子のようだった。喜んでいたよ」
老人の声に、哀愁が感じられるようになりました。摩訶不思議な力でつなぎ合わされた仮面を天に掲げると、またそれが勝手に浮かび上がり、ひとつ空いていた空間に収まりました。
それを確認しますと、老人は道化の仮面の奥から僕を上から下まで眺め、ふっと笑って、笑顔のまま尋ねていきます。
「おまいさんも、仮面が欲しいかね? 念のため、おまいさんに渡す仮面は決まっているのだがね」
「……え? もしかして、僕にその仮面を渡すために」
「左様。この店に呼んだのは、そのため。まあ、絶対に受け取れという話ではない。儂の善意のようなもの。きっと、おまいさんのためになるとおもってな」
老人はそう言って杖先をある方へ向けると、壁に掛けられていたひとつの仮面がゆっくり浮かび上がり、老人の手元に向かってふわふわと飛んできました。それを手に取り、僕に差し出します。
僕はまじまじとそれを見つめました。
真っ白な仮面です。つるっと滑らかな表面をし、表情のない顔つきをしているように見えます。何かを隠しているような、そういう印象を与える仮面です。
僕はその仮面を受け取ることに抵抗を覚えました。なにやら不気味だったのです。
このような仮面をつけた人物が夜道を歩いていれば、自分であれば不審者と思うであろうことは、想像に難くありません。
僕はこの仮面が自分のためになるということが納得できませんでした。これは、ある種セールスのようなものだと考えて、受け取らない、という選択肢ももちろんあるのでしょうから、僕は疑問を伝えてみることにしました。
「な、なぜ、僕にこの仮面を?」
おそるおそる声を出したような言い方になってしまいましたが、老人は思考する間もなく答えてくれました。
「この仮面をかむることで、おまいさんは異性から愛されるようになる。おまいさんは、きっと、人と愛し合いたいのではないかと思ってね」
「愛し合いたい?」
「左様。おまいさんは、共に人生を歩んでくれる人間が、欲しいのではないのか? どんな自分であっても、受け入れてくれる人がね。おまいさんはすでに、一枚、仮面をかむりながら過ごしているように見えたがね」
老人の語り口に不安を感じながら、唐突な内容へ首をかしげておりました。彼は全てを見透かしたような瞳で僕をずっと見つめています。脅迫的にも思える強い視線に思わず頷いてしまいそうになりますが、そうなる前に老人が口を開きます。
「そうやって、あなたは自分の意思に仮面をかむらせている。いつも、笑顔で首を縦に振ろうとしている。そうしなければ、人と共にいられないと思っているからだ」
老人は、一歩前に出て、僕の前に仮面を差し出します。
「この仮面を受け取りなさい。そうして、あなたが思ったとおりの意思を示してみなさい。あなたの考えを否定する人など、いないということに気づくだろう」
手をさほど伸ばさずとも届く距離にそれはありました。奇々怪々な存在に見えていた白い仮面は、今では美しい純白色に見えます。そこに恐ろしさはないのです。
この仮面に、そんな魔力が宿っているのか、という疑問はありませんでした。もう自分は、非現実の世界に入り込んでいるのだと、この老人に連れられ店に来た時点で分かっていましたから。
今の自分を変えたいという思いがなかったといえば、誰しもが嘘になるのではないでしょうか。過去を顧みれば、自分によくしてくれる人間など一人もいませんでした。ある種、私は人間というものに絶望していたのだと思います。
両親はおろか、里親にさえ投げ出され、行き着いた場所は私を人間ではなくアクセサリーとでも言いたげな者の家。
大学に入って、自立したように思えば、結局他人の顔を伺ってばかりの日々。そこに自分はおらず、いい人の仮面をかむった僕が、ただ機械のように首を縦に振り続ける存在として君臨しておりました。
僕は、葉蔵が「人間失格」なのに対して「まだマシ」と自称しておりましたが、結局、人の中で生きられない点に関しては、彼と同じだったのかもしれません。
僕もまた、『人間失格』の一人、いや一匹なのかもしれません。
「さて、如何する?」
老人が媚びるような動きで首をかしげて見せました。僕はその動きに失笑を送り、目の前の仮面に手をかけます。
鉄球ほど重いものを掴んだような気持ちになりました。丁寧に両手で持ち、その仮面をまじまじと穴が開くほど見つめます。この仮面をかむるころで、人の営みの中で生きることが出来るというのなら、僕がこれをかむらないことはないと、確信しておりました。
そんな僕の想いにブレーキをかけようとしたのか、老人が枯れ枝のような手をかざして仮面に向けた僕の視線を遮りました。
「ひとつ、注意がある」
老人が穏やかな声で言います。僕が耳を傾けました。
「仮面は、あまり長くかむっておくな」
「……なぜです?」
「自分が、自分だと分からなくなってしまうから」
僕はその言葉に、倒れている男を思い浮かべました。ふと、そちらを見ます。老人が頷うなずきながらまた言います。
「よく分かっているじゃないか。そう、あのようになってしまうよ」
僕は心に刻み、もう一度仮面を見てから、老人に頭を下げました。すると、老人が僕の頭少し強く力を込めて手を置き、杖先で床を二度、強く叩きました。
そうしますと、目の前に見えていた床が波のように揺れ始め、僕を不安定な気持ちにしてきます。思わず身体を動かしそうになりますが、老人の力は強く、僕の頭が上がらないようにしているようでした。きっと、目に見えない周囲も、同じように揺れているのでしょう。
少ししますと、老人の手が退かれました。おそるおそる顔を上げますと、いつの間にか来た道に戻ってきておりました。アパートとアパートの間、その暗くて狭い道に、僕は戻ってきていたのです。少し湿った臭いがしました。
あれは夢だったのかと一瞬迷いましたが、手に持った仮面が、現実だと、無情にも語っておりました。
ひとまず急いで、この仮面が他人の目についてはならないだろうと、僕はその場を後にしました。服の中にその仮面を入れ、両手で抱えるようにして走ります。
僕の心は躍っていました。初めて訪れた遊園地を見回すように、以前よりも、景色が変わって見えています。ここは現実の世界のはずなのに、自分だけが、異形の存在としてこの場に居合わせているのだとさえ感じます。
そんな風に考えてしまう自分が、前よりも人間らしくなっているのではないかと、思えました。