4.あなたは一体誰だったのか
やや重い木造の扉でした。星の微かな灯火で照らされる草原に、扉の向こうから目を細めるほど光が漏れてきます。その絢爛たる光景に目が慣れ、光の中に身を入れてみると眼前に広がってきたのは、壁に掛けられたおびただしい量の仮面。
天上にガラス装飾が豪華に成されたシャンデリアが飾られ、窓にはステンドグラスが使われておりますから自分が成金になったような、高揚した気分に浸ることが出来ます。
しかしそれ以上に、一枚一枚が全く異なる仮面の群れに囲まれたこの空間が恐ろしいのです。名も知らぬ誰かに見られている気がしてきました。
「なにをそんなに怯えているのです?」
老人が奥から僕を見つめてきます。仮面の向こう側を視覚的に見ることが出来なくても、声音から笑っているのだろうと察されます。この空間にいると、路上に一人放り出され雑踏に埋まる幼子のような孤独を感じます。
僕は少し急ぎ足で彼の元に近づき、少しの安心感を得ました。
「ここは一体、何をする場所ですか?」
「仮面屋ですよ。仮面を売る店です」
これは、売り物なのかと納得しました。均一な幅をとって壁に掛けられた仮面は、まだ誰のものでもない無機的なもの。僕の中にあった恐れが少しずつ浄化されていく感覚があります。
この空間、いや、店内を見回しますと、どんな人がこの仮面を買うというのだろうかと疑問が湧いてきます。中にはエロティックな作りをした仮面や、ホラー映画に登場しそうなオドロオドロしいものもあります。
「是非、一度見て回ってください。もしかしたら、あなたに合うものがあるかもしれませんね」
優しさを感じる老人の声に、僕は甘えることにしました。
まず、一番近くにあったお店の一側面に広がる仮面群一つ一つを眺めていきました。ゴツゴツした凹凸の激しいもの。するりと滑ることが出来そうな曲線美を感じる仮面。真っ黒な仮面、カラフルな仮面。
ひとつ気になる仮面を見つけ、手にとって良いのかと老人に尋ねようとしますと、鈴の音が聞こえないほど大きな音を立てて扉が開かれました。
そこから現われたのは、酷く疲弊した様子である小太りの男でした。あまり若くは見えませんが、年老いてもいません。まだ涼しい季節ですし、もう夜も深まってきたところでしょうが、彼は一人真夏日に工事現場で働いているのかと言いたくなるほど滝の汗をかき、上半身はランニングシャツ姿で、肩を上下させております。
持っている荷物はパソコンがひとつ入りそうなショルダーバックのみでした。
「……おい、おい! じじい!」
男は乱暴な口調で大きな足音を立てながら老人に近づいていきます。僕はその姿が恐ろしく感じましたが、老人は全く動じずに「なにかありましたか?」と聞きました。
その落ち着いた態度が気に入らなかったのか、男は老人の首元を掴み、その顔に自分の顔を近づけていきます。
「もっと、もっと強い効果がある仮面をよこせ! 人間を、一人残らず虜にするような強い効果がある仮面だ!」
「あの仮面では不服でしたか?」
「当たり前だろうが! だからこうしてわざわざこんなところまで仮面を外して来てるんだよ! ……おっと」
怒りにまかせて唾を飛ばしていた男の視線が僕の目とぴったり合いました。一瞬にして、男の感情が冷めていきます。まさか人がいるとは思っていなかったという顔です。
僕がなんとなく気まずくなって会釈をしますと、男は気をよくしたのか口元を緩ませて、老人の服をつかんでいた手を離しました。そして僕の方へ足を向けて近づいてきます。思ったより身体が大きいな、と思いました。
「あんた、俺を知ってるのか?」
「え?」
「知ってるんだろ? 知らないわけねえよな」
当然だろ? と語尾につきそうな言い方でありました。自己陶酔の激しい男です。僕は内心、気持ちの悪い男だと思っていましたが、そんなことを口に出すことも出来ず、なんとか「はい、知っています」と口から言葉を絞り出しました。
実際は全く存じ上げませんが。
「そうだろうなと思ったぜ。俺は、超イケメンモデル、内村幸喜様だ!」
知らないです。脳の端っこにも引っかかりませぬ。
僕は困ったような笑顔を浮かべてしまいました。すると、老人が助け船を出してくれて、男に後ろから声をかけます。
「歩夢様、きっと仮面をつけてないから、ぴんときてないと思いますよ」
「あ? ああ、そうか」
歩夢様? 僕の疑問は解消されないまま、男は納得したようで、ショルダーバックの中から仮面をひとつ取り出しました。
つり目状に切り抜かれた目元が印象的な、人目を惹く綺麗な装飾が成されたそれを、男はためらうことなく顔に近づけていきました。
すると、仮面から黒く塗りつぶされた半紙のようなものがいくつも生え、男の身体を包み込んでいきます。締め付けられて苦しそうな声を上げる男に、僕は焦りましたが、老人に「大丈夫ですよ」と声をかけられて、僕は動けなくなりました。
ミイラのようになってしまった男を見て、僕は違和感を感じました。身体が細くなっているのです。それこそ、先程言っていたモデルのような細長いシルエットが見えます。何が起きているのか理解が追いつきません。
やがて締め付ける動きをしなくなった半紙のようなものたちは、するすると音を立てながら再び仮面に吸い込まれていき、掃除機のコンセントコードのようにそれがしまわれると、仮面も透明になっていきます。
いつの間にかそこに立っていたのは先程とは別人の、イケメンモデルと言われても差し支えない姿形をした男性でした。
驚き、声も出せない僕に向かって、男はポーズをこれでもかというくらい見せつけて参ります。外面は変わっても、中身はやはりそのままかと、自己陶酔の激しさに呆れました。もちろん顔には出していません。
「歩夢様、なにか変わったことでもありましたか?」
「ああ、ああ! あったんだよ! 不倫がバレちまったんだ!」
不倫というワードを聞いて、彼が誰なのかようやく理解しました。そういえばテレビで芸能人の不倫が報道されていたのを聞いた気がします。その名前が何で暖かまでは記憶していませんが、きっと、歩夢という名前なのでしょう。
「それで?」
「だから、不倫されても文句言えないような、なんか、この世で一番イケメンになれる仮面をくれ。金ならいくらでも払う」
「はあ。あなたがいくらイケメンというものになっても、不倫をしてしまえば終わりだと思いますが。イケメンは免罪符じゃありませんよ」
全くもって同感であるその意見に、僕は思わず頷いてしまいそうになりましたが、そうなる前に男は怒りを爆発させました。
なんと、拳で老人の頬を殴りつけたのです。
鈍い音がして、老人が倒れます。仮面が割れ、欠片が僕の足下でくるくると回っています。
「お前は口答えすんなよぉ。金はいくらでも払うって言ってるんだ! 仮面を出せ! 誰もが俺の言うことを聞くようになる、仮面をぉ!」
歩夢という男はしつこく老人に唾を浴びせながら主張します。僕は老人に駆け寄りたい気持ちでしたが、それを実行するほどの勇気を備えておりませんでした。
勇者という名前を呪いたくなるほどに、ぼくは無力です。老人はぴくりとも動きません。「何とか言えよ!」とまた強い語気で言いながら、男は倒れている老人の身体を蹴ります。
何度も、何度も。
もう骨はバラバラになって、老人が紙くずのようにペシャンコに丸められてしまうのではないかと怖くなって、僕は目をそらしました。
男はまだ老人を蹴り続け、鈍い音を響かせています。
やがて男も疲れたのか、蹴るのを止めて、動かなくなった老人の身体を踏みつけるように足を乗せました。
僕はやっとの思いで目を開いて、男に「や、やめてください」と声をかけますが、男に睨み付けられて何も出来ませんでした。
しかし、全く予想だにしなかったことでありますが、なにやら、遠くの方から、声が聞こえてきました。
「幸喜様」
「……ああ!? 誰だよ!」
男も驚いて老人から足を下ろし、声をした方を見ますが、そこには誰もおりません。男はあらゆる方向に睨みをきかせながら店内を回りますが、声の正体はわかりません。
しかし、それでもどこからか聞こえてくるのです。「幸喜様」、と。
それが男を呼んでいると言うことに、僕はやっと気づくことが出来ました。歩夢なのか、幸喜なのか、全く分かりません。
僕はふと気づいて後ろの壁に掛けられた仮面に目を向けました。すると、仮面が微かに左右に揺れ、「幸喜様」と呟いたのです。
確かに、そこから聞こえてきました。店の壁に掛けられた、百をゆうに越えるであろう仮面たち。その一つ一つから、「幸喜様」という呼び声が聞こえてきます。
一つ一つの声は小さくとも、それがだんだん重複してきて、膨大な声に変わっていきました。
幸喜様幸喜様幸喜様幸喜様幸喜様幸喜様幸喜様幸喜様幸喜様幸喜様幸喜様幸喜様幸喜様幸喜様幸喜様幸喜様幸喜様幸喜様幸喜様幸喜様幸喜様幸喜様幸喜様幸喜様幸喜様幸喜様幸喜様幸喜様幸喜様幸喜様幸喜様幸喜様幸喜様幸喜様幸喜様幸喜様幸喜様幸喜様幸喜様幸喜様幸喜様幸喜様幸喜様幸喜様幸喜様幸喜様幸喜様幸喜様幸喜様幸喜様幸喜様幸喜様幸喜様幸喜様幸喜様幸喜様幸喜様幸喜様幸喜様幸喜様幸喜様幸喜幸喜様様幸喜様幸喜様幸喜様幸喜様幸喜様幸喜様幸喜様幸喜様幸喜様幸喜様幸喜様幸喜様幸喜様幸喜様幸喜様幸喜様幸喜様幸喜様幸喜様幸喜様幸喜様幸喜様幸喜様幸喜様幸喜様幸喜様幸喜様幸喜様幸喜様幸喜様幸喜様幸喜様幸喜様幸喜様幸喜様幸喜様幸喜様幸喜様幸喜様幸喜様幸喜様幸喜様幸喜様幸喜様幸喜様幸喜様幸喜様幸喜様幸喜様幸喜様幸喜様幸喜様幸喜様幸喜様幸喜様幸喜様幸喜様幸喜様幸喜様幸喜
カタカタと揺れる仮面も増えてきて、呼び声と仮面の鳴らす硬い音が重なってもはやアナログテレビから流れる砂嵐のように音は変化していきました。
男は耳を塞いで、必死にその音に耐えています。
僕は不思議と、うるさいな、くらいの認識でした。
彼には、砂嵐ではなく、「幸喜様」の嵐に聞こえているのでしょうか。
そして、いつの間にやら老人は男の後ろに立っていました。僕は驚いて、倒れていたはずの場所を見ましたが、そこには割れた仮面があるのみで老人の姿はありません。
そして、男の後ろに現われた老人は、以前とは違った仮面をつけていました。道化の仮面。ピエロです。そして、男の耳元で、老人が呟きます。
「あなたは、誰でしたっけ?」
「お、おre……、俺は、Boくは、誰? Dare?」
「あなたは、歩夢なのか、幸喜なのか。仮面の裏にいるのは一体誰なのでしょうか? 本当のあなたはどこに行ったのです?」
男は催眠術にかかったように宙を見上げ、虚な目をしています。口からは一筋の唾液が垂れ、意識を飛ばしている様子です。すると、その顔に先程の仮面が浮かび上がり、重力に引かれて、床に落ちていきました。
カラカラ、と軽い音が鳴り、仮面が床に叩きつけられると、男も事切れたかのように地に倒れ伏し、身体をしばらく痙攣させると、動かなくなりました。