2.葉蔵への唯一の共感
忙しなく進行した講義を終え、教員も息を切らしながら講義室を後にしようとしますが、逃すまいと質問狂の女学生は教員を追いました。メモでいっぱいになったルーズリーフを手に持って。
深く同情しながら、机上に広げていた数枚のメモ用紙と筆記用具を小さなショルダーバッグへ詰め込み、彼らと同じように教室を出ようと、席を立ちました。
ふと気がつきますと、『人間失格』を語り聞かせた数人の女学生達が隣にやってきて、僕を見下ろしながら何度か会釈をして参ります。
「木崎君ほんとありがとね、助かった」
「こんなにきつい科目だと思ってなかったよー」
うんざりといった表情で彼女らは互いの顔を確認するように見合います。良く目にする光景です。自分の考えが間違いではないと確信するまでに、必要な行動様式なのでしょう。
当然こちらにもその目線は向いてきます。僕は苦笑しながら首肯しました。
「本読むのは好きだけど、あの教授太宰治好きすぎない?」
「確か准教授だよあの人」
「太宰治好きすぎて昇進できないんじゃない? 人間の営みわかんないんでしょ」
僕は苦笑していた顔を少し緩ませて笑って見せます。すると彼女らもつられて声を上げながら笑いました。そのまま、教員への不満話に花を咲かせていきます。
僕としてはあまり気の向かない話でございましたが、彼女らの気分を害してはいけないと、兎に角共に笑うことを心がけておりました。
「人間の営みがわからない」というのは、はたまた『人間失格』の主人公、葉蔵の言葉になります。彼は物語の冒頭において、そう宣言しているのであります。
彼は政治家の息子であり、人から見れば仕合わせと言われる生活を送っていましたが、その、世間一般で言う幸福観念と、自分の幸福観念に違和感を覚え、自分は本当に幸福なのか、と発狂しそうになるまで自問自答したのです。
到底、僕には理解できない苦しみです。全くもって共感のしようがない。
「あとさ、あの先生何歳よ? 結婚してんのかな?」
「してない、っぽくない? わかる?」
また、一人が皆の顔色を小さな不安をちらつかせながら伺いだしました。そう脅しのように共感を促させては、たとえそのような考えを持っていなかろうと、首を縦に振らざるを得ません。当然、見回された彼女らもそうしておりました。
「モテなさそー」
「葉蔵とは大違いね、やっぱり顔ってことかな」
「あっ、でも、木崎君はモテそう!」
彼女らは何か疑問を持ちつつ、納得したようなフリをして僕の顔を見つめてきます。誰一人として僕がモテるとは思っていないだろうと推察しました。しかしここで否定してしまえば、彼女らは「そんなことないよ」と思ってもいないことを口にしながら僕の良いところを挙げてくるのでしょう。
それが嫌で堪りませんでしたので、僕は肯定も否定も出来ずにただ首を横に傾けておりました。
「確かに。木崎君気前良いし、優しいし」
「なんかいいよね。他の男みたいにがっつかないし」
彼女らの言葉が決して心の内から生れたものでないことは確信しておりましたので、僕はその言葉たちを笑顔で受け流しました。
ここで、予想外のことが起きます。先程まで静寂を保っていた一人が声を上げたのです。「木崎君、かっこいいよね」と、小さく呟いたつもりなのでしょうが、その言葉を誰も聞き逃しませんでした。
そう発したのは授業前に僕を勇者と呼んだ彼女でした。口元に手のひらを据えていても、どこか恥ずかしそうな、熟れたリンゴのように赤くした頬を隠しきれていない彼女へ、周囲の女学生達は一気に興味を向けていきました。
機敏な動きで彼女を囲み、僕に聞こえないようにヒソヒソと何かを語っています。
彼女らはそれで話題を隠蔽しているつもりなのでしょうか。この状況で、「なぜ急に頬を赤らめた女性を囲んで自分から隠すようにしているのだろう」と、疑問に思うことはありません。
きっと、彼女らが今行っているのは、所謂いわゆる、恋バナというものでしょう。
僕は胸が躍るのを感じながら、その奥で騒ぐ心の声を聞きました。
止めておけ、この場から逃げ失せるのだと、焦ったような声音で叫んでおります。
途端に恐怖に駆られて、僕はその場から離れようと歩き始めました。しかしふと罪の意識が芽生えて、彼女らに一声「急ぎの用がある」と告げ、返事を待たずして教室を出ました。後ろから呼び止めようとする言葉が投げ縄のように投擲されておりましたので、足の動きをさらに速めます。
本日の講義は終わりました。まだ日は傾いてさえおりませんが、足を進めるのは大学の敷地を出てすぐの、アパートが固まった団地。つまり、まだ入居して数週間の我が家に向かっているのです。
僕と同じ考えの人は少なくありません。ゾロゾロと人々が挙って団地の中に入っていきます。一人きりで耳にイヤホンで塞いだ者が多く、こんなにたくさんの人と固まって歩いているの
に、一層孤独な気持ちが湧いてきます。
団地の奥へ進むほど、人は少なくなっていき、とうとう僕の周囲には人がいなくなりました。稀に向こうからやってくる人がおり、きっと学校の食堂で昼食を取るのだろうと想像されました。
その中にひと組、男女のカップルがおりました。僕の姿を確認すると、彼らは身体をすり寄せ合うのを止め、不自然な空気を醸しながら横を通り過ぎていきました。
あのような関係に自分と先程の女学生がなり得るでしょうか。それはきっと、闇夜に針の穴を通すようなものでございます。想像し得ない事ではありませんが、僕がきっと耐えられないのです。
葉蔵の言葉に僕は今まで共感できませんでしたが、唯一、今ならば出来うるものがあります。
「男性よりも、女性の方が数倍難解である」ということです。
この年になるまで、数多くの女性と出会い、数度、恋というものに巻き込まれそうになりましたが、僕としては、よく知りもしない自分を、よくもまあそのように欲することが出来るものだ、と吐き捨てたくなるのです。この世に、僕のことをよく知る人はいないと断言出来ます。
人に向けてとりあえず笑顔を向けておくとか、思いとは裏腹に肯定ばかりしているとか、一体どこの誰に打ち明けることが出来ますでしょうか。僕には、深く無条件的な信頼を置ける相手が、いないのです。故に、自分の裏の顔を、誰に見せることもありません。
それ故に、葉蔵のように妻を持って、その幸福を破壊されるような経験も無いわけです。「まだマシ」、自分のことをそう思います。
やっとの思いで我が家に到着いたしました。やや古いかもしれませんが、済むには上等なアパートです。家賃は三万で、家電とWi-Fiつき。二階建ての四部屋のみで構成された小さな建物。その一室が、私の大学生活における城であります。
しかし今日はなにやら様子が違いました。見慣れない者が、入り口の横に立っているのです。
紫のローブを頭の先まですっぽりかぶり、やや俯いて、顔は拝めそうもありません。腰も曲がり、ローブから出た両手はしわしわで、丈夫そうな杖を携えております。
僕は不気味に感じて、眉をひそめながら、その老人に近づきました。というよりは、部屋に入るために扉に向かうと、その老人に近づかざるを得ないのです。爺か婆かもわからないその者を注視しながら、私は扉の鍵を開きました。
そして、あまりに動かないので、ついつい、声をかけてしまったのです。
「あの、何かご用事ですか?」
出来るだけ丁寧な声音で申したつもりですが、恐怖のあまり少し声が震えました。
しかし、声をかけただけあって、反応が見られました。ローブの老人がこちらに顔を向けてきたのです。その顔面を見て、私はギョッとしました。思わず声を上げそうになるのを必死で抑えます。
その顔には、目がチカチカするほどに色彩豊かな、奇妙な彩りを施された仮面がつけられ、その中心から長い鼻が飛び出しているのです。それは人間のものとは思えぬ長さで、正確には分かりませんが十五センチはあるのではないかと推測されました。
そして、目元に開いた穴からは、黄金の瞳が、こちらを覗いております。老人は、私をじっと見つめ、やがて目を細めて笑いながら感心するように息をつきました。
「はあああ。おまいさんは、儂の姿がみえるのか。ええのう、ええのう」
本当に嬉しそうな声に、僕は恐怖を和らげられました。それがなぜかは分かりませんが。恐ろしくはなくなったのです。
そして、老人はそれ以上何も申さず、どこかへ歩いて行ってしまいました。