3.狂いきったその瞳
やっとの思いで足が動き出して玄関の扉を開いても、僕は心に静穏を感じることが出来ませんでした。
先程から鼓動が激しく、耳の奥まで振動を伝わってきます。
そのために冴え渡った意識の使い処が分からず、部屋の端から端までを行き来しました。
壁に掛けられた掃除機を手に取ってみては、そうではないと問答し、落ち着かない気持ちを振り払おうと窓を開きにいけば、机に脚をぶつけました。
染み渡るような痛みに悶えながら、ようやく深い呼吸をすることが出来ました。
強い疲労感に襲われ、僕はその場に倒れました。そうしますと、また耳元に微かな息を吹きかけられる感触がして、川野浩のことが思い出されます。両耳を押さえてみても、川野浩の言葉が僕を罵るように繰り返されました。
『あなた、仮面つけてるね』
僕は思わず自分の顔に両手を置き、仮面を取り外すことを試みます。顔から何か重いものが落ちるような喪失感を覚え、仮面が外れました。顔面が空気に触れ、ひやりとした空気を感じます。そして、仮面から黒い半紙がいくつも伸びてきて、僕の身体を覆っていきました。それらがまた仮面に戻っていき、僕はもとの自分に戻ったのだと確信します。いつも通りの、冴えない姿に。
腕を伸ばして仮面を机の上に置き、また身を投げ出しました。ベッドは目に見える位置にあるのですが、あえてそちらには身を置きませんでした。背中から伝わってくる寒冷とした温度。これが自分を冷静にしてくれる気がしたのです。
彼女は、なぜ僕が仮面をつけていると分かったのでしょうか。
僕は普段、学校で仮面を着脱しません。仮面を受け取った翌日、あれっきりです。他人に仮面から現われる黒い半紙に包まれる自分を見られるわけにはいきませんから、着脱は朝と夜に自分の部屋で行うことにしておりました。
まさか、監視カメラでも付いているのでしょうか。そう思って周囲を見回し、立ち上がって壁と家具の隙間などを確認しますが、それらしきものはありません。しかし、油断は禁物です。最近の監視カメラは、ペンや鍵にだって化けることが出来るのですから。
とはいえ、そんなものを仕掛けるには、僕の家を把握しておく必要がありますし、僕が鍵を閉め忘れたことなど、今まで一度もありません。であれば、監視カメラは存在しないと考えるのが妥当でしょう。僕は嘆息しながらベッドに腰掛け、また思考を深めていきます。
彼女には仮面が見えている? そんなことがありえるでしょうか。僕が初めて仮面をつけたとき、偶然居合わせていた? 彼女が仮面の存在に気づくきっかけには限りが有ります。何かが絶対に正解となるはずなのです。しかし、しっくりとくる答えは、いつまで熟考しようと浮かびませんでした。
ふと窓の外を見ると、もう日が傾きかけています。どれほど長くこうしていたのでしょうか。僕が帰宅したのは昼であったはずですが、時計は既に17時を迎えようとしています。
僕は空腹を訴える内蔵の声を聞き、キッチンに向かいますが、料理をするような気分ではありませんでした。手に取ったフライパンを置き、乱暴に鞄から財布だけを抜き取って家を後にします。今日も食事はコンビニです。
靴を履こうとしたところで、思わずあっ! と声を上げて振り返りました。机の上に置かれた純白の仮面が目に入ります。危ないところでした、昼間に僕の姿をもし見ていた人に出会ってしまったら、なにやら印象が違うということに気づかれてしまいます。それはきっと、普段厚化粧をしている女性が、乳液さえ染みこませず、かさかさで見るに堪えない顔をさらしているようなものではないでしょうか。
もちろん、それをよしとする人もいるのでしょうけど、それを期待して外に出るのは、傲慢というものです。
仮面をつけ、顔になじんでいることを鏡で確認し、僕はようやく家を出ました。手軽に終わる厚化粧です。もはや変装と言っても良いでしょう。
アパートに囲まれた通りを歩いていますと、鼻腔をくすぐる芳醇な香りがある一軒のから漂っていました。がらんどうとなった胃が収縮しているのが意識され、僕はお腹を押さえます。この香りは、なんでしょう。優しい香りでした。まるで、母が愛情を込めて作る野菜たっぷりのシチューを連想させる香り。僕は深呼吸して、胸の内にその香りを閉じ込めます。
そんな料理に憧れながら、僕がコンビニで購入したのは、いつもと同じ550円のお弁当です。やはり少しお高く感じる値段でしたが、見た目は酷く質素に見えました。きっと、先程のシチューの香りのせいです。
手につるした弁当を眺めながら、僕は元来た道を帰っていきます。油分を感じる不健康な肉の臭い。自分が求めているものは声ではないと感じつつも、求めているものはあの場所にはないのだとため息をつきました。
空が穏やかな暖色から黒く焦げ始めているのを眺め、ボーッとした意識のまま僕が歩いていますと、再びあの香りが漂ってきました。なんだか惨めに感じて、足を速めようとしたとき、扉が開く音がしました。
「あ! 拓也!」
知らない女性の声。
やや強気に感じられるそれを発したのは、扉を開いた女性です。僕がそちらを向こうと顔を動かしますと、その女性はすでに眼前まで迫ってきており、紅潮したやわらかい頬を僕の二の腕に押しつけ、腕を絡めてきました。柔らかい乳房が肘に押しつけられ、形を変えます。彼女に包まれた僕の腕は突沸したように温度を上昇させ、その熱を僕の顔まで伝えてきます。彼女の頬のように僕の顔も真っ赤に染まりました。
ぐりぐりと頬を僕の二の腕にこすりつけますと、彼女は絡めた僕の腕を引っ張って家の中に連れて行こうとしました。僕は慌てて誰かと勘違いをしていないか尋ねますが、彼女は脳天気に言うのです。
「何言ってるのー? 変な拓也!」
だから拓也とは誰であるのか。お教えくださいませ。
確かに僕は今仮面をつけておりますが、ここまで熱烈な愛を受けたのは初めてです。一向にこちらの言い分を聞き入れようとしない彼女の怪力に逆らえず、僕はまんまとその良い香りのするアパートの一室へ連れ込まれてしまいました。
靴を脱ぐ際に一瞬腕を放されたので、僕は彼女と向かい合って誤解を解こうと口を開きましたが、「僕は拓也ではない」と言い切る前に、彼女の異常性に気がつきました。
生気の無い、ペンキでべた塗りされたような輝きのない瞳。少し痩けている顔。豊満に見えた体つきは、腕の細さによって否定されました。明らかに痩せすぎなのです。それなのに、あの力は何だったのでしょうか。まるで抵抗できませんでした。それほどに必死であったのでしょうが、たとえ僕がその拓也であったとしても、そこまで強い力で連れて行こうとするでしょうか。
暗めの紫の髪にパーマを当ててウエーブさせたものが、ポニーテール状にまとめられています。部屋着に見えない派手な服装で、お腹の一部が見えています。夜の町に出入りしているのが想像できそうな格好です。
彼女の微笑みが恐ろしいものに見え始めました。今すぐに逃げ出したい、そんな気持ちに駆られましたが、彼女と目を合わせていると、なぜか身体が動こうとしません。メデューサにでも見られたようです。
「拓也ぁ。どうしたの? ゴハンできてるよ?」
不満そうに彼女が言います。僕の頬を両手で包み込んできます。温かい手のひら。しかし、僕は息をのみました。彼女の左手首、そこには幾筋もの鋭い線が入っておりました。




