1.僕は「人間失格」ではない
恥の少ない人生を送ってきたと思います。僕は『まだマシ』です。
小さな薄っぺらい文庫本を、重々しく閉じていきました。
シンプルな表紙には自嘲気味な『人間失格』の文字が乗っかっておりまして、僕が今まさに読んでいた箇所は、「人間、失格」と主人公である葉蔵が、自らにスティグマを刻んでいるところであります。
まだ本には続きがあるようなのですが、僕はその言葉の余韻で充分、満たされておりました。何故かと言いますと、この太宰治という男が残した書物はことごとく僕の身には染みぬのです。どれもこれも、我が身の深くに落ちていきません。
膨大な書物が並ぶ本棚に威圧されながら、私はその一冊を皺がつかぬよう戻しました。
右隣や左隣、上、下に視線を向けますと、ひたすらに文豪と呼ばれる男達の名が乗っかった書物が私へ「手に取るのだ」と目を向けております。
私は、当然のごとくそれを無視しました。
もう用はないのです、次来るとすれば、週末の終わり頃でございましょうと言う代わりに、本棚に背を向けて大学図書館を後にしようと身を退きました。
文豪達の書物が収められているのは図書館の中でも奥の奥でありまして、僕がインクの匂いが充満したこの空間に長く居続けなければならないことへ、苦悶の表情を浮かべておりました。
僕はこの匂いを嗅ぐと、何故か腹が下るのです。
この感覚が、好まれぬのです。
むむむ、と眉をハの字に寄せて歩いておりますと、前方から、なにやら見覚えのある女学生数人が僕を見つけ、安堵の表情を浮かべながら隣に並んで歩こうとしてきました。
「木崎君! もしかして課題の本読んだ?」
女学生うち一人が、少し控えた声で、しかし目は存分に輝かせながら僕を見つめてきました。
他の女学生達も期待した眼差しを弓矢のようにして、僕に向けて参ります。これはほとんど脅迫のようなものです。
僕は弱気な笑顔を浮かべて、「はい、読みました」と首肯しながら言いました。
それを聞いた途端、女学生達の眼が輝きを増してきます。いつから人間の目はスポットライトのように熱く眩しくなったのでしょうか。
「ごめん木崎君! 内容を端的でいいから教えてくれない!?」
「私も聞きたい! ほんと、この通り!」
彼女たちが一斉に僕の前で仏像を拝むように手を合わせて腰を曲げるものですから、慌てて手を振りながらその参拝を制します。
「やめてください! 歩きながら話しますよ」
「やった! やっさしー木崎君!」
彼女らの腰がまるで機械のようにくいっと伸びます。その変わりように、僕は思わず頬を掻きながら苦笑しました。
まだまだ足りないと思ったのか、彼女らは僕をヨイショし続け、「よっ、大統領ー!」とかそんな軽い言葉の雨を僕に浴びせます。
しかし、そんな微雨のなかに、一粒の大玉が紛れ込んでおりました。
「さっすが勇者!」
その発言に、皆の空気が凍り付きました。もちろん、勇者、という言葉に反応してのことです。彼女らはその発言をした一人を途端に糾弾し始めます。
それほど強いものではありませんでしたが、勇者と口にした一人は自分でも気の使えない発言をしたことが悔やまれているのか、皆からの説教じみた言葉を素直に受け入れていました。
誰に向けたものなのかわからない謝罪を繰り返し、次第に目元に透明な液体が浮かんで参りましたので、僕は戸惑いをなんとか押さえながら責め立てる彼女等に声をかけました。
「あの、ですね。そこまで、気にしていませんから」
「そう? この子、ほんとデリカシーないから、我慢しなくていいんだよ?」
「いい、いいんですよ」
努めて優しく声をかけると、彼女たちも言葉の鞭を打たなくなりました。
中にはまだ苛立ちを隠し切れていない者もおりましたが、私のせいで一人が追い込まれていくのを見るのは、なんとも言いがたい苦痛です。
ふとその一人を見ますと、呆然とした表情で僕を見つめていました。
なぜそのように優しくしてくれるのか、といった顔で。
僕は悪寒がして、彼女から目を離し、足を少し早く動かしながら講義室へ身を進めていきました。慌てて彼女らも僕の後ろについてきましたので、僕は「人間失格」の内容について語り始めました。
時折向けられる熱っぽい視線が非常に熱く、僕は冷や汗をかきながら、講義室に着くまでの間、ごまかすように口を動かし続けました。
僕の名は、木崎、勇者です。
この名であれば、みなが私に気を遣うのも、わかります。
僕は、自分を「まだマシ」と申しましたが、これには確たる理由がございます。
何を隠そう、生まれてこの方女性と性的な関係を持ったことは一度も無いのです。
それに、人間に好かれたことも決して多いとはいえず、僕は自分と深い関係にある人間を挙げよといわれても、一人の名も挙げることは出来ません。
つまり、『人間失格』と主人公である葉蔵と僕の決定的な違いは、女にモテない、というところにあるのです。
葉蔵は幼い頃から自分よりかなりの時を生きた女性から好かれ、肉欲を刺激し、その身を陵辱されてしまいますし、大学生となってもなお、その幸薄そうな顔をむければ女性を虜にし、時には生きることに絶望して女性と二人で心中しようとしておきながら自分だけ生き残るという体験さえしております。
更に、何度目の女性かとついに結婚したと思えば、その女房を他人に犯され、頭を狂わせ薬に溺れ、脳病院へ入院します。
そして、自分に言うのです。「人間、失格」と。
僕は他人と深い関係にあらず、人に絶望することもありませんでしたので、葉藏のなれの果てに比べれば、「まだマシ」と、言えるのではないかと思うのです。
そう考えつつ、僕はやっとの思いで講義室にたどり着きました。
大学の講義室と聞くと、広大で、数百の席が美しく並べられているコンサートホールのようなものを想像しておりましたが、どうやらそうでもないということを大学に入学したこの一週間でなんとなく理解しておりました。
この講義室は、五階建ての四角い建物の四階に位置する、403号室という中途半端な部屋番号をあてがわれたものであります。
更にこの部屋は、もはや高校の教室よりも狭いのではないかと言うほどに席数は少なく、その数は20ほどです。それらにパラパラと生徒が座ります。どうやら私が受講したこの講義は、人気科目というにはほど遠いもののようです。
始まるまで残り三分かと、私がボーッと壁掛けの時計を眺めておりましたら、おそらく最後の一人であろう女学生が入室して参りました。
その女学生の方をちらりと見れば、大変申し訳ないのですが、地味だと言わざるを得ない格好をしている姿が映りました。
皆、その女学生の方を見てひそひそと話しております。僕はあまり彼女について存じ上げていないのですが、少なくともこの教室内において彼女は有名人のようでした。
この講義は二回目ですが、前回の講義で彼女のような人を見かけた覚えはありません。一体どういうことでしょうか。
間もなく初老の、いかにも博士と呼ばれていそうな教員が入室してきます。教員は座っている生徒達を見回しながら手元のバインダーを度々眺め、分厚いレンズのめがねをくいっとあげました。
「うむ、全員出席だ。すばらしい。前回来てくれた人は、今回も休まずに来てくれたようだね」
そうか、やはり前回から彼女は受講していたようです。再びそちらを向くと、じっと先生の方を眺めておりました。
髪は黒く、少し乱れており、薄化粧もしていない様子。着ているものは色彩の薄いチェックのよれよれになったシャツに、水色のジーンズ。周囲の女学生に比べれば、彼女の格好は十分に異彩を放っておりました。
そして、先生は正確な出席など取らずに授業を開始しました。早速、課題として出していた『人間失格』の解説が始まろうとしています。そのときです。
「先生」
「はい、なんでしょうか。えっと、君は確か、川野。川野浩さんですね」
「そうです。あの、『人間失格』について質問があります」
「ほほう、積極的な生徒を私は好みます。是非、何かあるなら発言しなさい」
この、彼女への許可を、教員は大変後悔することとなりました。
彼女の質問は、まったくもって枚挙に暇がなかったのです。
「『人間失格』と『道化の華』の関連について考察してみたのですが――」「葉蔵という人間はなぜここまで女性に好かれているのか――」「自伝的小説であると言われているが――」「『斜陽』はなぜ絶筆となったか――」
一つ聞けば、一つ教員が応答し、そこから更に二つ三つの質問が生れ、それに答えれば、またそこから四つ五つの質問が生れております。
二回目までの質問は、僕も学ぶ姿勢を見習う必要を感じておりましたが、三回を超えて参りますと、流石に彼女の神経を疑い始めました。質問と応答をただ聞いている他生徒達もうんざりといった表情で机にうなだれ始めます。
「では次の質問なのですが」
「川野さん川野さん! ちょ、ちょっとまってくれ。私は君のために授業をしているのではない。皆に話をしなくてはならない。そろそろ控えてもらえるか」
なるべく穏便にと教員は優しく語りかけました。なんと出来た人間なのでしょう。僕は思わず彼に拍手を送りたくなりました。いつか爆発して怒りの波に身を任せるかと思えば、その初老の教員は大人でありました。
あふれ出る質問の噴水を差し止められた彼女は、納得していない様子でありながら、いつの間にか立ち上がっていた身体を座らせ、授業を聞く姿勢を見せ始めました。どうやら、僕はとんでもない講義に参加してしまったようです。