痴呆症の時計技師
周囲は山に囲まれた森の奥。昔は使われていたであろう石畳の道も、今は隙間から雑草が生えてきて単なる獣道のようになっていた。少なくとも人の気配は感じられない。私は母から渡された地図を頼りにその辺鄙な土地に建つ掘立小屋を目指していた。
「ここ......かな?」
その掘立小屋にはツタのようなものがびっしりと絡みついていて手入れはあまりされていないようだった。しかし扉の周りだけにはツタは絡まっていなくて人の出入りがあることを教えてくれる。
見覚えは無いはずなのになぜか懐かしい感じがする。不思議な感覚だ。
重そうな木の扉を両手で押し開けながらすいませーん、と声を張り上げる。
そこに居たのは白髪の老人だった。私の姿をチラリと見ると今まで輝きを失っていた目をキラキラと輝かせながらこちらに歩み寄ってくる。その目は白内障だろうか、少し濁って見えた。自分はその様子に少し気圧されて思わず後ずさりしてしまう。その人はたどたどしい足取りではあったが一歩ずつ自分に近づいてきて私の両手をつかんだ。
「千早!今まで連絡もせずにどうしていたんだい!?」
私は絶句した。千早は私の母の名前だ。母と私は確かに似ているが30ほど年が離れている。この人は母と私を見間違えているのだ。
母からそれとなく話は聞いていた。私のことが分からないかもしれないと。
「それはね、お父さん。」
この人は母の父、そして私の祖父にあたる人だ。
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そこからの話は支離滅裂としていた。直前までしていた話を忘れてしまうし、祖父が話すのは母の幼いころばかりで私が本当のことを知らなかったというのも話のすれ違いを加速させていた。時折見える困惑した顔とすぐにそれさえも忘れてしまう笑顔が目まぐるしく変わって私はただ苦笑いのような半笑いをするしかなかった。
「よく来たねぇ、千早!ほらこのお菓子好きだっただろ?遠慮せず食べな。」
「は、はぁ。いただきます。」
「そんなにかしこまらなくても良いんだよぉ!一人暮らしで大変なことも沢山あるだろう?」
「ええ、まぁ。」
何時の話をしているのだろう。もしかしたら祖父の時間は母が家を出てから止まったままなのかもしれない。もしくはそれまでのことをすべて忘れてしまっているのだろうか。
祖父はやはり認知症だった。こんな誰も訪ねて来てくれないところで一人で過ごしているのだからそうなってもおかしくはないような気がする。母は前に一緒に暮らそうと提案していたみたいだが祖父の認知症もあってか全く取り合ってもらえなかったらしい。
ここに来たのは母に二つの事を頼まれたからだった。私の代わりにやってほしいことがある......と。本当は面識のない祖父に会って色々な事をするというのは嫌だったが断ることはできなかった。
「あの......これ。」
私が差し出したのは古びた懐中時計だった。
母の二つのお願いのうちの一つ。それがこの懐中時計を祖父に渡すことだった。
「ふむ......これは。完全に錆びついてしまっているね。少し時間はあるかい?」
「ありますけど......どうするんですか?」
「直すんだよ。」
「直す?」
「そうか。あんなに小さかったから千早はおぼえていなかったかもしれないね。実は時計技師をしているんだよ。あまりお客さんはいないけどね。ふむ、この時計は昔は良く見た形だが今となってはなかなか見ないね。ついてきなさい。」
心なしか祖父の焦点の合わなかった目が鋭く光った気がした。
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祖父は奥にある部屋に案内してくれた。そこには自分が見たこともないような機材の数々があった。素人目に見ても分かる程、綺麗に整理されている。
外からこの家を見た時にはこんなところがあるだなんて思いもしなかった。それどころか人が住んでいるのかどうかさえ疑問に思っていた。外観さえ変えれば、あるいはもっと目立つところに作ればもっと人が来てくれそうだなんてことをぼんやりと思った。
そこには真剣なまなざしで時計に向き合う祖父の姿があった。先ほどのはっきりしない性格とはまるで違う
しっかりとした手つきで懐中時計の錆を取っていく。丁寧な作業で手の震えも先ほどまでとは別人のようになくなっている。
「開いた。」
「ほんとですか!?」
驚いた。先ほどからほんの少ししか時間が経っていないにも関わらず直してしまうなんて。時計技師としての技量は凄いみたいだ。もちろん詳しいわけではないから素人目に見たことしか言えないのだが。
「でもやっぱり中もダメみたいだね。確かそこにこれと同じ部品があったはずだからとってくれるかな?」
「は、はい。これで良いですか?」
「ありがとう。座っていいよ。」
工具箱に入っている細長い棒のようなモノで時計の中にあるゼンマイをつついている。
私には良く分からない。でもそのカチャリカチャリという小さいものが触れ合う音、そして取り外されて部分的に新しくなっていく様、何よりそれらと真摯に向き合っている祖父の姿が一つの絵画の中のとうっ上人物のように映って見えた。祖父は時計と一体となって彼自身が一つの時計のパーツとなって時計を動かしているようなそんな気さえした。
一言で言えば美しい。
それが率直な感想で、それ以上でもそれ以下でもなかった。
「君、名前は何と言うんだい?」
「わ、私は、」
「君の本名だ。思い出したんだ。多分一時的なものだと思う。この時計は僕のもとを離れるときに千早に渡したものだ。もうこんなに錆びついている。あれから相当な時が経ったんだろう。」
「多分、30年ぐらいだと思います。母はそう言っていましたから。」
「そうか。君は娘さんか。」
「はい。千紗です。」
そこからの会話ははっきりとしていた。
もちろん時計を直す片手間のような会話ではあったけれど自分にとってはいることも知らなかった祖父との会話だ。貴重な経験と言うのが正しい表現なのかは分からなかったけれど濃密な時間だった。
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「よし、出来た。これで大丈夫かな?」
渡された懐中時計を見ると剥げていた表装も直してくれていたようで、そこには何かの花の模様が描いてあった。蓋を開ければカチカチと規則正しく時計は時を刻み始めていた。3本の長短の針が寸分の狂いなく時を示す。
「すごいですね。完全に直っています。」
「腕には自信はあるからね。十分発揮できているかと言われれば自信はないけれど。」
そう言いながら照れ臭そうに笑う祖父の姿は時計に触れる前の彼とは見違えるようだった。体中から光があふれてくるような気さえした。自身に満ち溢れていると言いうか充実感のようなものがあふれ出してきているような気がしたのだ。
「君のお母さんは今どうしてる。元気にやっているか?」
少し言いよどむ。
これが母の二つ目のお願いだ。
「母は死にました。すい臓ガンが末期で見つかって大学の偉いお医者様にも見てもらいましたがダメでした。つい最近の事でした。」
祖父は驚いたように目を丸くしてそのあと顔を少し伏せた。涙は流していないようだったがまるでこれまでの時間を思い返すように床のシミの一点を見つめていた。
「母から私が死んだらお父さんにそのことを伝えてくれと頼まれていたんです。そしてこの懐中時計を私にくれたんです。」
「そうだったのか。私もあの子にもう少し何かしてあげられることもあったかもしれないのに。こんな体になってしまっていて不甲斐ない。」
「母は死ぬ前によく祖父の話をしてくれていました。優しいけど頑固者だったって。自分が嫁に行くときにも何も言わずに懐中時計を渡されただけだったって。でもその話をしている時に母はこれを見ながらとてもやさしそうに笑っていたんです。」
「そうか。千早は多分気づいたんだな。」
「?」
「それの表面に書かれている花が何か分かるかい?」
「これですか?」
どこかで見覚えがあるような気がした。姿は分かっているけれど名前が一致しない。私は花にそんなに興味があったわけでも無いし母もそんなに花について語ることも無かったので花に関しての知識などその程度だった。
「カーネーションだよ。千早が母になると聞いてね、それで送ったんだ。今でもその様子は頭の中に浮かび上がるのになんでそんなに大切なことを思い出せなかったんだろう。本当に歳という奴は嫌いだね。」
そうか。だから見覚えがあったのか。
改めてそれを見ると小さなところまで施された細工に愛情の深さを感じた。
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「あの、一緒に暮らしませんか?私、もうすぐ結婚するんです。その時には相手と相談してみて一緒に暮らすんです。もう年だし、こう言っては何ですがいつ死ぬかもわかりません。」
言いにくい事だった。祖父がここに愛着があるのは分かっていた。それでも言わなければいけないことだと思ったし、今言わなければ二度とこんなことを話せる自信がなかった。
祖父は半笑いのまま白くなった頭を掻いていた。
「僕のことは......忘れてくれないか?」
「え?」
その言葉は唐突な言葉だったが、はっきりとした意志のこもった決して捻じ曲げることのできない言葉のように思えた。
「君たちに迷惑をかける訳にはいかないんだ。自分がどうなっているのかも分かるしこれが今だけの正気ってこともなんとなく分かる。だからこそここで君に迷惑をかけてしまっては僕にはその迷惑の借りを返す術はない。」
「でも!」
「それに僕はこの場所が好きなんだ。ここが自分の全てであると言い切れるくらいにはね。君ももう少し年を取ったら分かる日が来るかもしれない。君が想像しているよりもずっと大事で僕の死に場所は誰が何と言おうとここなんだ。」
言い返す言葉が見当たらなかった。
祖父にはある種の覚悟のようなモノがあるのだと思う。それは一朝一夕でどうにかなるようなものではないのだろうと悟った。
私は黙ってその作業場を出た。
「僕からもお願いだ。」
「............」
「二度とここには戻ってこないでくれ。もう二度と千早の娘に......僕の可愛い孫にはしたない姿を見せたくはないんだ。冷たい事を言うようだが、僕が君に出来る唯一の頼みだ。」
背中を向けた。
黙って歩いた。
祖父がじっと見ているのが伝わってきた。
もう生きているうちに二度と彼と話すことは出来ないのだろうと思った。
素直に悲しい。
しかし祖父の言葉を否定することは今の私には出来ないように思った。
身勝手だと私たちを責める人が居るかもしれない。
しかしこればかりはどうしようもないように思った。
無理矢理にすれば祖父を連れてくることは出来るだろうが、その時には祖父はもう人間ではないような気がした。
「さようなら。」
「さようなら。」
空虚な声が森に消えていった。
彼女らの思いはすれ違い続けます。
きっとこれからもずっと。
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