第三百四十四話・現実と虚構
ルーシーとヴェロスは怠惰の魔王ベルフェゴールによって夢を見させられていた。
抗いようの無い、甘い悪魔の誘惑……。
ルーシーは有り得たかもしれないもう一つの未来、ヴェロスは戻ることのない失われた過去……それぞれ自分が心の底で求めていた夢に囚われていた。
夢から覚めるには誘惑を振り切る覚悟と決意が必要だが、魔王ベルフェゴールの力は強大で一度快楽に飲み込まれれば、二度と現実には戻っては来れない……。
ヴェロス、ケイ、ルウの三兄弟は人の姿になりすまし、多くの人で賑わう都会の街を歩いていた。
忙しなく行き交う通行人達、活気ある商人達の声。
その中を流れるようにヴェロス達は進む。
人狼は人間に紛れ、気配を殺すことが出来る。
誰も彼らを気に留める者はいない。
絶好の機会だ。
(…………)
ヴェロスは目に見えない速さで鞄をぶら下げた通行人の一人から果実を掠め取った。
あまりの速さに市民は盗られたことにも気付いていなかった。
これがヴェロスの常套手段だ。
いつも命懸けのやり方で気付かれぬよう人間から食べ物を奪い、弟達に分け与えていたのだ。
(よし……俺も……)
次男のケイもヴェロスに倣い、盗みを試みた。
通行人の中から一人の妙齢の女性に狙いをつけた。
鞄の中からリンゴがはみ出ているのが見える。
女はヴェロスは愚か、二人の少年に気付いている様子は無かった。
ケイはゴクンと唾を飲みながら慎重に彼女に近付く。
パシッ
「ちょっと! ガキ、何してんのよ !」
女は鬼のような形相で睨みながらケイの腕を掴み、大声で怒鳴り声を上げた。
ケイはまだ未熟だ、ヴェロスのように気付かれぬように上手くはやれなかった。
(まずい…… !)
ヴェロスは突風を巻き起こしながらケイ救出に向かった。
かまいたちを発生させて、女を怯ませると、鮮やかな手口でケイを連れ、彼女の目の前から一目散に消え去った。
「なっ……何処に行ったのよ! あのガキは !」
訳が分からず憤慨しながら女は去っていった。
「た、助かったよお兄ちゃん」
三人は住処である洞穴へと帰還した。
ケイは冷や汗を掻きながらヴェロスに感謝した。
「お前にはまだ早い……人に気付かれるようじゃまだまだだ、もっと修行が必要だぞ」
ヴェロスは諭しながらケイの頭を撫でた。
「でもお兄ちゃんカッコ良かったなぁ、僕もいつかお兄ちゃんみたいになりたい」
羨ましそうに目を輝かせながらもう一人の弟・ルウは熱い視線を送った。
「なれるさ……いつかきっと……二人とも俺の自慢の兄弟達なんだから……」
ヴェロスはニコッと微笑み、二人を抱き締めようとした。
だが一瞬ハッとなり、ヴェロスの手が止まった。
「………… !」
そのいつかはもう来ない……来ることはない……。
皮肉にも自身の発言によって、ヴェロスは思い出してしまった。
今目の前にいる二人は本物じゃなく、自分が生み出した偽物だと……。
弟二人を亡くし、復讐に身を落とし、多くの命を奪う悪党に成り下がり、牢獄へと放り込まれた。
ヴェロスにとって紛れもない現実だ。
ケイとルウがこの先成長することも、兄のように盗みが上手くなることは無い。
ヴェロスはそのことを思い知らされた。
二人の将来を想像すればする程、辛くなる……だから今まで考えまいとしてきた。
どれだけ心地の良い夢に浸ろうと、非情な現実が彼に突き付ける。
「そうだった……兄弟三人で暮らす……この何でもない時間こそ……俺が長年求め続けていたもの……そして二度と手に入ることのないもの……ベルフェゴールの見せる夢だ……」
ヴェロスは唇を噛み締めながらうつむいた。
「どうしたのお兄ちゃん」
ヴェロスの異変に気付き、ケイとルウは心配そうに顔を覗き込ませた。
「ケイ……ルウ……聞いて欲しいことがあるんだ……」
ヴェロスは覚悟を決め、呼吸を整えると二人に話を始めた。
「俺はもう行かなくちゃならない……お前達とは一緒に居られない……すまん……」
ヴェロスは言葉に詰まりながらも話を続ける。
二人はヴェロスの言葉を黙って聞いていた。
「楽しかった……本当はもっとお前達の成長を見続けていたかった……だけど、俺にはやるべきことがあるんだ……」
ヴェロスは切ない笑みを浮かべ、すっと立ち上がった。
体の大きさがいつの間にか少年体型から大人のものへと戻っていた。
「…………あばよ」
ヴェロスは振り返ると洞穴から去ろうとした。
出口から日差しが差し込み、眩い光を放っていた。
「……いってらっしゃい、お兄ちゃん」
ケイとルウの優しい声が聞こえた。
ヴェロスは思わず足を止めた。
「お兄ちゃん、ごめんね……あの時言いつけを破って外に出ちゃって」
「お兄ちゃんに内緒で獲物取ってきてびっくりさせたかったんだ……」
ケイとルウは申し訳なさそうにヴェロスの背中に語りかけた。
「でも……お兄ちゃんは自分のせいだって、いつも自分を責めたよね……本当にごめんね」
「もう苦しまなくて良いんだよ……自分のせいだなんて思わないで……お兄ちゃん、自由に生きて……」
ケイとルウの言葉を聞いているうちにヴェロスの目から止めどなく涙が溢れ返った。
嗚咽を漏らしながら歯を食い縛るヴェロス。
「「お兄ちゃん、頑張ってね」」
ケイとルウは寂しさを押し殺し、涙を堪えながらヴェロスを送り出した。
「ケイ……ルウ……ありがとう」
ヴェロスはそれだけ言い残すと、振り返りもせずに涙を溢しながら洞穴を走り抜け、出口へと向かった。
洞穴を出ればそこは現実への入り口だ。
ヴェロスは二人の弟達と暮らす虚構の幸せな時間よりも弟達のいない世界、辛い現実と戦う道を選んだ。
ヴェロスは走る、二人の想いを胸に……。
To Be Continued




