地球は裏返り、鉄の巨兵だった。
「地球はひとつの巨人なのかもしれない」──大学院の同僚は、ぽつり言い放った。その場に居合わせた地学教授は聞き捨てならなかったのか、説明を義務付けた。
同僚は淡々と述べていく。
「まず、球体は裏返るから────……、そして最後に、四足歩行に形成される。」
もう遠い日の思い出だ。ささやかな笑いが込みあがる。会話はもうおぼろげに褪せてしまって、はじめと終わりの部分と、馬鹿馬鹿しいとの教授の叱責だけがなんだかずっと忘れられそうにない。
──今朝がた、アイツは自殺したらしい。元よりその前兆はずっと続いていたし、そもそもの関係もドライなものでさほど驚きはしなかったが、やはり物寂しくはあった。
死因は、幻覚作用のクスリを過剰に摂取したことによる、致死量のオーバー。第一発見者は配達員だった。
彼女が言うには電話がかかって来ており、内容は「ノックしても返事がなければ、眠っているに違いがないから、敷居を跨いで叩き起こしてほしい」なんて突拍子もないもので、言い終わると即座に通話を切られたらしい。
そうして彼女が押し掛けたのは、朝にしては遅く、昼にしては早い時刻のことだった。アパートの隅っこ。敷地内で青々と実る柚子の木に、丁度影されそうな一室だった。
トントン。案の定ノックに応答はなかったので、ドアノブを捻り、遠慮がちに乗り込むと、──男が目に付いた。焦点はしっちゃかめっちゃかで。
壁に背を持たれかけさせて、座り込んでいた。鼻血を盛大に撒き散らかして。床一面の血溜まりにひと目でわかる違法薬物、ラムネ型のクスリが大量に溶けだしていた。
生体の鼓動は、一切合切感じられなかった。
安楽死のようだ──見蕩れたのも束の間、抱え込んだ荷物を手落とすと、がしゃらんと中身が割れた。ちちゅんと、窓越しに雀が雌雄で鳴き交わした。
もう一目散に部屋を飛び出した。後はもう警察にすべてを委ねるという様子で通報をすませると、彼女はアパートのトイレに駆け込み、嘔吐済ませる。口元をトイレットペーパーで拭うと、上司にいきさつを説明したのち、事情聴取を終えたら今日はもう帰宅するとの連絡をいれた。
らしい。
アイツが何を考えて、何で自殺に陥ったのか。その決定的な理由はなんだか想像がつく。どうかと聴かれたら、でも曖昧過ぎてきっとロクに答えられないだろうけど。
俺もまたアイツについての事情聴取に加わるのだろう。でもその前に、使命を完遂させて、それからだ。
夢を叶えた自分がいる━━たった今、スペースシャトルで宇宙へ発てた。宇宙飛行士。そういう自分がありえて、今こうして実際になってみせた。思えば長かった。ホント、ずっと頑張った。
大気圏を突破し、燃料タンクをパージ。……。……、……ああ、宇宙だ。零のような冷たさが這い蹲う、無の空間。生きた心地がないのに、何故か、はじめから俺の居場所だったかのように、無に馴染む。夢のような心地。
ふと振り替える。──地球。青と緑の幻想的天体。鬱蒼としている。テレビや雑誌で見たものそのものなのに、本物は印象を凌駕してくる。
どこがどこだか曖昧な大陸を指差していき、丁度日本に人差し指が合った。その瞬間だった。
地球が裏返りだした。あの起動には見覚えがあったから、これから起こりうる現象はある程度予測できた。
遠くから見ても、鮮烈な変動だった。プレートや海が互いをすり抜けて、両極の氷河は粉砕したり、……、人生最大の光景だった。
──やがて─、核が剥き出しになった、表面が鉄の星。中心には海やその他全部が唸っているのだろう。今までが裏返ったように。
今度は、隆起する。鉄が盛り上がり、……あれは、腕。両腕。……、身体だ。
プレートの裂け目が関節のように折り曲がって四足を形成し、しあげに頭部ができる。
……なんて、圧倒的なんだろう。ほんとうに美しいものは、何故も純粋に死を連想させるのだろう。
鉄の巨兵。宇宙の無に、ガイアの夜明けを告げた。手始めに月に腕を伸ばした、両手で握り締め、腹に思い切りぶつけた。──衝突する。
大陸変動。月を取り込み、一段と巨大化する。
やがて、銀河系の星をすべてを取り込み尽くす。幾つもの恒星の、圧倒的な熱量を讃えると、宇宙の外側を目指して、とてつもないエネルギーの消耗を伴って、飛び立った。その場には、超新星爆発のような、幻想の光景を尾びれが残った。
巨人は去り際にこっちを見た。確実に目が合った。思い込みじゃない。
口に相同する部位が、なにか言葉を発するようにパクパクと動いた。真空中に声は、音は震撼しない。
けど動きでわかった……なんでそんなことを言うんだ。
『お前はもうどこにもいけない。もう直ぐ死ぬ。』
……けど否定はできなかった。そもそも宇宙飛行士になる過程が、思い出せない。あるのは、大学院で地球反転の論文を書きそれを突き返されて干された自分と、絶望の淵から逃げだしたくて宇宙にでもいければいいのにと思っていた自分。
今こうしてどこを目指して発射されたかもわからないスペースシャトルの中で、俺の視界はホワイトアウト。夢が醒める。
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ちちゅん、雀の鳴き声。夢が、──幻覚が醒めた。生きた心地がしないまでに、現実から乖離した内容だった。でも知っている。あの現象はこれから先に確実に起きる現実での出来事だって。
部屋はクスリと血の溜まりだった。真ん中に荷物が転がっている。身動きのままならない身体を、ほふく前進で寄せ、包装紙を歯で噛みちぎる。
壊れた地球儀。最後に、皮肉なものを買おうと思ってた。
ふと、窓越しの、青い柚子の木の先の空を見る。風が吹きこんだ。あまりにもの突風。ガラスが割れるくらいの──!
思わず目を瞑る。部屋の隅に積み重なった論文の用紙が舞う。
目を開ける。見開いた。何千mもの津波が、蠕動する絶壁となって迫りつつある。途端に、浮遊感覚が襲った。大陸変動に耐えきれなかった家が地面から切り離されたらしい。パトカーや救急車もサイレンを虚しく空回りさせて浮いて、他にも浮いていた高層ビルに潰された。
津波の方から、潮風がきた。夏の匂いだった。淡い幻想の水がきた。そして、一筋の光が、垣間見えた────。
自分の正しさが、論文が証明されたと気づいた時には、━━━━━━━━。
それは宇宙に行くよりもずっと満たされて、きっと、どこかの幸せの居場所<ネバーランド>へ辿り着くはずなんだ。多分これではじめて、俺自身は発つことが出来たのかもしれない。
参考までに。球体の反転。
https://youtu.be/SLQEIDeZSmQ