その8『闇化粧』
正面から訪れた冷たい秋風がくれた、静かに乱れる心を抑える気遣いに、けれど尚、冷淡な引き絞った表情は変わりない。
少しばかり癖のあるくすんだ金色の前髪を頬に流され、右頬に伝わる髪の感触が、似ても似つかないあのチェシャ猫の指先と重なって。
より一層、眉間の皺が深くなってしまった辺り、気遣いはむしろ逆効果だった。
「……母ちゃん、大丈夫かな……」
「……うん、大丈夫。族長さんとのお話が終わったら、私も一緒にお見舞いに行っても良い?」
「モチのロンだ!…………ラ、ライのチャンにーは?」
「……あぁ、俺も行く」
「おっ……へへっ、ウチのかーちゃん美人だからって、手を出すなよー」
「……言ってろバカ」
グルグルと、巡る思考は憶測をいくつも生むけれども、そのどれも悪い方にしか繋がらなくて。
気付けば押し黙ったまま、表情を殺してしまったせいでリグルみたいな小さな子供にまで気を遣わせてしまったらしい。
年甲斐のない冗談混じりの笑顔に、力の入れてない拳を落とせば、自然と頬が吊り上がるのだから、不思議だ。
「お、あそこが族長の屋敷だよ」
「……」
「ライさん……」
リグルが指し示した先、大通りの終点に構えられた屋敷というには少し手狭な石造りの家。
煙突から立ち昇る灰色の煙にどこか剣呑さを感じて俺の目尻が緊張に吊り上がったのを見留めたのか、右隣から不安を閉じ込めたライラの声が届く。
爪先で弾いた小石が転がって、微かな砂煙が風にさらわれる呆気なさ。
それがまるで、何処かの誰かがあげた悲鳴の名残にも見えた。
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──
『闇化粧』
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傍仕えらしきネズミ族の女性に案内された部屋は、質素な装飾ながらも落ち着いた雰囲気がある応接室だった。
壁に飾られた水墨画や掛軸を見れば、和の文化に趣を集めた、目を閉じれば畳の芳香を感じそうな応接間。
パチパチと火種を飛ばす薪がくべられた暖炉の前に置かれた年季のあるソファに腰を下ろしてから、族長と思わしき腰の曲がった杖つきの老人がやって来るまでほとんど時間は掛からなかった。
「皆様、お待たせしましたのう……ほっほ、ライラックさん、相変わらずの別嬪さんじゃのう。今日もメティ様と取引をなされていたのかな?」
「は、はいっ。お久しぶりです、族長さん。いつも御世話になってますです」
「此方こそですじゃ。ライラックさんにはそこのリグルを始めとして子供達の世話を見てくれとるしの。ところで……そちらの御仁はどなたですかな? このような辺境ではとんと見掛けぬお顔立ちじゃが」
目を隠すほど生やされた白眉とフックみたく湾曲に伸びた白い髭が特徴的な顔立ちは、温厚そうという印象を抱かせる。
柔らかそうな物腰や口振りは、まさに好々爺という言葉が似合いそうな相手だけれども。
「お初にお目に掛かります、族長様。自分は10日ほど前からライラの元で世話になっている、間宮雷音という者です。手短に、ライとお呼び下さい」
「ふむ……であれば、ライ殿ですな。ワシはこの集落にて族長を務めとります、ワルド・ワズイックと申す者ですじゃ。皆やライラックさんからは族長と呼ばれておりますが、そう畏まらずワルド爺さんとでも呼んで下され」
「それでは、ワルド族長、と」
「ほほ、お堅い御仁ですのう。まあ良いですわい」
そわそわと落ち着きない様子ではあるが、活発なリグルが話に水を差さない辺り、しっかり村人からも確かな信頼と畏敬を集めている事が窺える。
辺境に住んではいるが友好的なネズミ族を束ねる長というイメージにすんなり当てはまる様な、ワルド族長。
素直に疑うには抵抗のある人柄だが、ここまで来て踏み入らない訳にはいかない。
万一の保険の為、それとなく屋敷の外へ続く扉や窓辺へと気をやれば、深みのある老人のしゃがれ声がいよいよ本題へと触れた。
「それで……本日はどういったご用件ですかな?」
「……」
少し、ほんの少しだけながらワルド族長の声に"固さ"が混じる。
恐らく、単なる近隣の集落への挨拶ではないという事は俺やライラの表情からある程度、察しが付いているのだろう。
背筋を伸ばしながら、胸に広がる不安を誤魔化す為か、そっと俺の腕に乗せられたライラの小さな白い手。
夜の帳が落ちたような静けさの一瞬に、暖炉の中で燃え上がる焔の糧がパキッと大きく鳴いた。
「……単刀直入に、お尋ねします。リグルの父親を始めとした、家に帰って来れない方々の行方を……ワルド族長はご存知ですか?」
「…………」
ワルド族長の表情は、動かない。
けれど、対面のソファに腰掛けて座る、杖を握るワルド族長の両手が──僅かに、震えた。
それがどういった意図で、どういった感情から来るモノなのかは、俺には分からなかったけれど。
やはり、リグルの父親が帰って来れない理由を、ワルド族長は知っている。
それだけは、彼の語らぬ静寂が教えてくれたから。
「族長様……母ちゃん、昨日からずっと寝込んじまっててさ……オイラも面倒見てるけど、全然良くなりそうにないんだ。父ちゃんが居れば、きっと母ちゃんだって良くなると思うんだ」
「……」
「良く怒られてるし、この前だって泣きながら母ちゃんに謝ってたし、なんか情けない父ちゃんだけどさ……へへっ。きっと、良くなる。だって母ちゃん、父ちゃんが居れば良く笑ってるから。だから、族長様……」
「……リグルくん」
「父ちゃんが何処に行ったか、知ってるなら教えてよ。どうせ、ダメダメな父ちゃんの事だから、どっかで迷子になってるんだろうけど……だったら、しょうがないけどオイラが迎えに行ってあげなきゃ」
左隣の小さな身体は、気高かった。
父親が帰って来ず、母親が倒れてしまったにも関わらず、それでも不安に潰れる事はなく出来る限りをしようとする姿はきっと"強い"という事なんだろう。
それは、リグルがまだ、父親の行方に『心当たりがない』という証明に他ならなくて。
幼い勇気が、どこか物悲しくて。
「……リグルや。マグラはもう、帰って来れんのじゃ」
──嘘 0%
「えっ?」
「……」
短く告げられた真実は、きっとその小さな身体が背負うにはあまりに残酷で。
真実を告げる老人の声は、まるで処断を願う懺悔に近い。
マグラ。
きっと、遠くへと行ってしまったリグルの父の事だろう。
ビーカーに満ちた悲しみをスポイトで一滴落としたような、ライラの息を呑んだ声が鼓膜に反響した。
「な、なんでさ? どうせまた、どっかで迷子になってるだけなんだろ? じゃなきゃ、またたらふく酒飲んで酔っ払ってぶっ倒れてるとかじゃないの?」
「……すまん。今は、教えてやる事は、出来ん」
「なっ、なんでだよ! お願いだよ族長様! 父ちゃんの居場所を教えてよ、母ちゃん、直ぐにでも元気にしてあげなきゃ……」
「……すまん、ワシが不甲斐ないばかりに……ほんとうに、すま、ん。リグルや、今は母親の傍に居てやってくれんか」
「母ちゃんの、傍にって……なんで、なんで……」
「……頼む、リグル」
──間宮くん。ごめんね、ごめん。
不甲斐ない、そう我が身を語るワルド族長が開いた、灰色の瞳に乗せられた感情は、深い悔恨と無力感。
ただ詫びる事しか出来ないと、力なく項垂れながらも、リグルに倒れた母親の傍に居る事を願う老人の眼差しが、遠い記憶の誰か彼方へと結び付く。
深く、深く。
先ほどまでの柔らかな物腰はそこにはなく、今にも床に膝をついてリグルに頭を垂らさんとするだけの背中が、泣いていると思ったのは。
『あの人』と、重なるから。
「もう……もういいよ!」
「っ、リグルくん!? 」
「……」
業を煮やしたのか、それともワルド族長の深い後悔に触れたのだろうか。
ずっと堪えていた不安を爆発させるような鋭い声をあげて、リグルが走り去った先の扉へとライラが駆け寄る。
「ライさん……」
「……あぁ、頼む」
「っ、はい!」
縋るような揺れるソプラノを紡ぐライラの背を、振り返ることなく押せば、強い返事を残して彼女はリグルを追い掛けた。
空を飛べるライラなら、例えリグルが父親を探すべく衝動的に集落を飛び出したとしても、追い付けるし、止めてやれるだろう。
慌ただしく遠退いていく足音が響く廊下を一瞥して落とした溜め息が、我ながら随分白々しいと思えた。
────
──
─
「……なるほど、メティ様のお知り合いでしたか。それで、ワシの元へ来る道中にリグルと出会ったのですな」
「はい。一応、これが証明代わりです」
「……確かに、それはヘルメスの腕飾り……」
「えぇ、メティから譲り受けたモノです。それとアイツは、俺ならばもしかすれば、問題の解決に力添え出来るのではないか、とも」
「……ライ殿が、ですかな?」
「はい。宜しければ、話を聞かせてもらえませんか」
「…………」
ジャケットの裾を捲ってヘルメスのブレスレットを見せれば、腑に落ちたと言いた気にワルド族長がひとつ頷いた。
どうやらメティはネズミ族の問題について、ワルド族長から色々と話を聞いていたらしい。
アイツの言を借りるのは余り気が進まないけれども、こうでも言わないとワルド族長は首を縦には振ってくれそうにない。
そして、ネズミ族と繋がりの強いメティの名前は、ワルド族長の重い口を開かせるのに、一役買ってくれた。
「……集落の裏にある農園の離れに、洞窟があるのはご存知ですかな?」
「洞窟? いえ、農園があるのはライラから聞いていましたが、そっちは初耳です」
雄大に広がるファニルの森の入り口と、この集落は地図上で見たならほとんど隣合わせと言って良いくらいに近い。
そしてその境界線から先は幾つもの巨大な山脈が連なっているらしく、ワルド族長の言う洞窟はその山脈に出来たモノの一つなんだろう。
「その洞窟は、昔から農園に収穫に出た者が休息地代わりに使っておったのですじゃ。『転』の季節である今でも、時折陽射しが強いと感じる日もありましてのう。農作業の合間に涼む者も少なくなかった」
「……」
起承転結の転。
このファンタズマゴリアでは、季節ごとの呼び名が少し異なり、『春夏秋冬』に位置する事象がそのまま『起承転結』となっている。
例えば春の季節は、『起』の季節。
同様に夏は『承』、秋は『転』、冬は『結』。
現在では秋の中間くらいだろうが、それでも時折太陽の陽射しが強いと感じる日もある。
農作業の箸休めとして、日の当たらぬ洞窟の冷たい空気は持ってこいなんだろう、が。
「しかし……ライラックさんが森にお帰りになられて半月ほど後の事でした。休憩となり、洞窟に足を伸ばした村の三人程の若者が、いつまで経っても帰って来ないという報せが届いたのですじゃ」
「……!」
恐らく、事の発端。
メティの話を聞いた当初は村内部での問題かとも勘繰ってはいたが、原因は外的要因だったのか。
「続けて、戻って来ない者共を探しに洞窟の奥へと入っていった者達もまた、帰って来ず。行方知れずの夫を追った嫁もそれぞれ二人、同じように……」
ミイラ取りがミイラになった、ということか。
行方不明者の探索に出た者、それと婚姻関係にあったネズミ族の女性と、被害が連鎖して膨らんでしまった。
しかも、原因が全く掴めない。
族長の立場である彼は、相当に頭を抱えたのだろう。
言葉を吐き出す至る所で、その苦難が振り返ったように滲んでいた。
「その夜、ワシは村の力自慢を十人ほど引き連れて、その洞窟の奥へ向かった」
「っ、洞窟の奥へ……失踪の原因は掴めたのですか?」
「…………原因は、掴めましたがのう……『アレ』が何なのかは、実際に目にして、ついでに『会話』までしたワシとて、分かりませぬ……」
「……?」
ワルド族長が、洞窟の奥で目にした何か。
それは、言葉を利くことが出来、つまりは意志の疎通が出来る何物か。
けれど、それが具体的で何だったのかは、実際に対峙したワルド族長ですら曖昧に言葉を濁してしまう存在であって。
「ただ」
ただ、ワルド族長がこれだけは間違いないと言える事。
それは、洞窟の奥底に潜む、ワルド族長にとっては思い出すだけでも身体を震わせてしまうほどの『恐怖』の象徴。
「とても、とても……大きな、真っ黒な何か。おぞましく、冷たい……あれは、そう、いうなれば……」
それを形容する言葉があるのならば。
それは脅威以外の何物でもない。
──バケモノ──
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