その7『這う砂塵』
「良くからかわれたりもしますけど、悪い人じゃないんですよ」
きっと、無意識の内に去って行った悪戯猫に対して難しい顔でも浮かべていたんだろう。
困り顔で宥めるライラの笑顔に、凝り固まった顔がゆるゆると萎んで、どっぷりと込めた溜め息を落とす。
ネズミ族の集落で、なにかしらの問題が起きている。
あの底の見えない猫にも手に負えないらしい問題は、けれども俺ならば解決出来るかも知れないと。
しかしその問題はそれなりに危険が付きまとうので、無理は禁物と釘を刺す癖に。
その問題の中身も、会って間もない男相手にお前なら出来ると、そう思い至った根拠すら提示する事なく、一方的に押し付けられた。
「……あぁいうのは、性質が悪いって言うんだ」
「あ、あはは……」
思い返せば、やけに"素直"に色々と教えてくれたり、便宜を図ってくれたのは、単なる親切ではなかったのかも知れない。
お得意様であるライラの連れ合いだから、という事で接してくれているのかと油断した。
──ライラにゃんが信じているのにゃら、メティもライにぃを信じるの!
あれが、最初の嘘。
なら、裏返せばそれは、そんな『簡単な理由』で人を信じる女ではないと言うことで。
「ネコ被ってたって訳か。やってくれる」
つまりは、真実の塔に至る為のヒントを教えてやった情報料代わりに、この村の問題を解決して来いと、そういう腹積もりか。
所詮は憶測、メティの目的は分かりはしない、が。
──上等だ、性悪猫。
けれど、この問題を解決する分の労力が『割に合わなかった』場合。
次に会う時には、それなりに覚悟しておいて貰おうか。
ライラの渇いた苦笑を耳に残して、悪童みたく手骨を鳴らしながら見上げた秋の空。
尾を伸ばした長い長い白雲が、退屈そうに浮かんでいた。
────
──
『這う砂塵』
──
────
太陽がより高く昇り、大通りを歩く俺とライラの影が引き延ばされる。
おおよそ、午後に差し掛かったくらいの昼時にも関わらず、やはり道行くネズミ族の人影は少ない。
「とりあえず……族長さんに話を聞いてみます?」
「ネズミ族のか。確かに、族長ならこの集落の問題とやらも当然知ってそうだが……よそ者にそう易々と打ち明けてくれるかどうか」
「ネズミ族の大人は、親切な人も多いんですけど……うーん、やっぱり厳しいんでしょうか」
抱える問題の内容にもよるが、多少の交流があるライラならまだしも俺相手にペラペラと喋ってくれるとは考え難い。
ライラの話では特別閉鎖的ではないし、人当たりも良い人間が多いらしいこの集落。
けれども、幾ら人が良くてもそう簡単に問題……言い換えれば弱味を晒せれるかと考えれば、普通は無理な話。
常に楽観的なライラでさえ、口をすぼめて眉を潜めるくらいだ。
先行き不安なのは変わらない。
それでも子供染みた反骨心が、この件から手を引く意思を抑えた。
──とはいえ、それとは別に問題がひとつ。
「……ライラ」
「はい?」
「本当に、危なくなった時は逃げてくれるんだろうな?」
「…………」
「クレーム」
「ぴぎゃっ!? わ、わわ分かってます分かってましゅから……ちゃんと、危なくなったら飛んで逃げますってばぁ……」
「……嘘にはしてくれるなよ」
ライラの性格は争い事には向いてない。
川で魚一匹捕るのにも苦労するくらいだ、危険と分かってわざわざ巻き込む訳にはいかなかった。
だからこそ当初、後の調査は自分一人で済ませるつもりだったのが、彼女は先に帰るようにと幾ら頼んでも、首を縦には振ってくれなかったのだ。
危険だといっても、やです、と即答で却下されて。
万が一の事があればどうすると説得したが、"お客様"が危険に飛び込んで行くのをみすみす見逃すのは、宿屋の女将見習いとして失格だと。
ライラ特効の魔法の言葉を紡いでみても、半泣きにさせるだけで、頑固者の心は折れてくれなかった。
というか、ラピスラズリに涙を滴らせながら、ワンピースの裾をぎゅっと掴んで、必死に抗議の眼差しを向けてくるライラを見れば逆に俺の心が折れてしまって。
もし万が一、本当に危険と感じたなら俺を置いてでも逃げるという事を無理矢理約束させたのが関の山だった。
「でも、ライさんだって危ない目に会うかも知れないんですよね? その、ライさんが凄く早く動けたり力持ちだったりするのは、川での魚捌きっぷりを見てれば分かるんですけど……」
「……俺だって無理をするつもりはない。けどまぁ、護身術には"心得"がある」
「はぁ、そうですか……」
それでも保証にはならないと言いたげに見上げる隣の、優しい心配りは素直にありがたい。
昔はともかく、この無駄に能力の上がった身体なら、それなりに対処は出来るだろう。
それに、護身術とはいえ仮にも『歴史ある武術』の端くれを、文字通り『叩き込まれて』来たから。
だから、例えば。
大通りに繋がる細道の曲がり角からバタバタと走り込んで来た、小さなネズミ族の子供をひょいと受け止める事なら出来る。
「うわあっ!?」
「──っ」
衝撃を流すように斜めに逸れて、くの字に曲げれば硬い身体でもクッション代わりにはなる。
ポスンと布擦れの音を軽く立てて飛び込んで来た子供を離してやれば、何が起こったのか理解出来ていない大きな黒い瞳がぱちくりと点滅した。
「……っ、おろ?? 痛く、ない……」
「走る時はもう少し気を付けてな」
「あ、うんごめんな……って、チャンにー誰? うわ、すげぇパツキンだ……」
「チャンにー……?」
着流しに似た灰色の染め物を着込んだ、ネズミ族の大人と比べればかなり小さな耳と短い尻尾を持つ少年は、俺を見るなり何やら唖然としている。
というか、チャンにーとパツキン、とは。
恐らく兄ちゃんとか金髪とか言いたいんだろうが、随分と独特な言い回しだ。
「……あ、リグルくんだ」
「あ、ライラのチャンねーだ。ウォンちゅー」
「ウォンちゅー」
「うぉ……? 何だそれ」
「ネズミ族の挨拶らしいですよ。何だか可愛いですよね」
知り合いだったのか、という疑問は取り敢えず置いて。
絶対嘘だろそれ。
すれ違う大人達の何人かは軽く会釈してくれたが、そんなネイティブな挨拶、誰一人言ってなかったぞ。
第一可愛いとは思わないが。
「チャンねー、このパツキンのチャンにーは?」
「ライさんって言うお名前です。今、私の家で一緒に暮らしてるんですよ」
「へぇ、お盛んなんだね」
「?……お盛んって?」
「一つ屋根の下で色々やる仲の事」
「おい」
「あ、はい。私達お盛んですよ」
「オイ!」
「えっ、違うんですか?」
「意味が違う! というか、その話は忘れろ。一刻も、早く」
「え、でも……」
「良いから忘れろ、それ以上何も聞くな」
「えぅ……わ、分かりましたから、そんな怖い顔しないでください」
絶対ライラは意味を分かって言ってない。
というか、このリグルという子供、精々七歳くらいの外見で何て事を知ってやがる、そして言ってくれやがる。
ネズミは繁殖力が凄い生き物とは知っているが、そっち方面の英才教育も早いのか。
すごくどうでも良い。
詳しく掘り下げる必要性は皆無だ、流そう。
「……ライラが言っていた仲良くしてくれる子供ってのは、この子の事か?」
「はい、そうですよ。メティさんと取引に来た時、良くお話してくれたり遊んでくれたりするんです」
「オイラはリグル。よろしくな、ライのチャンにー!」
「……あぁ」
腕白少年、という符号がとても似合いそうな快活さはあどけない笑顔が良く映える。
乱切りな黒いショートカットは少し土埃を被っているが、そんな事などまるで意に介さないエネルギーは、その小さい身体のどこから溢れているのか。
「ライラのチャンねー、今日はメティのチャンねーとは一緒じゃないの?」
「あぁ、うん。さっき帰ったばっかりだよ」
「えーなんだよなんだよ、メティのチャンねー……約束が違うじゃんか」
「約束?」
「うん、メティのチャンねーは物知りだから、村に来た時は色々と教えてくれるんだけど……」
「色々?」
「ほんと色々ですよ。もしもの時の為にって、私もリグル君と一緒に教えて貰ってるんですけど……前の時は何だったっけ……」
「ツンデレがどうこうじゃなかった?」
「あ、それですそれ」
「……」
何教えてんだ、あのアホ。
多分、素直になれないつんけんした態度の事だった気がするが、何故それがライラの為になると思ったのか、理解に苦しむ。
というか、こんなとこでも要らん影を踏ますなよ、あの性悪猫。
「……ところで、リグル。何か用があったんじゃないのか? 急いでたんだろ」
「ん? あぁ! そうそう、そーだった。オイラ、族長様の所に行くつもりだったんだ!」
「族長さんに?」
気を取り直そうと話を切り返せば、少し大袈裟な素振りで声変わりもしてないソプラノを響かせるリグルの言葉に、思わず目が細くなる。
メティがちらつかせた、ネズミ族の大人達に起きている何か。
そのぼやけた輪郭を浮き彫りにする欠片となるだろうかと、無意識の内に表情が固くなった。
そしてリグルが語る、彼が急いでいた理由を聞けば。
その何かは、確かにメティが釘を刺したのも頷けるくらいに──キナ臭かった。
「実は……父ちゃんが、昨日から家に帰って来ないんだ」
「……えっ? お父さん、が、ですか?」
「うん。母ちゃんに聞いても、父ちゃんは"遠く"に行っちゃったって、しばらく帰って来れないって。理由を聞いても教えてくれないし、母ちゃん、昨日からずっと調子崩しててさ……」
「──」
「え……」
「それで、族長様なら父ちゃんが何処に行ったかも知ってるかなって思ったんだ。だからオイラ、族長様に聞きに行こうって」
遠くへ行ってしばらく帰って来れない、というリグルの母の言葉。
理由もリグルに教える事はなく、病床に伏せているというリグルの母。
先月に比べて、明らかに大人の数が減ったという集落。
集落共有の畑の収穫ではなく、何らか別の要因で居なくなった──遠くの、何処かへ。
「……リグル」
「ん、何? どしたのライのチャンにー、顔怖いよ?」
「……一つ、聞きたい。家に帰って来れてないのは、リグルの父親だけか?」
「……ううん、マートのとこのチャンとーも、タスクんとこのチャンとーも、他にも帰って来てないって。ユミルんとこも……だからオイラ、他のみんなの分も族長様に聞いてみようって」
「…………そうか」
「ラ、ライさん、これって……」
ライラも、リグルの口振りとメティの警告を繋ぎ合わせて、小さな集落に起きている問題の異常さを理解したんだろう。
ラピスラズリの瞳を震わせて、みるみる内に青褪めていくその表情には、困惑と恐怖が渦巻いていた。
俺とて、似たようなものだ。
危険だとは心得ていたが、これは生半可な好奇心で首を突っ込んで良いレベルの問題ではない。
まだ確定するには早いとはいえ、これはどう冷静に考えても"ヤバい"。
そこに在ってもおかしくない、死の気配。
元は脆弱な高校生が負える範囲の問題とは到底思えない、けれど。
────間宮くん。
けれど、思い出の中のあの人が振り返ってしまうから。
「リグル」
「ん?」
「俺も一緒に行こう」
背を向ける事は、出来ない。
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