その3『朱色の警鐘』
天高く馬肥ゆる秋。
そんな時節がぼんやりと、けれども馬の駆け足みたく足早に脳裏を横切っていく。
見上げた先の高い高い空は、元の世界でも見馴れた所謂秋の空というヤツで、ついでに女心みたく移り変わりも転々とすれば、より一層印象に拍車が掛かるというものだ。
しかし、ライラの元で世話になって、既に七回、月と太陽の鼬ごっこを見送っている訳だが、あの日の大雨で曇天の溜飲は下がったらしく、空一面の蒼い便箋にはクレヨンで描いたみたいな輪郭の濃い白い雲がいくつも浮かんでいる。
涼やかな秋の旋風に煽られてパタパタと揺らめく、人一人分はすっぽり覆ってしまうくらいの真っ白な薄布を、手持ち無沙汰に眺めていれば。
「ライさーん、御飯出来ましたよー」
ファニルの森に群を成して広がる、鮮やかな紅葉達が風に擽られて笑う声に混ざって、甘いクリームの中に芯を通わせた様な、ソプラノの反響。
クルリと真後ろへ顔を向ければ、蜘蛛の糸みたく細く立ち昇る白煙と、ログハウスを背にした、恩人から同居人へと名札をすげ替えた少女の姿。
空色のエプロンドレスを身に付けて、ほっそりとした腕をヒラヒラと右へ左へ振りながら、やんわりとした微笑みをライラが浮かべていて。
太陽を背にしている訳でもない彼女の笑みが酷く眩しくて、膝を伸ばしながらも、目を細めた。
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『朱色の警鐘』
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「あの、お口に合いますか? お魚料理なんて久々で、ちょっと薄味になっちゃったんですけど」
「そんな心配しなくても充分美味い…………なぁ、ライラ。このやり取り、恒例行事にでもするつもりか?」
「う、えーと……ご、ごめんなさい。け、けどですね……やっぱり宿屋の女将見習いたるもの、お客様に出すお料理がダメダメってのはまずいかなーと思うんですよ」
「そうかも知れないけどな、そもそも客ならちゃんと金払うだろ」
「見習いですもん、私。それに、このお魚だってライさんが捕って来てくれた訳ですし……宿屋といっても、このお部屋、そんなに広くないですよ? もしかしたら我慢してるんじゃないかなって」
「寝床貸して貰えるだけで充分だ。それに、俺は──嘘が嫌いなんだ」
「はぁ……そう、ですかぁ。あ、でもでもでも、やっぱり床で寝るのは良くないと思うんですよ。夜も寒いですし」
「問題ないって。床で寝るのは馴れてる」
私の夢を叶えて欲しいからと、まるで融通の聞かない子供に言いくるめる様に、そしてどこか無理矢理に押し切られて、ライラの家に厄介となる事になり、早くも一週間。
この一週間でライラについて学習した事といえば、手先は器用だけども運動はあまり得意ではなく、どことなく抜けているという性格をしている癖に、変なところで頑固者。
特に、宿屋の女将見習いたるもの、と切り出した時には自分の意見をなかなかに曲げようとしない。
それこそ、立派な女将と成長する為の客になって欲しいと、良く分からん理屈で半ば強引に同居へと押し切られた時もそうだった。
だからこそ、無垢な親切を押し通そうとする時には、必要に応じて、ピシャリとはね除けなければならない。
例えば、こうして。
「むー……でもですね、宿屋の女将見習いたるもの、お客様を床で寝させるなんて──」
「クレーム」
「ぴぃ!?」
「一方的な因縁」
「あ、あぁ、あぁぁ……」
「悪評、閉店、衛生問題……」
「ご、ごごめんなさいぃ! わ、分かりました分かりますた分かりましたよぉ!! も、もう言いませんから……」
「物分かりが良くて助かる」
「うえぇ……ライさん、酷いです……」
「悪かったって」
メソメソと膝を抱えながら純白の翼を震わせ、ラピスラズリの瞳を潤ませる辺り、確かに気構えは見習いというよりも本職に負けず劣らずなのではないだろうか。
つくづく庶民的というか小市民的なライラ、ハートが強いのか弱いのか良く分からない。
しかし、こうでもして断っておかないと、ライラは寝床を譲ると言って聞かないし、最終的な譲歩として一緒に寝るという選択肢まで視野に入れてしまう。
一周回って馬鹿なのかコイツと思ってしまうくらいの無警戒っぷりにすんなりと甘える訳にもいかず、2日目にして偶然見出だせた、頑固なライラを曲げさせる魔法の言葉を使うのも致し方ないだろう。
正直、こうして凹んでいるライラを見るのは少し楽しかったりするのだが、もしかして楽しんでますか、と聞かれない限り答える必要はないというのは詭弁か。
まぁ、例えライラと連れ添って寝そべった所で襲ってしまったりはしないとは思うが、『間宮雷音の理性』なんてとても信じれるものなんかじゃないというのは、俺自身が一番良く──知っているから。
「そういえば、昨日の続きなんだが……確か『真実の塔』だったか。そこに居るんだろ──賢者様、とか言うのが」
「うーん……あくまで、居る、という話ですけど」
「誰かしら、賢者に会った事があるとか、そういう話は聞いた事は?」
「いえ……少なくとも私は聞いたこと無い、です。ただ、ファニルの森の奥で長いこと暮らしてましたから、世情には疎くて……」
「……なるほど」
春の国、夏の国、冬の国。
そして此処、秋の国ことアキの斜陽。
日本の四季を準った名称を掲げる四つの国に別たれる大地、ファンタズマゴリアの中心部。
賢者が住む場所と言われる、通称『真実の塔』という場所について語るライラの口振りは曖昧で、まるでそれこそ御伽噺の登場人物みたいだ。
賢者という如何にも大層な人物であるらしいのに、存在自体があやふやで不明瞭なのは大いに気に掛かるが、それも一先ず置いて。
それよりも気になるのは、この世界……つまり、ファンタズマゴリアそのものと言って良いだろう。
ライラ曰く、多種多様な人種──名前をあてがうなら、獣人──が存在するこの世界は、色々と奇妙な点ばかりが散乱している。
例えば、言葉。
国や種族によって訛り方の違いは多少あるが、概ね、『日本語』が標準語となっている。
世界が異なれば当然扱う言葉だって変わるものだと思うものだが、そういう訳でもないらしくて。
或いは、ファンタズマゴリアに弾かれた際に、俺の身体の変調に合わせて翻訳機能まで刷り込まれたという可能性もあるが、どうにも腑に落ちない。
何故なら、シチューはシチュー、布団は布団、トイレはトイレ、チーズはチーズといったように、外来語も普通に通じてしまうのはどういう事か。
例えば、通貨。
普通に千円札とか流通してても不思議ではなさそうだが、蓋を開けてみれば使用されるのは、金貨、銀貨、銅貨と如何にもファンタジーチックなもの。
紙幣はないのかと尋ねればライラは不思議そうに小首を傾げていたので、ファンタズマゴリアには存在しないのだろう。
文明レベルが中世以前の様態なのかと思えば、普通に新聞とかは存在するらしいので、正直細かな点まで指摘するすればキリがなかった。
そして、最後に──人種。
まず前提として、俺の知っている単なる『人間』というべき存在は、居ないということ。
何かしらの特性を持っているのが普通で、種族によっては耳なり尻尾なり翼なりが生えているのが当たり前。
そして、ニンゲンという単語は、俺の中での『獣人』……つまりはライラの様なサギ族や、このファニルの森の近くに集落を形成しているらしいネズミ族を指すらしい。
かといって、俺の知るネズミも、ちゃんと存在しているそうで、要するに着目すべきなのは人の形をしているか否か、という事なんだろうか。
ならば俺はどうなのかと云えば、勿論彼女達と同じニンゲンに分類される形になる。
少し尖った爪や八重歯はまだいい。
馬鹿げた怪力に金髪金目。
隠者みたいな生活を長いこと送っていた為に世情や他の種族について疎いライラでは、たぶんネコ族だと思うという話だが、彼女自身もどこか自身もなさげだ。正確性はない。
まぁ、正確には分からずとも、心当たりは──ある、"非常に抵抗感を覚える"が。
こうして並べてみるだけでも、随分と、ちぐはぐな構造をしている世界だと思う。
一つの完成された風景画には程遠い、まるで子供の落書きを切って貼ってを繰り返して繋ぎ合わせた様な、纏まりのない駄作品。
実に、胡散臭いことこの上ない世界だ、いっそ笑えてくる。
でも、それが現実として目の前に広がって、幻想で出来た曖昧な大地の上を、歩かなくてはならないとして。
いつまでも途方にくれてばかり居るよりも、我武者羅にでも目標を定めてしまうしかない。
──形はどうあれ、生き方を定めてくれる大人は、もうどこにも居ないのだから。
「そういえば、今日の作業はいつからする予定なんだ?」
「え? あ、えーと……そうですね、昨日までの分で目標の数も大幅に達成出来ましたし……今日はもう大丈夫かなって。それに、またライさんに手伝って貰うのも申し訳ないですし」
「……お前こそ、我慢とか遠慮とかせずに俺をこき使えば良いのにな。それに、大雑把に木を分解するのが精々で、細かい作業は全部ライラがやってるんだ。正直、大した苦労にもならん」
「私にとっては、それが一番大変なんですよね……この前までずっと大雨で、材料を調達するだけでも苦労してましたし。ライさんが居なかったら、今頃泣きながら作業してましたよ、きっと」
ふにゃりと目尻を下げるラピスラズリの視線が、恥ずかしそうに逸れた先は、ライラの仕事場とも言える一畳半ほどのひっそりとしたスペース。
潤滑油で満たされた白い小鉢や、彫刻刀や木槌などを纏めた工具セットの傍に置かれた彼女の作品達が、窓辺から射し込む太陽の光を浴びて煌めいている。
外装から歯車まで、その全てが木で出来た精密な『絡繰りのオモチャ』は、ねずみだったりウサギだったり鳥だったりと多種多様ながらも、そのどれもが触れずとも今にも動き出しそうな程で。
芸術方面の知識はまるで無くとも、手に取れば命の光すら感じそうな作品達には充分な価値が宿る事くらい、ぼんくらな俺にすら容易く理解出来てしまう。
単に木材を丁度良い大きさまで、力任せに分解する作業と、神経を尖らして一つ一つの細工を仕組み、仕上げる作業のどちらが苦労するかなんて、比べるまでもない。
一月に一度だけ、ライラはこれらの作品達をネズミ族の集落へと持ち込んで、契約を結んでいるとある行商人に買い取って貰って生計を立てているらしい。
どこか抜けている印象の多い彼女だったが、その実はちゃっかり逞しく生きているようで、何故だか誇らしくもあり、同時にそんなライラに世話になりっぱなしな我が身が酷く矮小に思えて、腑に落ちる。
気立て良く、当たり前の様に人に優しく出来て、当たり前の様に誰かに感謝出来ている、ライラック・ラスフォルテという名の少女。
日溜まりの香りを漂わせる白い一輪の横顔が、こうも眩しく思えるのは、至極当然の理で。
それは、俺がずっと昔に諦めて、けれど棄て切れなくて、今も必死に掻き集めている──人間性なのだから。
「土砂降りの中、木材どころか変な男を引っ張る羽目になったみたいだしな。どちらにせよ泣きそうな目にはあったんじゃないか?」
「確かに重かったですけども、それより助けなきゃって一杯一杯で正直良く覚えてなくて……もしかしたら、ちょっぴり泣いちゃった、かも?」
「……参ったな、負債がどんどん重なってる。返す目処も経ってないのに……」
「そ、そんなそんな、負債だなんて思わなくたっていいですからっ。私がしたくてしてる訳ですし……それに、ですね。一人で居るよりも、やっぱり誰かと一緒に居る方が私も、そのぅ、楽しいですから」
ライラがどうして、たった一人で、このファニルの森の奥深くで暮らしているか、俺は未だに知らない。
正確に言えば、一度だけそれとなく聞き出そうとしたのだけれども、悲しそうに瑠璃色の視線を地に落とした彼女の表情に、不躾な詮索は閉ざされた。
つまらない好奇心に急かされて、焦がれるほどの日溜まりを踏み荒らす身勝手を重ねる悪趣味は、幸いな事に持ち合わせていなかったから。
「……だがコレはコレ、ソレはソレだ。世話に成りっぱなしというのは、流石にな」
「お、おぉー……それは、あれですかね、オスとしてのプライドってやつでしょうか」
「雄って……ま、まぁ良い。だからだな、この負債に関してはいずれきっちりと返させて貰う。何だったら帳簿にでも付けといてくれ。宿屋の女将見習いとしても、そういうのは予行演習になるだろ」
「た、確かにそうですけども……うーん、実は私、計算とかが苦手でして……収益がどうとか支出がどうとかも、正直ちんぷんかんぷんなんです……えへへ」
「……大丈夫なのかそれで。じゃあ、あの絡繰りの仕組みとかはどうやって作ってるんだ? 幾らオモチャとはいえ、相当緻密な計算が必要だろ、あれ」
「んーっと、勘、ですかね? ここをこうしたら動くとか、この部品はこれくらいの大きさで、とか。何となくですけど、イメージしながら作ればいつの間にか出来ちゃってる、みたいな?」
「…………」
出来ちゃってる、とあっさり言ってのける辺り、ライラ自身にはとんでもなく難しい事をしている自覚はなさそうだ。
一級クラスの芸術家が持ち得る感性はどれもこれも常人には及ぶ事のないモノだけども、何となくでこれ程の作品を作る事の出来るライラもまた、芸術畑の人間というべきだろう。
空間認識能力というヤツが長けていなければ、設計図も何もなしに、木製の絡繰りなんてとても作れるとは思えない。
贔屓目に見ても、単純な収支計算よりよっぽど難易度の高いことをやってのけてるライラの無垢なラピスラズリが瞳が、僅かな、それでいて確かな衝撃と劣等感をないまぜにして固まる俺を、不思議そうに見上げていた。
「あっ、ところで、なんですけども……ライさんが良ければ、明後日は集落まで一緒について来てくれませんか?」
「集落ってのは、ネズミ族の?」
「はい! 取引させて戴いてる行商人の方に、ライさんのことを紹介しようかなと思いまして。それに、あの人なら私なんかよりよっぽど世情に詳しい筈ですし、『真実の塔』についても何か知ってるかもしれませんから」
月に一度の取引が明後日まで差し迫っている事は聞いていたし、出来れば情報収集も兼ねて付いて行きかせて貰えばとも思ってはいたが、まさかライラから提案されるのは少々予想外だ。
多分、真実の塔や賢者について尋ねた時に、曖昧にしか答えれなかった事に、不必要な負い目でも感じているんだろう。
その証拠といわんばかりに、笑顔こそ浮かべているライラの形の良い眉毛が、ひっそりと八の字に潜んでしまっている。
苦笑になるまで、後一歩手前ほどの優しさが、どことなくチクリとした痛みを誘った。
「……変な負い目、感じなくても良いって。あんまりそう親切にされてばかりだと、積もった恩の返済がより一層難しくなるじゃないか」
「いやいやいや、別にそんな、恩着せがましくするつもりはこれっぽっちも無くてですね!」
「あぁ、分かってるって。少し言ってみたかっただけだ、気にするなよ」
「むー……何か今日のライさん、意地悪ですね」
柄にもなく揶揄ってみれば、ぷくーと膨れ面で返してくれる対面のライラに苦笑を浮かべながらも、脳裏に浮かぶのは、別のこと。
何故、ライラはこうも俺に親切にしてくれるのだろう。
立派な女将になる為の研鑽?
何らかの事情があるとはいえ、一人で暮らす寂しさを紛らわせる為?
それとも純粋な親切心?
極端なまでに嘘を嫌う癖に。
そのどれもが嘘であっても良いと思う部分が、僅かながらも確かにあって。
けれど、そのどれもが本当であったとしても、それはそれで──少し、困るのは、どうしてなのか。
煮え切らない奇妙な感覚から、目を逸らすように向けた窓の向こう。
異世界の群青と、ファニルの森の紅葉のコントラストを滑空する、白い影。
名前も知らない一羽の小さな鳥が、我が物顔で青と赤の境界線を横切った。
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