その2『白い少女の夢見事』
──この世の中は強いヤツが偉いんだよ。んでもって、弱いヤツが悪いんだ。
──はい。
──弱肉強食、ずっと変わらねぇ真理だ。なら、強い俺は何やったって良い。弱いヤツが悪いんだよ。
──はい。
──つまり出涸らしのテメェは、ただ悪いだけの存在だ。偉いヤツに使われるだけの存在よ。そうだろう、あぁ?
──はい。
──良ぉし。なら、いつまでもそこでぶっ倒れてないで、さっさと酒買ってくるなりしろ
──はい。
──分かりました、お父さん
染み付いて離れない、鈍色の苦悩を噛み締めれば苦くて、とても飲み込めない味がして。
後味の悪さに引きずられて瞼を開けば、天井から吊り下げられた──アヒル、の、ぬいぐるみらしき何かがプラプラと揺れながら、仰向けに寝転がっている俺をじっと見下ろしていた。
「なんだ、これ」
意味も分からないまま、深い森の中で目が醒めて、繰り返した自問は、積木にすればちょっとした作品になりそうなほどに積もりに積もってしまった。
「……どこだ、此処」
ログハウス、なんだろうか。
暖かみのある木々の壁、フローリングみたいな床、目測で大体八畳くらいの、一戸建てとするなら余りにも狭い生活スペース。
ポツンと置かれた、彩飾なんてまるで考慮されてない机がやけに物悲しく見えたけれど、淡白ながら生活感だけは辛うじて感じれて。
つまり、此処は誰かしらの住居宅。
「……」
絨毯みたく広げられた真っ白な敷き布と、羽毛の様な柔らかな感触が優しい掛け布団に横たわっていた事から、誰かしらに介抱されていたんじゃないかと当たりをつける。
むくりと起こした上半身を見下ろせば、事前に身に付けていた筈の黒いジャケットだけが見当たらず、少し泥の付着したジーンズと、ゆるんだカッターシャツだけ。
「……?」
とりあえず、誰かしらを探そうと身体を起こせば、何やら良い匂い匂い動きが止まる。
鼻腔を擽る香ばしい匂いに、ほぼ無意識に鼻を動かす自分がますますもって野性動物染みて、思わずげんなりと凹んでしまう。
腕力は人並み外れてしまったみたいだが、嗅覚はそんなに変わらないらしいというのに。
これだから空腹とは恐ろしいなと、慣れ親しんだ感覚にぼんやりと苦笑を1つ落として。
「外か」
これだけ狭ければ、この匂いの発生源が室内ではないことくらいは分かる。
部屋の主には失礼極まりない事を考えながら、兎にも角にも、先ずは人の居そうな場所へ。
寝起きでどうにも鈍くさと動く身体を急かしながら、玄関らしき扉のドアノブを捻れば、ガチャリと小金の軋む心地良い音が響いた。
─────
──
『白い少女の夢見事』
──
────
「………………」
「………………」
いや、まぁ、うん。
5W1Hとて、こうも毎度毎度頼られるのもそろそろ嫌気が差して来るだろうって事は、頼ってばかりの俺が一番良く分かってる。
あの森で目を醒まして以来、なんでどうしてホワイホワイと疑問ばかり繰り広げていた訳だから、少しくらいは腹を括って現実を直視するべきなんだろうけれども。
自前の黒髪黒眼が金髪金眼に変わって、挙げ句、明らかに一個の人間が持つにはオーバースペックな腕力までついてしまったのも大概だが、目の前の『これ』はなんだ。
指通りの良さそうな質感が触れなくても分かる、長く美しい白髪に、緩やかな睫毛のカーテンから覗く、ラピスラズリを閉じ込めた様な瑠璃色の瞳。
線の細い体躯に包み込んだ薄青のワンピース調の衣服が添え物にしかならないほどに、これまた美しい白い肌と、整った顔立ち。
あぁ、確かに此処までならば、美という概念の到達条件を悠々とクリア出来る程の美少女だなと見惚れるまでに留まれるんだけども。
鼻を伸ばすどころか、目をひん剥いて凝視してしまった原因は、彼女の背中から伸びた、一対の真っ白な『翼』。
翼である。
今にもはためきそうな、翼である。
どこかの赤い闘牛がラベルの栄養ドリンクが授けてくれそうな、あれであ
メルヘンファンタジーが目の前で突っ立っている。
「嘘だろオイ」
「ひっ」
「あ、いや……悪い」
「……い、いえっ、こちらこそっ」
この少女は、つまり、あれなんだろうか。
所謂、天使という存在なんだろうか。
目に眩しいほどの純白性を突き詰めた様な、俺の知っている『人間』と造形こそ似ているけども、翼を抜きにしても存在の格が異なっている、という不思議な感覚。
けれども、此方の呟きにビクンと反応して、煮えたぎる鍋をかき混ぜていた木製のレードルを両手に握りながら、へっぴり腰で後退る姿とか。
反射的に謝れば、ぎこちないながらも丁寧に腰を折る姿とかは、どこか所帯染みていて。
童話とかに登場する天使のイメージとは余りに異なる実物に、貼り付けようとしていた天使という名のレッテルは一先ず置いた。
「……あー、その。介抱してくれたみたいで。ありがとう」
「ぁ、いえ。その、お身体の方は大丈夫ですか?」
「お陰様で」
どうやら、俺を介抱してくれたのは彼女で間違いないらしい。
良かった、と頬をほにゃりと緩める仕草がなんだか小動物的だとぼんやりと思いながらも、さてどうしよう。
取り敢えず、積木の山を一つ一つ片付けていくしかないか。
「……聞いて、いいか?」
「えっ……あ、はい。何でしょう」
「……それ、本物か?」
「この羽……ですか? に、偽物とかあるんですか?」
「いや──っ、痛ゥ」
突拍子もない事を尋ねた罰か何かなのか、鼓膜をつんざく鋭い耳鳴りが頭痛までこさえて来るものだから、咄嗟に呻き声を隠すことも出来ない。
長いこと雨に打たれたせいでいまいち調子が戻らない不遇さに悪態をつきたい気分だが、流石に一宿の恩人を前では抑えないと。
一過性の、それも軽微なモノだったらしく、耳鳴りはあくまで一瞬。
落ち着いた頭を抑えつつ、ちらりと見れば、前触れもなくしかめっ面をご披露した目下の男に対して、何やらオロオロ右往左往と慌てふためく彼女は、随分と『出来た』性格をしている様で。
眩しいな、この人。
真っ白なのは、翼や髪だけじゃないらしい。
「だ、大丈夫……ですか?」
「あぁ、悪い。まぁ、確かに神経通ってるみたいだしな」
「……?」
「こっちの話だ」
こてんと小首を傾げる仕草や、慌てふためいていた彼女の心情と同調して無意識ながらにパサパサと翼を羽ばたかせていた辺り、まさに小動物のそれっぽい。
きっと勝手に納得した俺の態度が引っかかるのか、クエスチョンマークを携えてクリクリと丸めるラピスラズリの視線が、妙にくすぐったかった。
「あのぉ……えと、お名前、伺っても?」
「っ……恩人に対して、礼を欠いていたな。俺は────」
たかだか自己紹介ひとつ、余計な事を考えるな。
なるべく、自然に。
「──間宮 雷音。『変な』名前だからな、ライで良い。というより、そう呼んでくれ」
「はい。ライさん……ですか。良い名前ですね」
「……どうも。で、そっちは?」
「あ、ごめんなさい。私は、ライラック・ラスフォルテっていいます。えっと……そうですね──ライラって呼んで下さい」
「ライラ、か。分かった」
「なんだか、似てますね。えへ」
「確かに」
思い出すには心地の悪い、自分の名前に住み着く『嫌悪感』を表に出さずに居られた事は、既に思考の遠い彼方へ追いやれた。
しかし、耳馴染みのないライラック・ラスフォルテという名前から、また新たな積木が懸念という名の色に塗り変わって、すっかり積った多くの疑問符で、今ならそこそこのオブジェくらいなら作り上げられそうだ。
少なくとも、日本人じゃない名前。
翼の生えている、ライラという少女の存在。
翼の事は一旦置いておくとしても、色々と奇妙過ぎる。
仮に、ライラがどこかの外国人だったとして、どうして言葉が通じているのか。
あくまで主観だけども、俺とそう変わらない外見年齢からして、精々高校生くらいだろう。
百歩譲ってライラが語学分野にかけての秀才だと仮定しても、そんな年頃の少女が一人、こんな森の中で一人暮らし。
流石におかしいだろ。
「……ライラ。その、不躾な事を聞くんだが……此処は何処だ?」
「えっと、ファニルの森です。ちょっと入り組んだ道ですから、説明し辛いんですけど……」
「──ファ、ニルの……森?」
「は、はい。あ、近くにネズミ族の集落があるって言えば分かり易い、のかな」
「ネズミ、族? 集落?」
「……あの、ライさん? 大丈夫、ですか?」
ネジ巻き動力の切れかかったブリキ人形ですらもう少し滑らかに動くであろう、ぎこちなさ。
ゾッと背筋に氷塊をぶち込まれたのかと錯覚する程の怖じ気に、どうしようもなく表情が曇る。
すっかり青空へと姿を消した昨夜の曇天が、今この時ばかりは俺の顔に貼り付いてしまったかの様に強張っていくのが、ライラの困惑した声色を聞くまでもなく、手に取るように分かった。
「……ライラ。此処って……何ていう国なんだ?」
「国、ですか? えっと──ここは『アキの斜陽』ですけど」
疑問が、薄ら寒さへと転じる。
現実逃避しようにも、現実まるごと『ひっくり返って』しまって、これでは意味がない。
5W1Hが灰みたく脳裏で舞い上がって、ケラケラと馬鹿笑いを浮かべている。
思い出すのは、あの醜悪にも見えた昨日の黒い曇天と、その中で不気味に浮き上がったグロテスクな瞳。
世界をまるごと飲み込んでしまいそうな、紅い月。
光の屈折だとか、大気の関係がどうだとか、そんな科学的に説明出来そうな現象なんかじゃないって、肌で感じる、あのおぞましい光景。
あぁ、そうか。
この世のモノではないとは確かに思ったけれども。
『この世自体』が、まるまるすっかり姿を変えてしまったのか。
笑えない、全くもって。
嘘みたいな──話。
────
「違う世界から……」
「異世界、というヤツなんだろうな。俺の世界じゃもっぱらフィクション──御伽噺だが」
雨に打たれようが、異世界とやらに放り込まれようが、空腹が付きまとう現実は無情ながらも、楽観を得るには都合が良かった。
ライラがレードルでかき混ぜながら作ってくれた『シチュー』は、どうやら俺の分もしっかり数に入れてらしい。
シンプルな木椀に注がれたシチューは、確かに美味しいのだが、それよりも。
──暖かい、そう感じれるだけの余裕を取り戻せたのは、他でもなく、ライラのお蔭で。
彼女曰く、天使じゃなくてサギ族に分類されるらしいのだが、どちらにせよ、ライラは俺にとって、なまじ空想上の天使よりも余程ありがたみのある存在と言えた。
「御伽噺、ですかぁ……あ、じゃあ、私はそのお話の登場人物って事になるんですかねっ! ねっ?」
「……食い付き凄いな、お前」
「素敵じゃないですか、夢があるというか……」
「お年頃というヤツか」
「えへへ……だって憧れるじゃないです。その──宿屋の女将さん、とか。定食屋の女将さん、とか」
「ん……えっ? いやそこはヒロインとかじゃないのか、普通。やけにせせこましいポジションというか……最早脇役じゃないのかソレ」
「そそそ、そんなそんな……ヒロインだなんて、私なんかには勿体ないです。それに、宿屋の女将さんってなんだか素敵じゃないですか。包容力もありそうだし」
「……まぁ、確かに包容力は必要そうだが。なんというか、所帯染みてる、というか……」
変に器用な噛み方をしながらも、謙遜なのか殊勝なのか今一つ掴めかねないライラの性格というか、センスには突き詰める必要性すら早々に投げ捨ててしまう。
空腹を満たした充足感に寄り添う様な、少しばかり冷たい風は、確かに秋風と呼ぶに相応しい。
どこか微睡みを誘う甘い熱が、瞼の裏側にゆるりと帯びた。
『ファンタズマゴリア』と、如何にもな名札をぶら下げたこの世界は、大きく4つの国に分けられるらしい。
此処、『アキの斜陽』という国を含めて、春夏秋冬。
何とも分かり易く、異世界という割には日本人贔屓な名称に失笑すら沸かなかったが。
「まぁ、ライラなら出来るんじゃないか? 包容力は足りてそうだし」
「えっ、そそそんな、ライさん……意外と、大胆な事言うん、ですね。そのぅ、でも、いきなり女の子の発育について言っちゃうのは、えっと……」
「……オイなんで発育の話になってんだよ。内面とか料理の腕とかそういう意味だろ、普通」
「いや嬉しいですけど、嬉しいですけども、嬉しいんですけども!! や、やっぱり意外だなって……その、話してる感じだと、落ち着いてる感じしてるのに。やっぱり、オス、なんですねって……」
「オス言うな生々しい」
ライラによってもたらされた幾分かの余裕は、ライラによって剥奪されるのは筋が通ってそうだとはいえ、これは勘弁して欲しい。
毒気どころか全身くまなく脱力させる様な、白サギの乙女の奇妙な暴走や今までの言動から、ライラは所謂、天然というヤツなの だろうか。
まぁ確かに胸は大きい方だとも思うが、そこから下卑た想像をしている訳でもないのに変なレッテルを貼られるのは願い下げだ。
コイツどうしよう、とろくな対人経験もない頭で考えれば、ライラの瑠璃色の瞳が窺うように俺を見上げている。
熱が回り過ぎてオーバーヒートした訳でもなく、視線が散らばることもない、静かな眼差し。
夜明け前の空に良く似た、ラピスラズリの煌めきが瞬いて。
「あの、ライさんは、これからどうするんです?」
「これから、か……最終目標はともかく、取り敢えず……情報集めと、衣食住の確保だな」
「ふむ、やっぱりそうなりますよね。そこで、提案なんですけど」
「提案?」
「はい。その──私の夢、叶えてくれませんか?」
「……は? 夢?」
「夢です。宿屋の女将に成りたいなぁって、そんな夢です。だから、どうですか?」
──私の家、狭いですけど。良かったら、どうぞ。