出会ったのか
荒削りの山道。僕は3回も舌を噛んだ。
整備が行き届いていない小道を、父の運転する車が懸命に走る。
ぼくは何度もこの道で合っているのか聞いた。
返事は全部「大丈夫」だった。
3人分の荷物をぎゅうぎゅうに詰め込んだ小さな車の中、身動きの取れない僕は特にすることもなく退屈だった。心配するのを諦めた僕は、荷物の中からついさっき買った流行の雑誌を取り出し、ぼんやりと眺めた。自分には関係ないと思っていたから、一度も読んだことはない。興味が湧くものも、ない。これならまだ理科の教科書でも眺めていた方がマシだ。しかし面倒だがやむ負えない。僕はパラパラとめくり、今売れているCDやアーティスト、ドラマのあらすじを暗記していく。
そのとき母が僕の様子に気づいたらしく、
「そんなに息巻かなくても大丈夫よ。のんびりしたいい所なんだから。」
と僕に言った。
何も分かっていないな。流行とは追いかけていくものではなく乗るもの。
相手が田舎の高校生だろうと舐めてはいけない。何事も最初が肝心なのだ。
道の脇に車を止めた父は、地図を見ながらうんうんと唸っていた。すぐに母も参戦する。
父がやっと口を開いたときには、
「まだもう少しかかるみたいだ。すまんな。ラジオでも聴くか?」
と僕に聞くだけだった。あまり気が乗らなかったので、あいまいな返事をした。
ラジオからはゆっくりとした音楽が流れる。
(あ、この曲……)
聞き覚えがある。忘れもしない。それは依然本の虫だった僕の、唯一聞いていた曲だった。
この曲に、かつての僕はいつも励まされていた。とくに有名なわけでもなく、僕自身アーティストの名前や曲名も知らなかった。でもある日偶然出会ったこの曲は、歌詞が僕の心を写していた。まるで僕のために作られたのかというくらいだった。懐かしい。
その曲は4分半という短さで終わり、呆気なく次の曲に移った。雑誌も読み終えて退屈が戻った僕は、なんの気もなく外を眺めた。やっと道らしい道に出たらしく、といっても車が二台通れるかくらいの狭いコンクリート道路と、向こうにトンネルが見えるぐらいだった。そのトンネルの少し手前に道が分かれておりVの字になっている。僕はただ、景観の悪い道だな。と思った。しかし、何の面白味もない山道にそぐわないものが、ポツンと立っていた。
それは、自分と同い年くらいの少女だった。少女は道路を挟んだ反対側の脇道に立って、向こうを見つめていた。どこかで見覚えのある制服。黒く艶やかな髪。腰まであるような長い髪を三つ編みにしている。後姿だけだが、その落ち着いた佇まいは誰にでも清潔感を与えた。と同時に違和感を感じさせた。
なんでこんな中途半端な山道に立っている?
見つめる先には、横道の崖を覆っている草が生えているだけ。
なにか面白いものがあるわけでもない。
ぼくはぞくっとした。
父と母は意外と早く道が分かったらしく、シートベルトを着け始めた。父はすこし戻るとだけ言った。道路は緩やかだけど少し小高くなっていて、車はぶるんと力を入れた。反対車線に渡り、車は彼女とすれ違った。彼女は車が道路に入ろうとした音に気付いたらしく、ふっと、こちらの方を振り返った。
一瞬、速度が僕と彼女を置いていった。
それはほんの一瞬だった。胸の奥がどきり、とした。
途端に、気分の悪いもやが心に渦巻く。まるで恐い先生に怒られた時のような感覚。
彼女の目は確実に僕をとらえた。そして僕の心を見透かしているようだった。いや、実際には何も見ていないのかもしれない。目つきはギンと鋭く、何者も寄せ付けなかった。
表情はまるで鉄のようで、自分の心を読み取られまいとしているようだった。しかし、どこかで助けを求めているような感覚がした。その表情にはどこか見覚えがあった。
車はさっき来た道を戻り横にそれて、トンネルに入った。
息苦しさで胸がいっぱいの僕は思わず母に尋ねる。
「ねぇ、母さん。」
僕はちょっとオカルトな気分だった。
「え?」
「さっきの人、見た?ほら、黒髪の……」
「うーん」
母は一瞬考える素振りを見せ、僕に謝った。
「ごめんなさい。地図に夢中で気が付かなかったわ。」
父も同じようだった。僕はすっと鳥肌が立った。
僕の心のもやは晴れるどころか、質問したせいでさらに深くなった。
「あ、もうそろそろ道に抜けるわよ。」
僕は一刻も早く新鮮な空気が吸いたくて、窓を開け顔を外にぐっと出した。母が注意するのを余所に、自分はそのあまりにも鮮やかな景色に目を奪われた。
窓の外には、一面の田んぼに鮮やかな緑の山々が広がっていた。色は絵具で描かれているかのようにはっきりしている。父はこんな絵はがきありそうだな、と珍しくおどけて呟いた。僕は心の中で同意した。緑色の稲が気持ちよさそうに風を仰ぐ。僕も髪をなびかせる。ゆっくりとした車の速さと稲の揺れが心地よかった。
けれど心にはまだ、彼女が引っ掛かっていた。
あの目つき、あの表情。何も信じていないような、何も感じていないような、心が空っぽのようななんともいえない表情。彼女の存在全てが心に引っ掛かった。
なにより僕は、彼女の左頬の傷を見逃していなかった。