僕の小鳥、春になれば
あの頃は、それが永遠に続くと思っていた。
*
「花びらがついてるよ」
あたしが憂鬱な日曜日をやっつけた自分へのご褒美に、この町で一番立派な塀に登ることを決めたのは空があまりにもきれいだったから。
大きなお屋敷をぐるっと囲む、白い石でできた高い塀。とても子どもが登れる高さじゃない。
でもこの町の大人たちは空を見上げようともしないから、きっと気づいてない。
お屋敷の裏にあるカエデの木から、かんたんに塀の上に登れることを。
得意になったあたしは、灰色のワンピースの裾をひるがえして、上手にバランスをとって歩いていた。
あたたかくなってきた風が、大きく広げた両腕のあいだを通り抜ける。
シスター・セシルも、他の子どもたちも知らないんだ。
今日はこんなに良いお天気なのに。
人前じゃぜったいにしないハミングが、いまにも出そうになったとき、その声が隣から聞こえた。
「花びらがついてるよ。ほら、耳の隣、わかる?」
初めに目に飛び込んできたのは、白いベッド。白いシーツ。
大きく開いた窓にはためくカーテンは薄いブルーで、優しげに細まった瞳は深い緑色をしていた。
「……」
「あ、ごめんね。驚かせた?」
「………」
塀の上に立ったあたしの視線の少し下。
背中にいくつもクッションを入れて、上体をおこした膝の上には一冊の茶色い本がのっていた。
塀の向こう側、手を伸ばせばすぐ届く距離の部屋の窓辺に、君は寝ていた。
「あ、ねえ。頭こっちむけて」
普通に考えたら警戒して当たり前なんだけど、まさかお屋敷の人に見つかるなんて思ってなかったあたしは呆然とした。
「突然話しかけて、気味が悪いと思った?」
反応をかえなさいこちらを見て、不安げにつぶやくその声に、慌ててあたしは頭を傾ける。
すると安心したような吐息と共に、細くて白い指が、重さがまるでないみたいな軽い動きであたしの耳元にかるく触れた。
すぐに離れた指先には、花びらが一枚。
「そうか、もう春なんだね」
いつの間についたんだろう。あたしの髪にひっかかっていたらしい花びらは、ほんのりと淡い桃色に色付いていた。
桃色を大事そうに手のひらに包み込むと、雪解けの下の木の芽を見つけたときみたいな笑顔で、嬉しそうに、君は笑った。
*
「はい、終わりましたよ。この調子なら、来週からはお店に出ていただいても平気ですよ」
「いつもありがとうございます、先生」
粉屋の奥様は最近調子が良い。今年の冬は例年よりすこし暖かいから、その気候も効を奏しているのだろう。
最後に脈を取り、簡単な問診をする父さんの隣でわたしが使い終わった器具を片付けていると、それまで少し息をつめていた娘さんがほっとした声を出す。
「母さん、もう無理はだめよ」
「はいはい。もう歳ですものね、気をつけるわ」
「娘さんの処置も適切でしたよ。おかげで治りもすこぶる早い」
柔らかく、それでも咎める色を隠さない声をあげる粉屋の娘さん。
秋口に腰を痛めてお店に立てなくなってしまった奥様を、この何ヶ月もかいがいしく看護してくれている。
初めて奥様が倒れた日、いつも勝気で活き活きとしている娘さんが真っ青になってうちに駆け込んできた姿は、まだわたしの記憶のなかにも新しい。
「娘が母を見るのは当然です。でも、肝心の母が自分を大事にしてくれないと」
「あまりお母さんを責めないでね」
「先生も、もっと母にしかってくださらないと困ります。すぐに無理するんだから」
ぷん、とわざとらしくそっぽを向く粉屋の娘さんに、傍で聞いていたわたしは思わず苦笑を漏らしてしまう。
「あら笑ったわね。この子ったら」
「きゃあ」
大人気ない態度を取っていることに自覚があるのだろう、ほんのり赤い頬をごまかすように、粉屋の娘さんがわたしの両耳をきゅっとつまむ。
身をよじってそこから逃げようとするわたしと、追いかける娘さん。
そこに混じる、奥様と父さんのほがらかな笑い声。
しばらくその光景が続いた後、ふと一番最初に真面目な顔をしたのは娘さんだった。
「ねえ、聞いたわ。首都の学校の試験に受かったんだって?」
「そう、そう。とても大きくて立派なところなのでしょう。そこに入るのは、お医者様になる学校に入るのと同じくらいに難しいって」
奥様もぽん、と手を叩いて追従してくださるけれど、わたしはゆるゆると首をふる。
それにつられてするりと娘さんの手が耳から離れ、代わりに肩に乗った。
「たまたま運良く試験に通っただけです。入れても、卒業できるかはまた別なんです」
「あら。入れるって事は、出れると見込まれたからでしょう」
「ちがいますよ。実はけっこう、準備さえすれば入学するのは誰にでも出来るんです」
「この子は、妻や私が褒めてもこれなんですよ。奥様がたももっと言ってやってください」
父さんの呆れ交じりの声に、あらあ、と同時に奥様と娘さんが声をもらす。
「素直じゃないんだから。たまにはこっちが腹立つくらいに自慢しなさいな」
「そうよ。あなたは私たちから見ても立派でかしこい女の子なんだから」
「首都の学校を出た看護師だなんて、十分誇れるのよ」
「うれしいわ。自分達の町からそんな人が出るなんて」
よく似た二対の瞳に見つめられて、今度はわたしの頬が熱くなる。
ひどい、父さん。何も言わずに一人で頷いている。
娘を他人に褒めさせるなんて、とんだ親馬鹿なのわかってないのかしら。
「そんな、まだ入学もしていないのに」
「随分前から先生の手伝いもしてるじゃない、あたしたちからしてみればもうあんたは一人前の看護師よ」
「先生も、ほんと良い娘さんを持ったものねえ」
「まったくです。私には過ぎた子ですよ」
「父さんっ」
さすがに恥ずかしさが限界で情けない声をあげると、また室内は暖かな笑い声に満ちた。
*
最初は週に一度。それが四日に一度、三日に一度になって、そのうちあたしは毎日のようにフィリスのところに通うようになった。
「イーディアはいつもいきなり来るんだね」
人の考えてることなんて全部お見通しみたいな深い緑の瞳で、それでもフィリスはいつもあたしのことを突拍子もないもののように言う。
お屋敷の塀の上に腰をおろして、孤児院のお仕着せである灰色のワンピースからでた足をあたしは揺らす。
「やっぱり小鳥みたいだ」
「またそれ言う。窓辺に麦もまかないくせに」
「僕が来てほしい小鳥は、塀に落ちた麦は食べないからね」
「でもフィリスがあたしを例えてるのは、その本の鳥のことでしょ」
頷くかわりにフィリスは膝に視線をおとす。
白いシーツに包まれた膝の上には、今日も茶色い表紙の本がのっている。
何度も何度も繰り返し読まれたそれは、病気の男の子が、毎日窓辺に来る小鳥と友達になるお話。
フィリスのいっとう好きな本だ。
「あのねえ、あたしは鳥と違ってちゃあんとお喋りもするし、ご飯もきちんとフォークで食べるの」
「たしかに、小鳥には日曜日のミサも関係ないもんね」
「…あれからはきちんと出てるわよ」
この窓辺で初めてフィリスと出会った日、あたしは大嫌いなミサを抜け出していた最中だった。
ベットに寝たきりの男の子との童話めいた邂逅を終え、どこか夢見心地で孤児院に帰ったあたしはシスター・セシルにこってりしぼられた。
罰としての三日間の外出禁止よりも、抜け出しに失敗したあたしを馬鹿にする孤児院の連中を見るほうがくやしかった。
「でも、そのおかげで僕はイーディアに会えたんだよね」
フィリスの笑顔はとてもきれい。
あたしは神様なんて信じてないけれど、もし神様のお使いの天使ってのが本当に居るなら、それはフィリスみたいな顔をしているんじゃないかなって思う。フィリスの本に出てくる小鳥のような、真っ白な翼をもった天使。
「そうよ。だからミサをさぼった話はもうおしまい。あたしだって懲りたんだから」
塀の上に腰掛けるあたしと、ベットに背中をあずけるフィリス。
気軽にぶらぶら足を揺らすあたしは、フィリスの足がベッドから出たところをそういえば見たことがない。
「…イーディア」
意味深にシーツに包まれた足元を見つめていたあたしに気付いたからだろうか。フィリスが覗きこむようにしてこちらを見上げる。
「な、なに」
「口元、何かついてない?」
「えっ。今朝のオートミール?うそ。フィリス」
「嘘」
「は」
あわてて口を拭ったあたしを見て、フィリスはいたずらが成功した小さな子みたいに弾けるようにして笑いだした。
「だましたのね」
「今のイーディア、あはは、真っ赤だ」
「ばかっ」
「コマドリみたいになってるよ」
「誰のせいよっ」
おどすように腕を振りあげるけれど、フィリスを叩こうなんて気はあたしには毛頭ない。
だってもし本当に人を馬鹿にしているのなら、こんな明るい笑い声は出ないことをあたしは知ってるから。
だからフィリスも、ただ楽しそうに笑うだけ。
*
「先に帰っていてくれるかい?私はまだ寄るところがあるから」
さんざん粉屋の奥様がたに詰め寄られて、まだ恥ずかしさで熱い頬を冷ますようにさすっていると、往診を終えて砂利の敷かれた道を進んでいた父さんがこちらを振り向いた。
「…あのお屋敷へ?」
父さんがわたしを先に帰らせて寄る所といえば、そこしかない。
頷いた父さんはわたしにも一緒に行くかと問いかけた。
「母さんと待ってるね。…旦那様に、お大事にって」
わたしが返すのは、いつもの答え。そしていつものように父さんは少しだけ悲しそうに微笑んだあと、それまでわたしが抱えていた黒い医者鞄を受け取って、すっかり葉を落としたカエデの道を一人歩いていった。
外套に包まれた背中を見送ったあと、わたしは先に家路についた。
*
「早ければ来年。長くて五年後」
十分な幅があるのを利用してフィリスのお屋敷の塀に仰向けになったあたしは、右手だけ上げていち、に、さん、し、と指を折る。
ご、と数え終えると、どこか不安げなフィリスの声が窓の向こうから聞こえた。
「…話は、出てるの?」
「出るわけないじゃない。こんな問題児、喜んで引き受けるとこなんてないわよ」
投げやりに答えると、フィリスがあからさまにほっとしたのが気配でわかった。
「僕は、嫌だな。イーディアがここを離れるのは」
「フィリスだけよそんなこと言ってくれるの」
孤児院に居れるのも年齢に制限がある。来年にあたしが十を迎えたら、働く目的でも孤児院を出ることができる。
ただし、雇う側がいればの話で。
最終的には十五になったら孤児院の保護はなくなるので、職員として残るか奉公先をあっせんしてもらうかして自活を始めなければいけないのだけど。
「大丈夫よ。最近じゃ毎日外に出てるあたしをシスターも怒らなくなったし。どうせ院に居ても他の子と揉めごと起こすだけだから」
「…イーディア、ここに来ること、本当は駄目だったの?」
「だめじゃないよ。あたしが来たいんだから」
「………」
答えになってないとフィリスが呆れるのを無視して、あたしは続ける。
「最初もね、怒ったのはシスター・セシルだけ」
「シスター・セシルって、ミサをさぼったイーディアをしぼった人だ」
「嫌な覚えかたしないでよ」
他のシスターたちが、何ごとにも噛み付くあたしを敬遠する中。容赦なくあたしを捕まえお説教するシスター・セシル。
いつも無表情で、およそ神様に仕える聖女だなんて思えないけど。
それでも無視すればいいのにいちいちあたしを正そうとする態度には、なぜかうっとおしさや煩わしさは感じない。
でも、がみがみうるさいのはちょっといただけない。
「雇うためじゃなくて家族として君を引き取るために、必要なものはあるの?」
「よく知らないけど、収入のある大人で、引き受けたいって意思があれば十分なんじゃない?」
どうせあたしには関係ないし。そう言外にこめたその言葉に、なぜかフィリスはしばらく沈黙する。
その隣でゆっくりと空を流れる雲を見上げて時間をつぶしていると、はっと我に返ったフィリスの声に思考を引き戻された。
「そろそろ先生の来る時間だ」
先生。
フィリスのところを定期的に訪れるお医者さんのことだ。
一度この塀からお屋敷の門をくぐるところを見たことがある。
まだ若いのに落ち着いた感じの男の人。いつかフィリスが、首都から来た先生なんだよと教えてくれた。
「そっか。じゃあ今日は帰るね」
よいしょ、と軽く勢いをつけて起き上がると、フィリスも膝にのせていた本をぱたんと閉じた。
そしてこっちへ瞳をむける。
「なに、フィリス」
さよならを言うでもなくじっとあたしを見つめるフィリス。緑の瞳にこめられた意味がわからなくて、つい首をかしげる。
「小鳥はね、ただ木の実を食べるだけじゃなく、自分の食べた植物の種を遠く地へ運び、そこに新たな命を芽吹かせる役割も持ってるらしいんだけど」
こむずかしい、大人びた言葉遣いをしたフィリスの手が、あたしの頭にのばされる。
孤児院の連中にこんな喋りかたをする子は居ない。あたしを含めて、もっと粗野でがさつ。
まあ孤児院でちょっとでも利口ぶった喋りかたをすれば、はじかれたり気取り屋とののしられるのが関の山なんだけど。
フィリスが言うと何だか様になってるというか、ほんとに、この子は頭がいいんだろうなあって素直に思えるからふしぎだ。
「僕の小鳥も、何かにつけて色んなものを運んでくるね」
すぐに離れた指先にはみずみずしい葉っぱが一枚。
塀に登る時についたんだろう。カエデの葉だった。
「緑だね。夏の色だ」
「フィリスの目と同じね」
「秋になると君の色になる」
あたしの髪についていたカエデの葉をくるくると回しながら、フィリスは嬉しそうに微笑んだ。
それがやけにまぶしく見えて、あたしは思わず、どぎまぎしながら自分の赤毛を見下ろした。
灰色のワンピースに、赤い髪。孤児院ではみっともないとしか言われないから、いつも喧嘩の種になってたのに。
「フィリスぼっちゃん、入りますよ。そろそろ先生がお見えですから」
突然聞こえた声に、あたしは慌てて立ち上がる。
フィリスの世話をまかされてる使用人だ。きっと大人たちはあたしとフィリスのことを歓迎しない。
だから他人の気配を感じるとすぐに、あたしはフィリスの傍を離れることにしている。
まるで警戒心のつよい小鳥みたいに。
「少し待って。…イーディア」
扉の向こうにやや強く言い放ってから、フィリスは身をひるがえそうとするあたしを申し訳なさそうに見上げる。
「ごめん。慌てさせて。僕が引き止めた」
「いいよ、…また来ていい?」
「もちろん。待ってる」
少しだけ伺うようにして問いかけると、きっぱりと頷かれた。
思わずあたしも大きく笑う。そして、じゃあねとひらり、手を振った。
塀を降りるためにカエデの木に向かう途中、お屋敷の扉のベルを鳴らす男の人が見えた。
涼しそうなシャツの背中にあたしが気付いたのと同時、よりによって、何かにつられたように男の人はこっちを振り向いた。
黒い医者鞄を手にしたその人と、塀の上に立つあたし。
見つかるなんて思っていなかったあたしはもちろん死ぬほどびっくりしてぴたりと動きを止めてしまったし、男の人だって軽く目を見開いた。
(先生だ)
まずい、と思わずあたしが固まったのは一瞬だった。
なんと驚いたことに、その男の人――フィリスの先生は、次の瞬間くすりと微笑んだのだ。
「お行き」
囁くかのように、ちいさく呟いたのが口の動きでわかった。
そして入れ違いに、玄関を開けようとする使用人が、ぱたぱたと廊下を走る音が聞こえた。
その音に今度こそ、あたしは迷いなく身をひるがえす。
(どうしよう、ばれた。ばれた)
どきどきと心臓がはねる。先生の笑顔の理由がわからなかったけれど、大人にばれたんだという事実は、雷のようにはっきりとあたしの体を貫いた。
人手の少ない薄暗い道を選んで孤児院にかけ戻りながら、あたしの頭の中は同じ言葉がずっと回り続けていた。
もう、フィリスのところに行かれないかもしれない。
*
「ただいま母さん。良い匂いね」
「あらおかえりなさい、早かったのね。父さんは?」
家の扉をくぐると、釜に薪を足していたらしい母さんがわたしを振り向いた。
からだが柔らかくほぐれていくような暖かさに包まれながら、室内に入ったわたしは羽織っていた上着を壁にかける。
「お屋敷に往診だって」
「……そう」
「粉屋の奥様、もうお店に立てそうよ」
ふっと翳りを見せる瞳に向かって、わたしは明るい声を出す。
手伝うねとエプロンを手に取ると、母さんは当たり前のようにわたしの後ろに回って紐を結わえてくれる。
それって、本当は自分じゃ紐を結べない小さな子にすることなのだけれど、このくすぐったさが心地よくてわたしは大きくなった今でもされるがままになっている。
「それは嬉しいわ。いつごろ?粉を買いにいかなきゃね」
「来週にはって、父さんが」
「じゃあ来週は久しぶりにパイでも焼こうかしら」
背後の母さんは、わざとわたしに合わすように優しい声を出してくれる。
はい出来た、そう言ってぽんとわたしの腰を叩く。
「ありがとう、母さん」
わたしにくれる優しさ全部に。
そう込めてお礼を言うと、母さんは少し小首をかしげるようにして、いつまでも変わらない少女のような笑顔をみせた。
*
先生にばれた。
次の日これ以上ないほど慎重にびくびくとお屋敷に向かったあたしは、いつもどおり笑顔で迎えてくれたフィリスにあっけにとられた。
「どうしたの?イーディア。ぼんやりして」
「な、なんでもない。お昼に食べたスープが変な味だったから、それ思い出してたの」
お屋敷の窓辺はいつものように静かで、町行く大人も誰もあたしたちを見ようとしない。
変にフィリスを刺激したくないあたしは、あながち嘘でもない言い訳でごまかした。
孤児院のご飯の不味さをさんざんあたしから吹き込まれてるフィリスも、ああそうとすぐ納得してくれる。
(…先生、何も言わなかったんだ)
くすりと微笑んだ男の人。
首都から来た人は、普通の大人とはどこか違うのだろうか。
「ゆるして、もらえたのかな」
フィリスの傍にいること。先生には。
からりと晴れた空を見上げてつぶやくあたしの声は、隣でいつもの茶色い本を読むフィリスには聞こえてないみたいだった。
自分の手をひさしのように掲げながら、窓辺のフィリスにあたしは喋りかける。
「ねえフィリス」
「なに?」
「夏だね」
「うん。夏だね」
「いい天気だね」
「うん」
「ねえフィリス」
「うん?」
「ほんとにいい天気だね」
「そうだけど…どうしたの?スープ、当たった?」
「違いますー。フィリスのばか」
「ええ。ひどいやイーディア」
「あはは、ばーか」
本から顔をあげたフィリスは、身を乗り出すようにしてあたしに顔を向ける。
嬉しさの照れ隠しに笑いながらばーかばーかと繰り返すあたしに、最初は戸惑いと呆れを浮かべていたフィリスも、そのうちつられたように意味もなく笑い出した。
「イーディア」
「え?」
途中、笑いすぎて涙の浮かんだ目じりをぬぐうあたしの名前を、フィリスがふと呼んだ。
「小鳥が春に向かうところを、僕は見つけたよ」
「なにそれ」
「きっとそのうちにわかるよ」
へんなことを呟くフィリス。
でも相変わらずきれいな笑顔だから、まあいっかとあたしは思った。
そうして平和な夏が終わり、お仕着せのワンピースが綿から毛織のものにかわると同時に、だんだんフィリスの窓はしまりがちになった。この町は、春と夏は過ごしやすいかわりに秋になると時たま強い風が吹く。
あたしは風邪も引いたことないけど、フィリスはこのごろ咳が目立つ。
*
「旦那様がね、会いたいと仰っておられるんだ」
「…わたしに?」
「あの子が最後まで求めた女の子に、自分も会いたいと」
「……うん」
その日の夕食、いつもより少し遅い時間に帰ってきた父さんは、どこか重い口調で切り出した。
給仕の手を止めた母さんが、不安げな瞳をわたしと父さんに向けてくる。
「もちろん無理にとは言わない。ただ、春になるまでにもし気が向いたなら」
「いいよ」
スプーンを運ぶ手を止めて、わたしは真っ直ぐ父さんと母さんを見つめた。
「会いに行きますと、伝えて」
*
フィリスは痩せた。そのうちシーツと見分けがつかなくなってしまうんじゃないかと思うほど、最近は肌も透けるように白い。
日中も窓は完全に閉められて、あたしが窓辺にいくときだけ、細く細く開けて会話をする。
「それでね、今日シスター・セシルが…」
「なんだかんだ言って、シスター・セシルはイーディアのことを気にしてるんだよ」
「そうかなあ」
「そうだよ。じゃないと…、っ」
「フィリスっ」
話している途中でフィリスが咳き込むと、あたしはおろおろしながらも素早く塀の傍に生えたカエデの木の陰に隠れる。
咳を合図に、隣の部屋に控えている使用人が来るからだ。
苦しそうなときこそ隣に居たいのに、ままならない自分の存在がくやしい。
「フィリスぼっちゃん、本をよけますよ」
今日も膝にのせられていた本を、薬を塗るのに邪魔だとか言って使用人は取り上げる。
フィリスの大事な本が遠くにやられる度にあたしはひどく辛くなる。まるであたしのことまで、遠くにやってしまうみたいに見えるから。
咳き込み続けるフィリスを見るのはもっと辛いから、仕方ないんだと自分に言い聞かせる。
「先生を呼びましょうか」
「……いい、今回のはそこまでひどいのじゃないよ」
喉元に咳をしずめる薬を塗り終わり、気遣わしげな顔で覗き込んでくる使用人にフィリスは穏やかに答える。
「フィリスぼっちゃん」
「大丈夫。自分のことは自分が一番わかっているから」
木の幹越しに、じっと見つめるあたしに気づいたフィリスは微笑んでくる。
白い喉を上下させながらも、へいきだよって。
あたしの気持ちを吹き飛ばすみたいに。
「もういいよ、下がってくれてかまわない」
「……何かあれば、すぐに呼んでくださいよ」
「うん。ありがとう」
しぶしぶ出て行く使用人と入れ替わりに、あたしはすぐ木の陰から飛び出しフィリスに駆け寄った。
「ごめんイーディア、びっくりさせたね」
「…ううん、ううん」
一度咳が起こると、その日はもうあたしたちはあまり喋らない。
ただじっと、塀の上とベッドの上で、お互いを確かめるみたいにして見つめあう。
「ここに居るね」
呼びかけるあたしの声に、フィリスは微笑んだ。
それでも突発的に起こる咳にフィリスの体力は確実に奪われていった。
雪がちらつき始める頃にはほとんど入れ替わりたちかわり、使用人やフィリスの両親らしき人がいつも部屋にいるようになって、あたしはフィリスにあまり会えなくなった。
ガラス越しに会話を交わせるのも、ほんのたまに誰もが席をはずす一瞬だけ。
それでも出来るだけあたしはフィリスの傍にいった。
フィリスの読む本の中の小鳥みたいに、彼の傍に寄り添った。
「僕、イーディアにみっともないところばかり見せてるね」
もう雪解けがはじまる頃、枕元に置く水盆の水を替えに、使用人が席を立った時のことだった。
すかさず近寄るあたしに向けて、フィリスは悲しそうにつぶやいた。
「そんなことない」
ぶんぶんと赤毛を揺らして首を振るあたしを、フィリスは手招く。
窓を開けてとうながされるけど、まだ寒い初春の風がこれ以上フィリスの体力を奪うのを恐れるあたしはのばした手をどうしても窓枠にかけれなかった。
それにじれたのか、フィリスはこちらが驚くほどの素早さで、自ら窓を開けた。
「フィリス」
「…イーディア、もう少しで、春が来るよ。僕の予想は間違ってなかった」
無理して動いちゃ駄目だよと、思わず慌てた声をあげるあたしにかぶせるように、指先をフィリスはまるで初めて会ったときみたいに動かして、赤毛からのぞく耳元に軽く触れた。
近頃じゃほとんど動かすことのなかった手なのに、しごく自然に、まるで水の上をすべるようにあたしに触れてきた。
「イーディア」
しばらくして離れたその指先には何もなかったけど、フィリスのぬくもりはあたしの頬にはっきりと残った。
「すこしだけ、辛抱だよ」
額には熱による汗が浮かんでいたけれど、緑の瞳はびっくりするほど澄んでいた。
今となってはもう、はるか昔のことのように思える夏の日に見た、カエデの葉みたいな瞳だった。
「イーディア、僕の小鳥」
また来るから。そう告げたあたしの声は、みっともなくしゃがれてた。
きっとフィリスもわかってて、それでも笑ってくれた。
だってフィリスの窓が開くことは、二度となかった。
*
それから一週間後、わたしは初めてお屋敷の門をくぐった。
ベルを鳴らし扉が開くのを待っていると、ぱたぱたと懐かしい音が近づいてくる。
「いらっしゃいませ、先生、お嬢さま」
顔を見せた女中さんが、父さんとわたしに丁寧なお辞儀をしてくれる。
それに返しながら、この人もずいぶんとしわが増えたんだな、とわたしはどこか遠くで思う。
通された部屋は二階で、窓を開けるとすぐ塀がせまるその光景に、わたしはまず息をのんだ。
そして窓に寄り添うように置かれた空のベッドに。
「はじめまして」
声をかけられるまで気付かなかった。ベッドの隣に置かれた揺り椅子に、男の人が腰掛けていたことに。
「旦那様だよ」
父さんの声に促されて、わたしは初めてその人に顔を向けた。
まだ呆然としているわたしの顔を、旦那様はゆっくりと見上げている。
「あなたは、私の顔を見たことがあるかな」
とっさに言葉が出てこなくて、ただ首を上下させてはいと答えるわたしの態度に、旦那様は失礼だと眉をひそめることなく満足げに頷いてくださった。
「そうか。そうか」
風が冷たくなるころから、君の手を握って優しく声をかけている姿を何度も見た。
あの頃浮かんでいたすがるような焦燥も悲しみの光も今はすっかり抜け落ちて、ただ懐かしさと深い哀愁がその瞳にはたたえられている。
「あなたのことを、あの子は最後まで屋敷のものには隠していた」
わたしを見つめる瞳をふと細め、旦那様は静かに思い出すように窓の外へと顔を向けた。
空のベッド。誰も居ない塀の上。
目にしたら、きっと心がつぶれると思っていた。でも、ふしぎと平気だ。
「自分の身体も身の回りのことも、何一つ自由に出来なかったあの子が唯一持てた秘密の宝物が、あなただった」
「…わたしにとっての宝物も、彼でした」
今度は、するりと喉から声が出た。
着るものも食べるものも、全部与えられるものしか持たなかったあの頃のわたしが、ひとつだけ手にしたもの。
「先生から、首都に出て看護師になる勉強をすると聞いた。もしかして、あの子のことが影響しているのかい?」
「はい」
父さんについて仕事を見ているうちに、自然と手伝うようになり、この道を考えようという気になったというのがきっと一番正しい。
でもいつも心の中に、救いたかったのに叶わなかった人が居ることも本当だ。
「わたしの人生は、ここで変わりました」
あの春の日、出会わなければ今ここにわたしは居ない。
出会わなければ、君がわたしを見つけてくれなければ。
「本当なら、もっと早くにここへ来るべきだとはわかっていたんです。でも、勇気が出なくて」
来て、もう居ないことがわかれば、本当に失ってしまったことを実感してしまうから。
目を伏せるわたしに、揺り椅子から立ち上がった旦那様が杖をついてゆっくりと近づいてくる。
それを支えるように父さんが立つ。
わたしの腕にやさしく触れてくださる旦那様につられるように、わたしは顔を上げた。
なぜ心がこんなにも穏やかなのか、その時やっとわかった。
わたしを見つめる緑の瞳。
その向こうに確かに映る姿がある。
「あの子と、仲良くしてくれてありがとう」
「…ありがとうございました。彼に出会わせてくださって。父に出会わせてくださって」
「……あなたが選んだ道を、私はいつまでも応援しているよ。会いにきてくれて、ありがとう」
旦那様は瞳を細めた。その色は、わたしの記憶を呼び覚ます。
深い緑色。白いシーツ。薄いブルーのカーテン。茶色い本。
そしてわたしを呼ぶ声を。
*
「イーディア、あなたの次の家が見つかりました」
真っ暗な部屋で膝を抱えていたあたしに向かって、扉への三回のノックと同時にシスター・セシルはいつもの口調で言った。
その声があまりにも普段どおりで、他のシスターや子どもたちが見せるような、へんな同情もあわれみも好奇心の影も無くて、あたしは思わず涙もひっこんで返事をしてしまった。
「はい」
でも喉から出たのは自分でもびっくりするぐらいかすれた声で、そのとき初めて、ずいぶん長い間誰とも喋ってなかったことに気づいた。
シスター・セシルはあたしのひどい声にもぴくりともしないで、ただ静かに、おいでなさい、と促した。
のろのろと座っていたベッドから立ち上がると、灰色のワンピースには大きくしわがよっていた。
「お待たせいたしました」
よく面会所に使われる部屋で、その人は待っていた。
現れたあたしに気づくと、それまで座ってた椅子から立ち上がって、こちらへ近づいてきた。
まだぼんやりとするあたしに視線を合わせるようにして、その人はかがんだ。
あたしのまなじりや頬にはっきりと残る涙の後を見て、悲しげに眉根を寄せていたのを覚えている。
「お久しぶりだね。私を、覚えている?」
あ。
それでやっと気付いた。
あの夏の日。あたしに微笑みを向けてくれた人。
「フィリス、の」
先生。
あとはもうかすれて出なかったけど、先生は答える代わりに優しく微笑んでくれた。
「この方が、あなたを引き取りたいと仰って下さったのですよ、イーディア」
「どう、して」
「ある夏の日にね、あの子が私に言ったんだ。…先生、誰にも言ってない、困ったことがあるんだ、って」
先生はあたしを見上げるように膝をついて、なつかしさをにじませた声で話しだした。
ああ、この笑顔だった。
ゆるされたと思った笑顔。
「僕の秘密の宝物が、春に向かうところを見つけられないでいる。先生、僕が居なくなったら、先生はその場所になってくれる?」
―――小鳥が春に向かうところを、僕は見つけたよ
あの日のおかしなフィリスの言葉。
言葉の意味が、やっとわかった。
「あの子の秘密の宝物を、今度は私たちの宝物にしたい。この場所は、君にはすこし、悲しすぎるかもしれないから」
―――…イーディア、もう少しで、春が来るよ。僕の予想は間違ってなかった
最後のフィリスの言葉も。
このことを、言ってくれていたんだ。
「君が嫌でなければ、私たちの家に来ないかい?」
何度も頷くあたしの動きにあわせたように、また涙があふれてきた。
涙は落ちて、灰色のワンピースに新しいしみをつくる。
つくると思った。
でも、涙は落ちる前に、先生のあたたかい指先でぬぐわれた。
「行こう、イーディア」
隣を歩く先生が、あたしが抱える軽いトランクを胸元から取り上げた。
そして、空いた右手であたしの左手を自然に引いた。
大きくて、あたたかな乾いた手のひら。
あたしの骨ばった手をそっと包んで、これからもずっとこうしようねと確かめるかのように、ゆっくりと揺らされた。
「幸せに」
最後に一言、背中にシスター・セシルの声がかけられた。
初めて聞く柔らかな声。
振り向かなくてもわかった。今のシスター・セシルは慈愛に満ちた、聖女の顔をしているのだと。
孤児院の灰色の門をくぐる時、ふと目の前を花びらが横切った。
つられるようにして振り仰ぐと、門の上の木には、ほんのりと淡い桃色の花がひとつ、ふたつとほころんでいた。
あの春の日に、あたしの頭についていたのはこの花だったんだ。
―――そうか、
耳によみがえる声の続きは、自然とあたしの口からこぼれた。
「もう春なんだね」
小さな小さなあたしの声に気付いた先生は、同じようにして門を見上げた。
そして答えてくれた。
「そうだね、もう春だ」
*
あれから父さんとわたしはいくつもいくつも同じ季節をすごして、今ではわたし達を本当の親子だと思っている人もこの町に居るくらいだ。
父さんにはとても仲のよい奥さんがいて、その人はわたしの母さんになってくれた。
子どものいない二人は、まるでわたしを本当の娘のように愛し、育ててくれている。
今のわたしは父さんの診察についていって、見習いの毎日。
首都の看護学校に入るための試験があったのはすこし前で、あとひとつ季節が巡って春になれば、わたしは生まれて初めてこの町を出ることになる。
「おやすみ、イーディア」
「父さん、母さん、おやすみなさい」
「ええおやすみ。よい夢を、イーディア」
旦那様との面会を終わらせて帰ってきたわたしと父さんを出迎えたのは、また少しだけ心配そうな顔をした母さんと、お手製のミートパイ。
面会がとてもうまくいったこと、これからはいつでもおいでと旦那様は言ってくださって、わたしもそのつもりだと思っていることを告げると、母さんはやっといつもの少女みたいな笑顔を見せてくれた。
今年初めての雪がちらつくのを眺めながら、三人で診察器具の片づけと簡単な薬の調合を終わらせて、わたしは部屋に戻る。
母さんが暖めてくれていた部屋に入りランプに灯をともすと、本棚に手をのばす。
すこし擦り切れた茶色の表紙の本を取り出して、膝にのせると静かに頁をめくる。
初めて二階のこの部屋に通されたとき、真っ先に飛び込んできたのがこの本だった。
思い出にね、頂いたんだ。
父さんは本にしがみついて離れないわたしに、そっと教えてくれた。
それからは、一人で繰り返し読んだ。
たやすくそらんじてしまえるようになった今でも、一字一字をたしかめるように読んでしまう癖はぬけないでいる。
『あるところに、一人の男の子が居ました。男の子は病気で、ずっと寝たきりでした。』
大きな街にある病院に移らないか。
その話が出るたびに、拒み続けていたのは他でもないフィリスだったと後から知った。
どこかで気付いていたのだろう。そんなことをしても変わらないことに。
春が来るまでは、ここに居させて。
十を迎えたばかりの少年の真摯な訴えに、大人たちは、結局は何も言えなかったという。
『男の子は、毎日窓辺に降り立つ小鳥の名前を、何度も何度も呼ぶのです。』
イーディア、
『それは、きょうだいを呼ぶ声でもあり、』
イーディア、
『友人を呼ぶ声でもあり、』
イーディア、
『恋人を呼ぶ声のようでもありました。』
イーディア、
イーディア、もう少しで、春が来るよ。
物語は、死んでしまった男の子と、その魂を胸に抱くようにして春を迎え飛び立つ小鳥の描写で終わる。
わたしは語り終えた物語の茶色い表紙を、ゆっくりとなでる。
そして瞳を閉じた。そうすれば、いつでもあの頃に戻れるから。
フィリス。君がわたしを呼ぶ声が、わたしは一番好きだった。
あたたかくて、それでもせつない、わたしの思い出。
あの頃は、それが永遠に続くと思っていた。
ねえフィリス。
春がくれば、君の思い出と一緒に、またひとつ、新しい世界へいこうね。