鮫島ホームズは「憂鬱」と言いたいだけ
【1】
私は、お爺ちゃんの淹れるコーヒーが大好きだ。
味はいたって普通だけど、それでもお爺ちゃんの気持ちがたっぷりこもっている。
「壱華、今日のコーヒーはどうだい? 美味しいかい?」
お爺ちゃん――岸辺和田蔵は私の隣にそっと腰掛けて、問いかける。
今の時間は、お客さんが少ない。
でも別に、人気が無いワケではない。
コアな常連客がここ『ベイカーズ』を支えてくれている。
「うーん、普通かな」
「ハハハ、そうか普通か」
正直、私にコーヒーの味はよく分からない。ただ苦いだけだ。
それでもリピートするお客さんが多いのは、きっとお爺ちゃんの人がいいからだろう。
マスターである以前に、お爺ちゃんは下町の好々爺としても有名なのだ。
苦学生には「出世払い」と称してツケを許し、疲れ果てたサラリーマンには300円引きのサービス。
時には近くの公園の炊き出しに参加して、家のない人たちにコーヒーを提供している。
極め付けは、この喫茶店の二階に住む――憂鬱な居候を住まわせていることだろう。
「はぁ……あれ、もう午後か?」
噂をすれば降りてきた。
少し長めの黒髪をガリガリと掻きながら、居候――鮫島利家は大きく欠伸をする。
「にしても今日は雨か。憂鬱だ」
「それ、メランコリーって言いたいだけでしょ?」
「ああそうだ。言いたいだけ」
言いながら、利家はポケットからタバコとライターを取り出す。
俺の唯一の相棒だという、ピースライトだ。
彼がここに住み着いたのは、私がまだ中学一年生の時だった。
なんでも彼の父親がお爺ちゃんとの知り合いで、一度その父親に助けられた恩があるとかなんとか。
見ての通り性格はネガティブで憂鬱気味。そして「憂鬱」が口癖。
でもこれだけは言える。彼はああ見えても、人情深くて優しい男だ。
実際、私も一度彼に助けられたことがあるが、それはまた別の機会に振り返ろうと思う。
「じゃあ、マスター。俺ちょっと外でタバコ吸ってくるから」
「ああ、気を付けて」
それだけ言葉を交すと、利家はふらふらとした足取りで裏口へと向かう。
毎日、寝起き一番にタバコを吸うのが彼の日課らしい。
高校生の私には、何がいいのか分からないけれど。
「あ、そうだ」
ふと、わざとらしく声を上げ、利家が振り返った。
「木曜なら、多分今日は例の迷惑ジジイが来るぞ」
それだけ忠告して、改めて裏口から出て行った。
それを聞いて、私とお爺ちゃんは互いに目を合わせて、苦笑を浮かべた。
迷惑ジジイとは、ここの常連の一人で、下町で知らない人はいない。もちろん悪い意味で。
公園で遊ぶ子供や犬の散歩中の主婦には「うるさい」と怒鳴り、町内会に文句を言う。
ゴミ出しの日には朝から監視を続け、区役所にクレームを入れることもしばしば。
そして彼は、二日に一回ウチに来て、いつものエスプレッソをお供に新聞を読む。
――カランカラン。
「ったく、ここも相変わらずしみったれてんなあ」
噂をすればなんとやら。件の迷惑ジジイがやって来た。
相変わらず表情は不機嫌そうで、カウンターに持参した新聞を叩き付けると、我が物顔で椅子にふんぞり返る。
「いらっしゃいませ。ご注文――」
「いつもの。ったく、ワシが来たらさっさと出さんかい」
「はいはい。いつものエスプレッソですね」
「早くしろ。遅かったら、金は払わんぞ」
なんという傍若無人っぷり。見ているだけで腹が立つ。
でもこれはまだ序の口にすぎない。
「はい、エスプレッソでございます。冷めないうちに――」
お爺ちゃんがコーヒーカップを置くと同時に、迷惑ジジイは「ハンッ」と鼻を鳴らしてカップを奪い取る。
そうして一口飲んで、
「不味い」
という。来る日も来る日も、まるでそう言うことが日課かのようにぼやく。
「はは、それは残念」
お爺ちゃんも少しは強く言えばいいのに、ただヘラヘラと笑っている。
私としては、このお店に人が来ないのはこのジジイのせいだと思っている。
だってそうでしょう? コーヒーを嗜んでいる横で「不味い」だなんだと言われたら、こっちのコーヒーまで不味くなってくる。
私だったら、問答無用で出禁にしてやるところだ。
なんなら私が代わりに言ってやろうかと思う。
『文句があるなら他の喫茶店に行け、クソジジイ』と。
でも言ったら言ったで、このジジイが何をするか分からないから、言う勇気は未だに湧かない。
――けれど、私はそんなお人好しなお爺ちゃんが営むこの『ベイカーズ』が大好きだ。
迷惑ジジイがいても、憂鬱な居候がいても、それでもこの場所が好きでいられる。
でも、この時の私はまだ知らなかった。
この迷惑ジジイが……。
遺体として発見されるだなんて。
【2】
違和感を覚えたのは、あれから三週間ほど経った頃だった。
いつも二日に一回やって来るはずの迷惑ジジイが、突然来なくなった。
「……今日も来ないね、壱華」
お爺ちゃんは言いながら、客のいないカウンター席でエスプレッソを飲む。
ジジイがいつも急かすから、来る直前に淹れるようになったのだ。
でも当のジジイが来ないので、代わりにお爺ちゃんが冷めたエスプレッソを飲む羽目になる。
「にしてもあれから、全然来なくなったよね」
「やっぱり、彼の口に合わなかったのかな」
「多分、あれこれ文句を付けたかっただけじゃない?」
何であれ、私としてはとても清々していた。
さしずめクレームを付けるのに飽きて、別の喫茶店に浮気をしているとか。
どうせ飲んでも「不味い」としか言わないんだから。
二度と来るなってんだ、クソジジイ。
――と心の中で悪態を吐いていると、ドアベルが静かな音色を奏でた。
「げっ、噂をしたら――」
迷惑ジジイが帰ってきた。
と思いきや、入店したのは利家だった。
手にタバコの箱を持ったまま、表情だけが張り詰めていた。
「利家君? ど、どうしたんだい?」
老人の勘だろう。只事じゃないと気付いたお爺ちゃんが立ち上がった。
「マスター。それと壱華も。落ち着いて聞いてくれ」
「何? 勿体ぶらずに言って」
先を急かすと、利家は深く深呼吸をして、ゆっくりと口を開いた。
「例の爺さん――猪熊正三が死んだ」
***
利家に連れられて向かったのは、迷惑ジジイ――猪熊正三の家の前だった。
家には既に規制線が張られ、周りでは鑑識の服を着た大人や刑事たちが右往左往している。
凄惨な現場だったのだろう。中には茂みに跪いて嗚咽を漏らす若い鑑識もいた。
いつ見ても慣れないものだ。
黄色いテープも、鑑識たちも。まるでドラマの撮影をしているようにしか見えない。
現実味がなくて、今も迷惑ジジイが死んだという実感が沸かない。
そんな中、利家はパトカーの無線で叫んでいる小太りな警部に近付いていく。
警部の鬼のような形相が、利家を睨む。
だが彼の顔を見るなり、その表情がふと柔らかくなった。
「おお、利家君じゃないか。よく来てくれた」
「いえ。今回はちょっとした野次馬っすよ」
何を隠そう、利家はこの警部と知り合いなのだ。
たしか名前は「呉々惣四郎」。利家の父の後輩だったらしく、彼もまたベイカーズの常連の一人。
「……それで、仏の状況はどうだったんすか?」
利家が訊くと、警部は熊のような手で目元を覆いながら口を開いた。
「腐っていたよ。死亡推定時刻は特定されていないが……死んでから二週間は経っているそうだ」
二週間? その間、誰にも死んだことを知られなかったってこと?
素人の私でも分かる。冷やさずに二週間も遺体を放置したらどうなるか……。
想像しただけで吐きそうになる。私は思わず嗚咽を漏らした。
「となると、やっぱり異臭騒ぎで通報があった、という感じすか?」
「ああそうだ。近隣住民からの通報があってな。仏の評判もあって、担当の刑事も最初は相手にしようとしなかったが……」
「仕方なく急行したら、死んでいた、と」
その通りだ。警部は顔を縦に振り、大きく溜息を吐いた。
「どうかしました?」
「今、捜査一課の連中が聞き込みをしているんだが、どうも仏が相当な嫌われ者らしくてな」
「それはそれは。例えばどんなことが?」
「なんと言えばいいのか。やれ『やっと死んだか』、『ざまあない』、『誰かが殺してくれたのか?』と……」
気持ちは分からなくもないけど、そこまで言われるのか。
相当恨みを買っているとはいえ、仮にも死人が出たというのに……。
悶々としていると、利家はうーんと唸って顎を掻いた。
「なるほど。となると、住宅街の住民の誰かが犯人だと?」
「そうと決まったワケじゃないが、これは難航しそうだ」
また溜息を吐いた。利家は同情するように頷き、その場を後にした。
ポケットからタバコを取り出して、後ろを振り返ってそれをしまう。
「利家、どうだった?」
「そうだな。簡単に言えばこの事件、相当憂鬱だ」
「またそう言って。だからメランコリーって言いたいだけでしょ?」
「それもあるが……今回は特に憂鬱になりそうだ」
そう言って歩き出した利家の後ろ姿は、やっぱりどこか憂鬱そうだった。
【3】
ベイカーズに戻ると、利家は早速カウンター席に座った。
「マスター、ミルクティーを一杯」
ちなみに利家は生粋の甘党で、いつも決まって甘いものばかり頼む。
利家曰く「頭を使うとすぐに糖分が切れる」とのこと。
足りなくなるのは、タバコだと思うけれど。
彼は朝に一本、夜に一本。たまに夜なべで作業をしている時に、一本。
大体三本くらい吸う。これも利家曰く「俺は自省できるヤニカスだからな」だという。
「それで、正三さんはどうだったんだい?」
ティーカップを置きながら、お爺ちゃんは恐る恐る訊ねた。
利家はミルクティーをフーフーと冷ましつつ、上目遣いにお爺ちゃんを一瞥する。
「……状況は後で話すが、やっぱり殺された線が強いかもな」
「殺され……」
一瞬、お爺ちゃんが動揺して目を白黒させた。
だがすぐに頭を振って、平静を保つ。
殺されたことは薄々気付いていたんだろう。でも確信に変わったら、誰だって動揺する。
「それで、マスター」
「何かな?」
「確か仏――猪熊って爺さんはいつもこの店に来てたんだろ?」
「ええ。来ていたわ」
お爺ちゃんに代わって、私が頷いた。
「その時の爺さんの状況について、ちょっと思い出してみてほしい」
「おお、始まったね。利家君の推理」
「壱華とマスターなら、あの爺さんと会う時間が多いからな」
静かに言って、利家はミルクティーを飲む。
……迷惑ジジイのことか。
私はお爺ちゃんと顔を合わせると、二人でこれまでのことを振り返った。
「たしか、あの人が最後に来たのは、ちょうど二週間前だったわ」
「二週間前。となると、その後に殺されたのかな」
「あとそうだな。その日はとても機嫌が悪くて、壱華にも当たり散らしそうだったから、店から出したんだ」
と、お爺ちゃんは言う。
お爺ちゃんの言う通り、その日の迷惑ジジイは非常におかんむりという感じだった。
顔を真っ赤にして、というのは誇張しすぎかもしれないけど、本当にそんな感じだった。
ブツブツと文句は言うわ、カウンターを殴るわ、もうカンカン。
さすがのお爺ちゃんも見かねて、その日は特別にお小遣いを握らされた。
「そうそう。お爺ちゃんからお小遣いを貰って、ちょうど近くの落語の寄席に行って来たわ」
「じゃあ、壱華から聞き出せそうなのはここまでか」
露骨に残念そうな顔をして言った。
なんて失礼な男だ。
「まあその後だが、ちょっと一悶着あってねえ」
「やっぱり、問題を起こしたり?」
「問題ってほどじゃあないけど、少しキツく当たられたかな」
言葉は濁しているけど、多分あのジジイに罵詈雑言を浴びせられたに違いない。
そう思うと、やっぱり許せなくなってくる。
だからって、殺してやろうとは一ミリも思わないけれど。
「なるほど。それで、彼はどうしてそんなにキレ散らかしていたんだ?」
その質問に、私とお爺ちゃんは首を傾げた。
というのも、やけに不機嫌だったことが衝撃的で、それ以上のことに目がいかなかった。
というか、二週間も前のことなんて曖昧でほとんど忘れている。
その時食べたご飯のことも、時間割がどうだったか、その日見た動画のことも、天気のことも――。
――あれ? 天気?
「あ!」
「何だ騒々しい。急に大声を出すな」
「ご、ごめん……でもちょっと思い出したかも」
まさに雷が落ちたような衝撃が走った。
その瞬間、ぼんやりとしていた二週間前の記憶に色が付け足されていく。
「お爺ちゃん、確か二週間前の今日って、大雨じゃなかった?」
「うーん? ああ、そういえば東京で記録的な大雨が降ったって」
お爺ちゃんの記憶とも合致した。
ここで私はスマホを召喚して、二週間前のニュースを開く。
結果は……ビンゴ!
『2025年6月1日 東京で記録的な豪雨。過去最大級か』
台風の影響か何なのか、とにかくその日は深夜からの大雨で酷い天気だった。
さらに記憶が蘇って来る。
風が強くてビニール傘が壊れたこと。途中のコンビニで買った傘がまた壊れたこと。
帰りはちょっとだけ風が収った……とはいっても、事件とは何も関係ないけれど。
「……そうか、大雨か。大雨ねえ」
だが、結局利家はピンと来たワケでもなく、また静かにミルクティーを飲み干すだけだった。
【4】
翌日。利家が帰ってきた頃には既に夕陽が沈みかけていた。
お爺ちゃんに聞いたら、呉々警部から連絡があって、現場を見に行ったらしい。
「おかえり利家君、お疲れ様」
そう言いながらお爺ちゃんはミルクティーを置く。
その代金を支払うように、利家は複数枚の写真をカウンターに広げて見せた。
ちなみに利家がコーヒー代を支払ったことは一度もない。
閑話休題。
「それで利家、現場はどうだったの?」
「どう、と言われてもな。時代を感じる普通の家だったな」
「そういうことじゃなくて、例えば――」
「先に言っとくが、強盗殺人の線はない」
私の言葉を遮って、利家はミルクティーに口を付けながら断言した。
自信満々。さも当たり前のように言うあたり、ちょっとムカつく。
と、利家はカップをソーサーに戻すと、写真に視線を落としながら話し始めた。
「現場に争った形跡はなし。タンスや棚、仏壇はそのまま。財布にすら手を付けられていなかった」
「じゃあ、本当に強盗目的じゃないのね」
「だからそう言っているだろ?」
利家の口からため息が漏れる。
私は探偵じゃないから、それくらい仕方ないじゃないの!
「爺さんの家は普通の一軒家。二階はなくて、かつて妻と住んでいたが三十年ほど前に亡くなっている。子供はいない」
説明しつつ、カウンターに広げた写真を四枚ほど私たちに見せた。
「玄関から向かって左側にキッチン兼食卓。右側には書斎。そのまま真っ直ぐ廊下を進むと居間に繋がっていた。風呂トイレは別で、居間の左端に並んで設置されていた」
写真にはそれぞれ、利家が説明した通りの風景が写されていた。
食卓にはチェック柄のランチョンマットが敷かれたテーブル。薬缶が置かれたガスコンロ。
書斎には埃をかぶった本や机が置かれ、新聞紙の束がいくつも保管されている。
居間には毛布の外された炬燵があり、テレビは地デジだが相当古く小さなものが置いてある。
私の第一印象としては、まさに昭和の一軒家といった風な素朴な景色がそこにはあった。
「で、覚悟してくれ。コイツが爺さんの遺体が発見された風呂場だ」
そう前置きをしながら、利家はそっと風呂場を写した写真を置いた。
五右衛門風呂のような風呂窯を想像したが、予想に反してモダンな造りの白いバスタブが写っていた。
だが純白のはずのそのバスタブには、赤黒い脂のような汚れがビッチリと張り付いている。
想像もしたくないけれど、きっとこれは——。
「うっ……」
思わず嗚咽が漏れた。
それに気付いたのか、利家はすぐにその写真を別の写真の裏に隠し、咳払いをする。
「とにかく現状言えるのはこれくらいだ」
「……ふむぅ。しかし金品を奪うのが目的じゃないなら、一体何のために?」
「そりゃマスター、あの爺さんの傲岸不遜な態度を見たら一目瞭然でしょ」
日頃の恨みによる犯行——ということだろうか。
気持ちは分からなくもない。そう思ってしまう自分が、ちょっとだけ醜いと思った。
お爺ちゃんのコーヒーを「マズイ」と言ったり、他の近隣住民に迷惑をかけたり。
ただ、それでも実際に殺してやろう、なんて思わないけれど。
「明日には、俺も現場近くで近隣住民から聞き込みをするつもりだ」
利家はそう言うと、冷めたミルクティーを一気に飲み干して裏口へと向かった。
寝る前の一服を嗜む時間だ。
「待って」
裏口の扉に手をかけた背中を呼び止める。利家が振り返る。
「……私も、その聞き込みに連れてって」
これは私のわがままだった。
たとえ口の悪い迷惑客でも、少なくともあのお爺さんはこの喫茶店の常連だった。
だからせめて、お爺ちゃんの孫として、この喫茶店を愛する一人の常連客として。
この事件の真相を知りたい。そう思った。
利家は面倒臭そうに頭をガリガリと搔きながら、しかしダメだとは言わなかった。
【5】
翌日。私は利家の聞き込みに同行することにした。
「ダメだ」とは言われなかったが、しかし、
「来ていいぞ」とも言われていない。
とどのつまり勝手についてきたわけだ。
時刻は朝の七時。今日は休日なので、私も学校のことを気にしなくていい。
「一応、警部から粗方容疑者臭い候補は聞いた。その人たちから聞き込みをするが……」
途中で言葉を切って、利家は私の方を一瞥した。
その表情は相変わらず気怠げで、今にも口癖の「憂鬱」が飛び出してきそうだった。
「相手は壱華の知り合いかもしれない。最悪、そこに爺さん殺しの犯人がいる」
そのことを忘れるな。利家はそう伝えたいのだろう。
「……大丈夫。もう、覚悟はできてるから」
私はこくりと頷いた。利家がそれを確認すると、早速現場近くの住宅へ歩みを進めた。
***
最初にお邪魔した家は、正三さんの家から三軒先にあるおばさん——名前は幅永ミサコさん。
今は夫と二人暮らしで、お喋りが大好きなおばさん。そして今回警察に通報したのが彼女だ。
「あそこのお爺さん? そうそう私が通報したの。なんだか嗅いだこともない変な臭いがしてね——」
「なるほ——」
「それで交番に行ったのに、あそこの若い刑事ってば全然動かなくって、私腹が立って——」
「あの、俺の——」
「まったく本当に最近の若い子はだらしがなくって——」
とまあ、こんな風に喋り出したら止まらない。
流石の利家でさえ、彼女の会話に口を挟む隙が見当たらないらしい。
それでも私は、とにかく彼女の長話から要点だけを抜き取って、必死にメモに書き留めた。
ほとんど若い警察官や迷惑ジジイ——正三さんへの愚痴ばかりだったが、
『通報したのはミサコさん。事件があった日のことは覚えていない。正三さんとは、昔息子が暴力を受けたと問題になったきり、険悪な関係だという』
と。ある程度関係性をまとめることはできた。
「それにしても、刑事さんから死んだって聞いた時は本当に驚いたわ」
「でしょうね。それじゃあ俺たちはこれで——」
「でも正直済々してんのよ」
次の聞き込みに行く直前、ミサコさんは妙に嬉しそうな笑みを浮かべながら言った。
「あの爺さんが死んでくれたおかげで、息子もやっとここに帰って来られるようになったの」
***
次にお邪魔したのは、正三さんの家からずっと離れた場所にあるモダンな一軒家。
そこに住むのが、中年の会社員——名前は常盤リュウジさん。
奥さんのカスミさんと小学生の息子、そして柴犬の豆太君。三人と一匹暮らしだ。
「あのお爺さんが死んだのは、刑事さんから聞きました……正直びっくりです……」
とリュウジさんはその時のことを語ってくれた。
「ただ正直僕らも、あの爺さんには迷惑していたんです」
「迷惑? たとえばどんな?」
利家が続きを促すと、リュウジさんは息子と遊んでいる豆太を一瞥した。
「二年前になるんですが、あの爺さんが豆太に水をかけてきたんです」
「そうそう。本当、ひどい話ですよ」
と、横で不安げな表情を浮かべていた妻のカスミさんが頷く。
「あの爺さん、犬は臭くてうるさい、近所迷惑だって言って妻と豆太に……」
「その時は、たまたまいつもの散歩ルートが工事中だっただけなのに」
酷い話だ。ほとんど言いがかりじゃない。
愛犬だって家族の一員。それも奥さんまで巻き込まれて、そんな酷いことをされたら、殺意が湧くもの仕方がない。
「……それで、二週間前はどうでした?」
「どう、と言われても。僕たちはあれからあの辺を避けるようになったので何も……」
「それに豆太はこうして元気ですし、何より二年前の出来事ですから。今更殺そうなんてそんな」
それもそうか。二人の話をまとめると、こうだ。
『事件の概要については警察から直接聞いた。二年前、妻と愛犬の豆太が理不尽な理由で水をぶっかけられた』
「ありがとうございました。しかし、本当聞けば聞くほどひどい話ですね……」
「無理もないですよ。この前だって、息子とその友達が公園で遊んでいただけで怒鳴り込んできたって」
「けれど、もういないなら子供たちも安心して公園で遊べるわ」
両親の言葉などつゆ知らず、息子と豆太は庭でフリスビーを投げて遊んでいた。
***
三軒目にお邪魔したのは、フリーターでちょっとチャラいお兄さん——名前は小島ノブオさん。
古アパート暮らしで、近くのコンビニでバイトをする傍ら音楽活動をしている。
「あ? 猪熊って、あのクソジジイだろ? 聞いたぜ、死んだんだろ?」
気怠そうな口調がどこか利家らしかったが、ピアスや派手な髪色は利家以上に威圧感がハンパなかった。
「ちょうど今聞き込みをしていてな。二週間前のことについて知りたい」
「何? オタクら探偵? それともごっこ遊び?」
「一応俺は探偵だが、こっちの小さいのは勝手についてきた」
小さいとか言うな。一言余計だってのバカ利家。
利家を静かに睨んでいると、ノブオさんは「ふーん」と興味なさげに呟いた。
「あんま覚えてねえけど、夜中にジジイがなんか叫んでたのは聞いたかな」
「叫んでた? 何を?」
「知るかよんなこと。てか、別にこれ犯人探さないで『自殺』で片付けたら良くね?」
「良くないわよ!」
「何キミ? だってそうじゃん、みんなあのクソジジイに「死んでほしい」って思ってたぞ?」
次から次へと、よくも酷いことを言える。
「だからって、殺されたかもしれないのよ! その犯人を野放しにするつもり?」
「別にいいだろ。どんな手段であれ、この世から邪魔な老害が一人消えた。万々歳だろ?」
「あなた、黙って聞いていれば——」
何が万々歳だ。人の心もない化け物が。
私が大きく口を開いた瞬間、背後からその口を塞がれた。
塞いだのは利家だった。私を見下ろす目が、虚ろになっている。
「落ち着け壱華。変な面倒事を起こそうとするな」
「だって——」
「とにかく、アンタも正三——爺さんのことが嫌いだったんだな?」
「ああ。バイト先で、俺も一回あのジジイとバトって以来な……」
それだけ言い残して、ノブオさんは自分の部屋に戻ってしまった。
バタン。ガチャッ。
速攻で鍵まで閉められた。最後まで腹の立つ人だった。
「ねえ、バトるって、何?」
ちょっとだけ気になって、私は利家に訊いた。
利家は一瞬「マジか?」みたいな顔をしつつ、タバコに火を点けながら答えてくれた。
「バトル、要は喧嘩だ。アイツの性格からして、喧嘩腰な頑固ジジイは相性が悪い」
それが恐竜の時代からの自然の摂理だとでも言うように、利家は静かに煙をくゆらせる。
その後を追いかけながら、私はさっきのノブオさんの証言をメモに書き記す。
『二週間前の深夜、正三さんが何かを叫んでいたが内容までは知らない。過去にバイト先で喧嘩をしたことがある』
一瞬人の心がない、とでも書いてやろうかと思ったが、何とか踏み止まった。
***
最後に訪れたのは、マンションで一人暮らし中の大学生——加茂ユウタさん。
奨学金を借りて大学に行っているらしく、その返済のために新聞配達など複数のバイトを掛け持ちしているという。
「正三さん? 知っていますよ。配達先の一つでしたので」
この人はさっきのノブオさんとは違って、人当たりのいい爽やかな好青年という印象だった。
ただ、利家が正三さんの名前を出した瞬間、ちょっと嫌そうな顔をした。
「でも、結構些細なことでクレームを付けてくるから、苦手でした」
「クレーム? そんなことってあるんですか?」
「ありますよ。特に雨の日なんかは、濡れた新聞を配るワケにも行かないですし」
「それはそうだな。俺も学生時代のことを思い出す」
ポロリと利家が零すと、ユウタさんは勢いよく顔を上げて利家を見上げた。
「分かってくれます? 特にこの辺りは道が狭いし車も出せないから、雨と風が強い日はもう最悪ですよ」
「それで、正三さんからはどんなクレームが?」
「あの家、玄関の投函口がちょっとキツいんです。だから入れる途中でちょっと破けちゃうことがあるんですよ」
「ああ、それで少し破けたりしただけで、クレームが付くってことか」
利家がそう結論を告げると、ユウタさんは「そうなんですよ」と頭を掻いた。
「他にも色々あるんですけど、事務所側としてももうお手上げ状態でして」
すかさずその情報をメモに記しながら、利家とユウタさんを交互に見る。
「とにかく『猪熊さんのクレームは気にするな』って、逆に励まされちゃいました」
と、また申し訳なさそうに笑いながら頭を掻く。
だがその表情はすぐに萎れたようになった。
「……でもまさか、正三さんが死んじゃうなんて」
クレーマーとはいえ、相当ショックなのだろう。
彼の表情から、少しだけ寂しさが滲む。
「不幸な事故だったそうで。お悔やみを申し上げます」
そう言い残すと、ユウタさんは時計を見上げて「もうこんな時間だ」と呟いた。
「ボク、そろそろバイトなので失礼します」
慌てた様子でマンションを飛び出したユウタさんは、途中派手に転びながら、下町の静けさに消えていった。
最後に、私はユウタさんの証言をこう纏めた。
『正三さんは悪質なクレーマーで、ユウタさんの新聞配達事務でも「気にするな」と言われるほどだった。おそらく事件があった日もそれ以降も、新聞を配達していた』
【証言メモ】
ミサコ『通報したのはミサコさん。事件があった日のことは覚えていない。正三さんとは、昔息子が暴力を受けたと問題になったきり、険悪な関係だという』
常盤一家『事件の概要については警察から直接聞いた。二年前、妻と愛犬の豆太が理不尽な理由で水をぶっかけられた』
ノブオ『二週間前の深夜、正三さんが何かを叫んでいたが内容までは知らない。過去にバイト先で喧嘩をしたことがある』
ユウタ『正三さんは悪質なクレーマーで、ユウタさんの新聞配達事務でも「気にするな」と言われるほどだった。おそらく事件があった日もそれ以降も、新聞を配達していた』
【6】
こうしてある程度、聞き込みで得た情報は全部だった。
結論から言えば、みんながみんな正三さんと何らかの関わりのある人達ばかりだった。
それも、とびっきり悪い意味で。
ミサコさんは過去に息子が殴られた。
常盤一家のカスミさんと豆太は、理不尽な理由で水をぶっかけられた。
ノブオさんはバイト先のコンビニでバトった——喧嘩をしたそう。
そしてユウタさんは、クレームを付けられまくったために「気にするな」と事務所から言われるほど。
調べれば調べるほど、ろくでもない人だったことが浮き彫りになってくる。
それこそ私は絶対に認めたくはないが、ノブオさんの言葉が蘇ってくる。
『犯人探さないで『自殺』で片付けたら良くね?』
『みんなあのクソジジイに「死んでほしい」って思ってたぞ?』
今思い出すだけでも腹が立つ。
けれど、それほど恨まれることをしている被害者も被害者だ。
そう思うと、聞き込みをした全員が怪しく思えて仕方がない。
私はカウンター席で頭を抱えながら、ずっとメモ帳とにらめっこをしていた。
「あーもう! お爺ちゃん、なんか甘いのちょうだい!」
「糖分かい? これでもう三杯目じゃないか、壱華」
「そうだぞ壱華。それ以上飲んだら太るぞ?」
「うっさいバカ利家! 余計なお世話!」
つい怒鳴ってしまった。だがこれに関しては利家が悪い。
そんな私を横目に、利家とお爺ちゃんは何かコソコソと話をしていた。
恐らく私がこうもカリカリしているのが気になるのだろう。
「壱華と喧嘩でもしたかい?」
「別に。勝手に聞き込みについてきて、勝手に証人にイライラしてるだけですよ」
冷静に分析しながら、またまたいつものミルクティーを嗜んでやがる。
本っっっ当に腹が立つ。
「ちょっと利家も少しは考えてよ」
「言われなくても、考えてるさ」
「本当に? 完全にくつろいでるじゃない」
「そう見えるだけで、これでも頭がゴチャゴチャしてるんだ。静かにしてくれ」
うざったそうに、利家は手を振って言う。
「ああ、憂鬱だ。こうも酷い引っ掛かりがあると、焦燥感に駆られて憂鬱になる……」
また始まった。いつもの憂鬱と言いたいだけだ。
利家はその焦燥感に駆られミルクティーを飲み干すと、何かから逃げ出すように喫茶店を飛び出した。
ちょっと気になって後を追いかけてみると、利家は店の裏でタバコに火を点けて紫煙をくゆらせていた。
瞬間、空に消える煙のように彼の焦燥感も消えていた。
ただの禁断症状。彼と初めて出会ったときは私もそう思った。
彼は自称『自制できるヤニカス』。だから普段は朝の一本、寝る前の夜の一本。
計二本しか吸わない。
けれどこれには唯一の例外がある。
三本目、四本目を吸う時がある。そしてその時は決まって——
利家が何か大きな謎を抱えている時だけだ。
彼の頭の中で一体何が渦巻いているのか、残念ながら私に人の心までは分からない。
だけどきっと、利家の中ではタバコの煙がゴチャゴチャした頭を洗い流してくれるのだろう。
暫くして。根本まで吸い尽くしたタバコを灰皿に擦りつけると、箱をポケットに戻して私の方を向いた。
「ちょっと、どこ行くの?」
私が訊くと、利家は走りながら、
「現場に戻る!」
とだけ言って、下町の静けさの中に消えていった。
***
走ること10分余。利家は急いで現場——猪熊正三宅へたどり着いた。
現場にはまだ数人の鑑識が作業を行っていた。
「悪い、ちょっと通してくれ」
「ダメダメ、部外者は——」
「呉々警部から許可は貰っている。書斎を見させてくれ」
半ば強引に鑑識の静止を振り切りながら、利家は誘い込まれるように正三宅の書斎の戸を開けた。
【7】
それからまた翌日。
利家は呉々警部の協力を仰ぎ、聞き込みをした四人を現場に召集した。
幅永ミサコさん。
常盤リュウジさん。それと付き添いでカスミさんも。
小島ノブオさん。
加茂ユウタさん。
忌々しい現場の前であるせいか、全員ソワソワとして落ち着かない様子だった。
「なあ用事なら早くしてくんね? 俺、バンドのメンバー待たせてんだけど」
少し気怠げに言って髪をいじるノブオさん。
「何々? 犯人分かっちゃった感じ? それなら多分、ここのチャラそうな子よ!」
「んだとババア! 俺は殺しなんかやってねえよ、ぶっ殺すぞ!」
「ほら今殺すって言ったわ! 警部さんも聞いたでしょ?」
早速、ミサコさんがかましたせいで、すぐに問題が発生した。
警部たちも慌てて「皆さん落ち着いて! 喧嘩はいけません!」と慌てて割って入り、ノブオさんを取り押さえる。
そんな騒々しいのを横目に、リュウジさんとカスミさんは居心地が悪そうに辺りをキョロキョロと見渡していた。
「あのー……僕、この後先方との会議が……」
「私も、豆太にご飯をあげないと……」
「ご安心ください皆さん。皆さんが予想している通り、これから犯人を発表します」
場を諫めるように、利家は今まで以上に声を張り上げて音頭を取った。
その声にその場にいた全員の視線が利家に集まった。
「犯人って……やっぱりこの中にいるんですか?」
そう震えた声で訊くのは、ユウタさんだった。
この中に犯人がいる。そう思うと、やっぱり私も気が気じゃない。
この感覚だけは、今もどうにも慣れない。
というか、慣れちゃいけない。
「ええ。結論から言わせていただきます」
利家はそう告げてから、
「猪熊正三殺害の犯人は——加茂ユウタさん。あなたですね」
刹那、一気に空気が凍り付いた。
皆の視線が、利家からユウタさんへ移る。
「ちょっと、ユウタさんが犯人って、どういうこと?」
「そうですよ鮫島さん? なんていい加減なことを——」
「いい加減? それは、ユウタさんの自宅を調べればすぐにわかるはずだ」
ユウタさんの言葉を遮って、利家は近くにいた鑑識に目配せをした。
すると鑑識は家の中に消え、大量の新聞紙の束を持って再び姿を現した。
「これは被害者の家にあった新聞です」
「新聞? これが何だって言うんだ?」
ノブオさんが、訝しんだ表情で新聞紙を見下ろす。
私もそれにならう形で、新聞紙を見る。
「ねえ利家、これとユウタさんが殺したことと、何の関係があるの?」
「勿体ぶらずに教えなさいよ! 一秒でももうこんなところにいたくないわ!」
「正三さんは純喫茶『ベイカーズ』の常連で、いつもそこで新聞を読んでいました。そして新聞は休刊日を除いて毎日配達される」
そうですよね、ユウタさん? 利家の問いに、ユウタは小さく頷く。
「でも殺しだなんてそんなこと! 大体、こんなものが証拠になるわけないじゃないですか!」
「そ、そうですよ鮫島さん。流石に彼が可哀想ですよ……」
見るに見かねて、黙って見届けていたリュウジさんが擁護の言葉をかける。
だが利家は止まらない。
「ですが、そこには六月二日以降の新聞はありません」
「六月二日? どういうことか説明したまえ利家君」
警部に続きを促され、利家はさらに続けた。
「今年の六月一日。ちょうど正三さんが殺される前日、東京の天気は土砂降りの大雨でした。そしてこれは『ベイカーズ』のマスターの証言ですが——」
『その日はとても機嫌が悪くて——』
「機嫌が悪かった。その原因は恐らく、六月一日の新聞が土砂降りの大雨で濡れてしまったからでしょう」
すると、鑑識が待っていましたと言わんばかりに、グシャグシャになった新聞らしき塊を提示してきた。
あまりに酷く濡れそぼっていて、もはや読めたものじゃない。
「これは俺の推測ですが、配達員はなにも悪意があって濡れた新聞を入れたワケじゃない。あまりの大雨に玄関が濡れていて、濡らさないよう家の中に落とした結果、玄関に残っていた水を吸ってしまったのでしょう」
それ以上は、もう誰も意見しなかった。
私も、警部も、他の四人も。そして、ユウタさん自身も。
「ですが、事情を知らない正三さんは、日課である新聞がダメになっていたため腹が立っていた。そして直接、配達員——ユウタさんに直接文句を言ってやろう、と思ったのでしょう」
「…………」
「その日の夜中、正三さんはユウタさんが配達に来た所を捕まえた。その際にユウタさんが殺害。遺体を風呂場に入れた」
そこまで言い終えると、利家はふとタバコを取り出して、火を点けながらユウタさんの方を振り返った。
「それにあなただけだ。他が『殺された』と言っている中で唯一『不幸な事故』とハッキリと言ったのはね」
次の瞬間、ユウタさんは力なくその場に倒れ、嗚咽を漏らした。
小さな声で、何かブツブツと言っている。
「……こっちだって限界だったんだ。いつもいつも、つまらないことでクレームを入れて、その日なんてボクに殴りかかってきた。それでついカッとなって……」
【8】
その後、ユウタさんは当時のことを全て打ち明けた。
事件があったのは六月二日。
利家が言った通り、正三さんは前日の大雨のせいで新聞が濡れたことに腹を立て、一日中苛立っていた。
ベイカーズで荒れていたのも、これが原因だ。
その日の深夜。ユウタさんが来るのを待ち、直接クレームを付けようとした。
そしてユウタさんが来た瞬間、勢いで殴り掛かった。
それ以前の度重なるクレームもあって疲弊していたユウタさんは、殴られたことで堪忍袋の緒が切れ、反撃。
勢い余って正三さんを殺害。
我に返った時には既に息がなく、焦った末に風呂場での事故に見立てようと遺体を運んだ。
二週間、正三さんの死がバレなかったのは、単に彼が近隣住民から嫌われ見向きもしなかったからか。
ユウタさんはその死を偽装するため、あえて正三さんの家を素通りして、余った新聞を自宅で処分していたという。
それで新聞を取っている。つまり正三さんは生きている、と思わせるために。
「これは事故でも何でもない。極めて悪質な殺人事件だ」
ユウタさんが逮捕された後も、その場に残っていたミサコさんたちも呆然としていた。
正直、私も驚きが隠せなかった。
あんなに爽やかなお兄さんが、正三さん殺しの犯人だったなんて。
「それにしても、俺は今回の事件で人間が非常に残酷でどうしようもない生き物だと痛感したよ」
利家はタバコの残りを確認しながら、ため息交じりに呟いた。
「……あ、アハハ! やっぱりそうよねえ! 私は最初から分かっていたもの! ああいった大人しい子ほど本性はロクでも——」
「ミサコさん」
彼女の言葉を遮り、利家は鋭い目でミサコさんたちを睨む。
「それだけじゃない。常盤さんにノブオさんも。あなたたちだって、俺から言わせれば同じだ」
その言葉に、その場にいた四人とも体をビクリと震わせた。
「確かに猪熊正三はろくでもない人だった。正直、あなたたちや近隣住民が恨みや殺意を抱いても文句のない人だ」
タバコをポケットにしまい、利家は深くため息を吐く。
「ですが、だからと言って人の死を喜ぶような人たちに、ユウタさんを非難する権利はない」
***
こうして、猪熊正三殺人事件は幕を閉じ、なんてことのない日常が戻ってきた。
けれど、死んだ人は二度と帰ってはこない。
腹は立つけれど、わざわざエスプレッソを頼んで「マズイ」と言う声が、ちょっとだけ寂しく思えた。
「はい壱華。それに利家君も、エスプレッソだよ」
なんて黄昏ていると、お爺ちゃんがそっとコーヒーカップを差し出してきた。
「いや、頼んでないけど……」
「いいじゃないか、偶には。大人の味を知るのもね」
普段は薄味しか飲まないんだけどなあ。
でもせっかくお爺ちゃんが淹れてくれたから。勇気を振り絞って、ぐいっと飲み干す。
……苦い。
それが顔に出たのだろう。隣で利家がクツクツと笑う。
「子供舌だな相変わらず」
「うるさいなあ。だって苦いのは事実じゃない」
「そりゃあ、エスプレッソの起源は眠気覚ましだからな。普通のコーヒーに比べて濃いんだよ」
所説あり。と付け加えながら、利家はすぐにミルクティーを流し込む。
結局アンタも子供舌じゃない。
と突っ込みたい気持ちをぐっと堪えていると、突然お爺ちゃんが「あ」と声を漏らして微笑んだ。
「どうしたの、お爺ちゃん?」
「そういえば、彼が初めてこの店に来た時もエスプレッソを頼んでいたなって、思い出してね」
「初めて?」
利家が不思議そうに訊く。
「この店を始めたばかりの頃にね、彼はよく奥さんと一緒に通っていたんだ」
「それじゃあ、五十年も前ってこと?」
「その頃からだね。彼はいつも『マズイ』『こんなののどこがいいんだ?』ってぼやいていたよ」
そんな前から? なんともはた迷惑なお客さんじゃない。
でも昔話を語るお爺ちゃんの表情は、どこか楽しそうであり、寂しそうでもあった。
「奥さんが亡くなってからも、彼はいつもエスプレッソを頼んでいたね」
「でもマズイマズイって言ってたんでしょ? なら頼まなきゃいいのに」
私の愚痴に、お爺ちゃんは静かに笑って頷いた。
「最初は他のメニューも勧めたんだけどねえ、頑なにエスプレッソばかり頼んでいた」
「……なるほど、そういうことか」
利家は分かった風に言って、ティーカップを置いた。
一体どういうこと? そっと利家に視線を移すが、彼は知らんぷりをした。
「お爺ちゃん、なんで?」
「さあねえ。私には人の心までは分からない」
お爺ちゃんは私たちの飲み終えたカップを回収すると、小さなシンクでそれを洗いながら天井を見上げた。
「でも、私にはなんとなくだけれど、彼がずっとこの“マズイ”エスプレッソに拘る理由が分かるんだ」
「壱華も、好きな人ができたら分かるんじゃあないか?」
「うっさいうっさい! 利家は口を挟まないで!」
本当に、利家は性格が悪すぎる。
……だけれどお爺ちゃんの背中を見ていると、さっきの「憂鬱」なくらいほろ苦い、大人のエスプレッソの味が蘇ってきた。




