婚約破棄された私を拾った冷酷公爵様が、なぜか手放してくれません
婚約破棄は、静かに行われた。
大勢の前で断罪されるようなものではない。
ただ書面で、淡々と。
――君との婚約は解消する。
それだけだった。
理由も、説明もない。
けれど、分かっている。
私よりも価値のある相手が見つかったのだろう。
それだけのことだ。
「……そうですか」
私はその書面を折りたたみ、机の上に置いた。
涙は出なかった。
驚きも、怒りもない。
ただ、少しだけ――
これからどうしようか、と考えただけだ。
実家に戻る選択肢はなかった。
もともと、政治的な理由で結ばれた婚約だ。
それが解消された以上、私の価値は大きく下がる。
戻ったところで、歓迎されるとは思えない。
「……働くしかないわね」
そう結論づけるのに、時間はかからなかった。
数日後。
私は、ある屋敷の門の前に立っていた。
重厚な鉄の門。
手入れの行き届いた庭。
そして、その奥に見える巨大な建物。
王都でも有数の権力を持つ貴族――
冷酷公爵、と呼ばれる男の屋敷だ。
「……本当に、ここでいいのかしら」
求人を見たとき、正直なところ疑った。
使用人募集。
経験不問。
ただし、一定以上の教養を求める。
私にとっては、条件としては悪くない。
けれど、問題は“雇い主”だ。
冷酷公爵。
その名の通り、情け容赦のない人物として知られている。
気に入らなければすぐに切り捨てる。
感情を表に出さず、冷たい判断を下す。
そんな噂ばかりを聞いていた。
「……でも、他に選択肢もないわね」
私は意を決して、門を叩いた。
「ようこそお越しくださいました」
出てきた執事は、驚くほど丁寧だった。
冷酷な屋敷、という印象とは少し違う。
「本日は、使用人の面接でよろしいでしょうか」
「はい」
私は頷く。
「では、こちらへ」
案内されるままに、屋敷の中へ入る。
内装は豪華だが、どこか落ち着いている。
無駄な装飾がなく、整然としている。
しばらく歩き、応接室へと通された。
「少々お待ちください」
執事が一礼して出ていく。
静かな部屋。
妙に緊張する。
――冷酷公爵。
どんな人物なのだろうか。
噂通りなら、ここで何を言われてもおかしくない。
覚悟だけはしておこう。
そう思っていた、そのとき。
扉が開いた。
「……君か」
低く、落ち着いた声。
振り向くと、一人の男が立っていた。
黒髪に、鋭い目。
無駄のない立ち姿。
年齢はそれほど離れていないはずなのに、圧倒的な威圧感がある。
――この人が。
「本日は、お時間をいただきありがとうございます」
私は立ち上がり、礼をした。
男はしばらく私を見ていた。
値踏みするように。
あるいは――
確認するように。
「……間違いないな」
「え?」
思わず顔を上げる。
「いや、こちらの話だ」
彼はそう言って、椅子に座った。
「君の経歴は確認している」
「……はい」
「元々は、婚約者がいたそうだな」
「ええ」
「そして、最近破棄された」
「……はい」
調べられているのは当然だ。
だが、改めて口にされると少しだけ胸が痛む。
「働き口を探している、と」
「その通りです」
彼は一瞬だけ目を細めた。
「……なぜ、ここを選んだ」
「他に選択肢が少なかったからです」
正直に答える。
取り繕っても意味はないだろう。
「噂は知っているか」
「ある程度は」
「それでも来たのか」
「はい」
沈黙。
数秒の間。
彼は、何かを考えているようだった。
やがて――
「採用だ」
「……え?」
あまりにもあっさりした言葉に、思考が止まる。
「明日から来い」
「え、あの……」
「何か問題でも?」
「いえ、ですが……」
こんなに簡単に決まるものなのだろうか。
面接というより、確認だけだった。
「条件は後ほど伝える。住み込みでも構わないか」
「はい……」
「ならば決まりだ」
それで、本当に終わった。
翌日から、私はその屋敷で働くことになった。
与えられた仕事は、主に書類整理や来客対応。
使用人としては少し特殊な役割だが、これまでの経験が活かせる。
問題は――
「……どうして」
廊下を歩きながら、私は小さく呟いた。
視線を感じる。
気のせいではない。
確実に、誰かが見ている。
振り向く。
誰もいない。
「……気のせい?」
そう思って歩き出すと、また感じる。
じっと見られているような感覚。
落ち着かない。
それは、日を追うごとに強くなっていった。
「お嬢様」
使用人の一人が声をかけてくる。
「はい?」
「本日は外出のご予定は?」
「ええ、少しだけ」
「では、こちらをお持ちください」
差し出されたのは、見慣れない装飾品だった。
「……これは?」
「護身用でございます」
「護身用?」
「はい。念のため」
妙に丁寧な言い方だった。
「ありがとうございます……?」
よく分からないまま受け取る。
外出すると、すぐに気づいた。
――ついてきている。
人影がある。
一定の距離を保って、こちらの動きを見ている。
「……やっぱり」
振り向くと、その影は自然に人混みに紛れた。
明らかに不自然だ。
偶然ではない。
「……どういうこと?」
不安が募る。
だが、何も起きない。
ただ、見られているだけ。
それが余計に気味が悪かった。
数日後。
ついに、我慢できなくなった。
「……あの」
私は執事に声をかける。
「何かございましたか」
「最近、その……」
言いづらい。
だが、言わなければならない。
「誰かに見られている気がするのですが」
執事は一瞬だけ、表情を変えた。
ほんのわずかだが、確かに。
「……お気づきになりましたか」
「え?」
「ご安心ください」
彼は深く一礼した。
「すべて、旦那様のご指示でございます」
「……は?」
理解が追いつかない。
「旦那様の?」
「はい」
「つまり……」
言葉がうまく出てこない。
「監視、ということですか?」
「いえ」
執事は首を振る。
「護衛でございます」
「護衛……?」
「お嬢様に危険が及ばぬよう、常に見守っております」
「……なぜ?」
思わず聞き返す。
理由が分からない。
ただの使用人のはずなのに。
そのとき。
「俺がそう決めた」
背後から声がした。
振り向く。
そこにいたのは――
「公爵様……」
彼は静かにこちらを見ていた。
「……理由を、伺っても?」
「簡単な話だ」
一歩、近づいてくる。
距離が縮まる。
「君を守るためだ」
「……なぜ、私を?」
問いかける。
本当に分からない。
彼は、しばらく黙っていた。
そして――
「覚えていないか」
「え?」
「数年前のことだ」
記憶を辿る。
だが、すぐには思い出せない。
「雨の日だった」
その言葉で、何かが引っかかった。
「……あ」
ぼんやりと、浮かぶ光景。
雨の中、倒れていた男。
怪我をして、動けなくなっていた。
私は通りすがりにそれを見つけて――
「手当てを、した……?」
「そうだ」
彼は頷いた。
「そして君は、そのまま去った」
「……あのときの」
言葉が出ない。
まさか。
「あなたが……?」
「そうだ」
短い肯定。
だが、それだけで十分だった。
「……そんな」
ただの偶然だ。
たまたま見つけて、助けただけ。
それだけのこと。
「礼はまだしていなかった」
彼は言う。
「だから、今している」
「……これは、礼の範囲を超えている気がします」
「そうか?」
首を傾げる。
本気で言っているらしい。
「君がいなければ、俺は死んでいた」
淡々とした口調。
だが、その言葉は重い。
「それに比べれば、これくらいは安いものだ」
「……ですが」
まだ何か言おうとしたとき。
「それと」
彼が続けた。
「もう一つ理由がある」
「……何でしょうか」
「君を、手放す気がない」
思考が止まる。
「……はい?」
「この屋敷にいろ」
まっすぐに見られる。
「他に行く必要はない」
「それは……」
どういう意味なのか。
分かってしまいそうで、分かりたくない。
「仕事として、ということですか」
「それでもいい」
曖昧な答え。
だが、その視線は揺れていない。
「……拒否権は?」
「ある」
即答だった。
「だが、勧めはしない」
「……なぜですか」
「危険だからだ」
短く言い切る。
嘘ではないのだろう。
「君が思っている以上に、君の価値は高い」
「そんな……」
否定しようとして、言葉が詰まる。
否定できる根拠がない。
今の状況が、それを許さない。
「ここにいれば守る」
彼は言う。
「外に出れば、保証はできない」
静かな圧。
選択肢はあるようで、ない。
「……分かりました」
私は小さく頷いた。
「しばらくは、お世話になります」
「そうか」
彼はわずかに表情を緩めた。
ほんの一瞬だけ。
それがなぜか、妙に印象に残った。
それからの日々は、以前よりも少しだけ騒がしくなった。
いや、正確には――
「過保護、ではないでしょうか」
「そうか?」
本人に言っても、この調子だ。
外出すれば護衛がつく。
屋敷にいれば常に誰かが気にかける。
そして何より――
「今日は外出は控えろ」
「なぜですか」
「雨が降る」
「……それだけで?」
「十分だ」
真顔で言われると、反論しづらい。
「……分かりました」
結局、従ってしまう自分がいる。
窓の外を見る。
確かに、雨が降り始めていた。
「……本当に過保護ね」
小さく笑う。
だが、不思議と嫌ではなかった。
むしろ――
少しだけ、安心している自分がいる。
それがどういう意味なのかは、まだ分からないけれど。
ただ一つ、確かなのは。
私はもう、捨てられた存在ではないということ。
そして――
どうやら今度は、簡単には手放してもらえないらしい。
それが良いことなのかどうかは、これから考えればいい。
今はただ、この少し不思議な日常を受け入れるだけだ。
それだけで、十分だった。




