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婚約破棄された私を拾った冷酷公爵様が、なぜか手放してくれません

作者: カルラ
掲載日:2026/04/22

 婚約破棄は、静かに行われた。


 大勢の前で断罪されるようなものではない。

 ただ書面で、淡々と。


 ――君との婚約は解消する。


 それだけだった。


 理由も、説明もない。

 けれど、分かっている。


 私よりも価値のある相手が見つかったのだろう。


 それだけのことだ。


「……そうですか」


 私はその書面を折りたたみ、机の上に置いた。


 涙は出なかった。


 驚きも、怒りもない。


 ただ、少しだけ――


 これからどうしようか、と考えただけだ。


 実家に戻る選択肢はなかった。


 もともと、政治的な理由で結ばれた婚約だ。

 それが解消された以上、私の価値は大きく下がる。


 戻ったところで、歓迎されるとは思えない。


「……働くしかないわね」


 そう結論づけるのに、時間はかからなかった。


 数日後。


 私は、ある屋敷の門の前に立っていた。


 重厚な鉄の門。

 手入れの行き届いた庭。

 そして、その奥に見える巨大な建物。


 王都でも有数の権力を持つ貴族――


 冷酷公爵、と呼ばれる男の屋敷だ。


「……本当に、ここでいいのかしら」


 求人を見たとき、正直なところ疑った。


 使用人募集。

 経験不問。

 ただし、一定以上の教養を求める。


 私にとっては、条件としては悪くない。

 けれど、問題は“雇い主”だ。


 冷酷公爵。


 その名の通り、情け容赦のない人物として知られている。


 気に入らなければすぐに切り捨てる。

 感情を表に出さず、冷たい判断を下す。


 そんな噂ばかりを聞いていた。


「……でも、他に選択肢もないわね」


 私は意を決して、門を叩いた。


「ようこそお越しくださいました」


 出てきた執事は、驚くほど丁寧だった。


 冷酷な屋敷、という印象とは少し違う。


「本日は、使用人の面接でよろしいでしょうか」


「はい」


 私は頷く。


「では、こちらへ」


 案内されるままに、屋敷の中へ入る。


 内装は豪華だが、どこか落ち着いている。

 無駄な装飾がなく、整然としている。


 しばらく歩き、応接室へと通された。


「少々お待ちください」


 執事が一礼して出ていく。


 静かな部屋。


 妙に緊張する。


 ――冷酷公爵。


 どんな人物なのだろうか。


 噂通りなら、ここで何を言われてもおかしくない。


 覚悟だけはしておこう。


 そう思っていた、そのとき。


 扉が開いた。


「……君か」


 低く、落ち着いた声。


 振り向くと、一人の男が立っていた。


 黒髪に、鋭い目。

 無駄のない立ち姿。


 年齢はそれほど離れていないはずなのに、圧倒的な威圧感がある。


 ――この人が。


「本日は、お時間をいただきありがとうございます」


 私は立ち上がり、礼をした。


 男はしばらく私を見ていた。


 値踏みするように。


 あるいは――


 確認するように。


「……間違いないな」


「え?」


 思わず顔を上げる。


「いや、こちらの話だ」


 彼はそう言って、椅子に座った。


「君の経歴は確認している」


「……はい」


「元々は、婚約者がいたそうだな」


「ええ」


「そして、最近破棄された」


「……はい」


 調べられているのは当然だ。


 だが、改めて口にされると少しだけ胸が痛む。


「働き口を探している、と」


「その通りです」


 彼は一瞬だけ目を細めた。


「……なぜ、ここを選んだ」


「他に選択肢が少なかったからです」


 正直に答える。


 取り繕っても意味はないだろう。


「噂は知っているか」


「ある程度は」


「それでも来たのか」


「はい」


 沈黙。


 数秒の間。


 彼は、何かを考えているようだった。


 やがて――


「採用だ」


「……え?」


 あまりにもあっさりした言葉に、思考が止まる。


「明日から来い」


「え、あの……」


「何か問題でも?」


「いえ、ですが……」


 こんなに簡単に決まるものなのだろうか。


 面接というより、確認だけだった。


「条件は後ほど伝える。住み込みでも構わないか」


「はい……」


「ならば決まりだ」


 それで、本当に終わった。


 翌日から、私はその屋敷で働くことになった。


 与えられた仕事は、主に書類整理や来客対応。


 使用人としては少し特殊な役割だが、これまでの経験が活かせる。


 問題は――


「……どうして」


 廊下を歩きながら、私は小さく呟いた。


 視線を感じる。


 気のせいではない。


 確実に、誰かが見ている。


 振り向く。


 誰もいない。


「……気のせい?」


 そう思って歩き出すと、また感じる。


 じっと見られているような感覚。


 落ち着かない。


 それは、日を追うごとに強くなっていった。


「お嬢様」


 使用人の一人が声をかけてくる。


「はい?」


「本日は外出のご予定は?」


「ええ、少しだけ」


「では、こちらをお持ちください」


 差し出されたのは、見慣れない装飾品だった。


「……これは?」


「護身用でございます」


「護身用?」


「はい。念のため」


 妙に丁寧な言い方だった。


「ありがとうございます……?」


 よく分からないまま受け取る。


 外出すると、すぐに気づいた。


 ――ついてきている。


 人影がある。


 一定の距離を保って、こちらの動きを見ている。


「……やっぱり」


 振り向くと、その影は自然に人混みに紛れた。


 明らかに不自然だ。


 偶然ではない。


「……どういうこと?」


 不安が募る。


 だが、何も起きない。


 ただ、見られているだけ。


 それが余計に気味が悪かった。


 数日後。


 ついに、我慢できなくなった。


「……あの」


 私は執事に声をかける。


「何かございましたか」


「最近、その……」


 言いづらい。


 だが、言わなければならない。


「誰かに見られている気がするのですが」


 執事は一瞬だけ、表情を変えた。


 ほんのわずかだが、確かに。


「……お気づきになりましたか」


「え?」


「ご安心ください」


 彼は深く一礼した。


「すべて、旦那様のご指示でございます」


「……は?」


 理解が追いつかない。


「旦那様の?」


「はい」


「つまり……」


 言葉がうまく出てこない。


「監視、ということですか?」


「いえ」


 執事は首を振る。


「護衛でございます」


「護衛……?」


「お嬢様に危険が及ばぬよう、常に見守っております」


「……なぜ?」


 思わず聞き返す。


 理由が分からない。


 ただの使用人のはずなのに。


 そのとき。


「俺がそう決めた」


 背後から声がした。


 振り向く。


 そこにいたのは――


「公爵様……」


 彼は静かにこちらを見ていた。


「……理由を、伺っても?」


「簡単な話だ」


 一歩、近づいてくる。


 距離が縮まる。


「君を守るためだ」


「……なぜ、私を?」


 問いかける。


 本当に分からない。


 彼は、しばらく黙っていた。


 そして――


「覚えていないか」


「え?」


「数年前のことだ」


 記憶を辿る。


 だが、すぐには思い出せない。


「雨の日だった」


 その言葉で、何かが引っかかった。


「……あ」


 ぼんやりと、浮かぶ光景。


 雨の中、倒れていた男。


 怪我をして、動けなくなっていた。


 私は通りすがりにそれを見つけて――


「手当てを、した……?」


「そうだ」


 彼は頷いた。


「そして君は、そのまま去った」


「……あのときの」


 言葉が出ない。


 まさか。


「あなたが……?」


「そうだ」


 短い肯定。


 だが、それだけで十分だった。


「……そんな」


 ただの偶然だ。


 たまたま見つけて、助けただけ。


 それだけのこと。


「礼はまだしていなかった」


 彼は言う。


「だから、今している」


「……これは、礼の範囲を超えている気がします」


「そうか?」


 首を傾げる。


 本気で言っているらしい。


「君がいなければ、俺は死んでいた」


 淡々とした口調。


 だが、その言葉は重い。


「それに比べれば、これくらいは安いものだ」


「……ですが」


 まだ何か言おうとしたとき。


「それと」


 彼が続けた。


「もう一つ理由がある」


「……何でしょうか」


「君を、手放す気がない」


 思考が止まる。


「……はい?」


「この屋敷にいろ」


 まっすぐに見られる。


「他に行く必要はない」


「それは……」


 どういう意味なのか。


 分かってしまいそうで、分かりたくない。


「仕事として、ということですか」


「それでもいい」


 曖昧な答え。


 だが、その視線は揺れていない。


「……拒否権は?」


「ある」


 即答だった。


「だが、勧めはしない」


「……なぜですか」


「危険だからだ」


 短く言い切る。


 嘘ではないのだろう。


「君が思っている以上に、君の価値は高い」


「そんな……」


 否定しようとして、言葉が詰まる。


 否定できる根拠がない。


 今の状況が、それを許さない。


「ここにいれば守る」


 彼は言う。


「外に出れば、保証はできない」


 静かな圧。


 選択肢はあるようで、ない。


「……分かりました」


 私は小さく頷いた。


「しばらくは、お世話になります」


「そうか」


 彼はわずかに表情を緩めた。


 ほんの一瞬だけ。


 それがなぜか、妙に印象に残った。


 それからの日々は、以前よりも少しだけ騒がしくなった。


 いや、正確には――


「過保護、ではないでしょうか」


「そうか?」


 本人に言っても、この調子だ。


 外出すれば護衛がつく。

 屋敷にいれば常に誰かが気にかける。


 そして何より――


「今日は外出は控えろ」


「なぜですか」


「雨が降る」


「……それだけで?」


「十分だ」


 真顔で言われると、反論しづらい。


「……分かりました」


 結局、従ってしまう自分がいる。


 窓の外を見る。


 確かに、雨が降り始めていた。


「……本当に過保護ね」


 小さく笑う。


 だが、不思議と嫌ではなかった。


 むしろ――


 少しだけ、安心している自分がいる。


 それがどういう意味なのかは、まだ分からないけれど。


 ただ一つ、確かなのは。


 私はもう、捨てられた存在ではないということ。


 そして――


 どうやら今度は、簡単には手放してもらえないらしい。


 それが良いことなのかどうかは、これから考えればいい。


 今はただ、この少し不思議な日常を受け入れるだけだ。


 それだけで、十分だった。







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