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ずっと雨降る異世界で  作者: 亜久
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1話 

 雨の音が、世界のすべてだった。

 目を開く前から、その音は聞こえていた。途切れることのない、均一な、まるで呼吸のような雨音。それは優しくもなく、激しくもなく、ただ淡々と、永遠に続くかのように降り注いでいた。

 僕は目を開けた。

 視界に飛び込んできたのは、灰色だった。

 空が、灰色。

 雲が、灰色。

 建物の壁が、灰色。

 石畳が、灰色。

 世界から色彩が失われたかのように、すべてが彩度を失い、水彩画の絵の具が滲んだような輪郭で、僕の前に広がっていた。

 僕は路地裏の、崩れかけた建物の軒下に横たわっていた。体は芯まで冷え切っていた。服は水を含んで重く、髪からは雫が滴り落ちて、首筋を這っていく。どれくらいここにいたのだろう。一時間か、一日か、それとも――。

 わからなかった。

 いつからここにいたのか。

 なぜここにいるのか。

 ここがどこなのか。

 何も、わからなかった。

 僕はゆっくりと上半身を起こした。体が重い。まるで全身が水に浸かっていたかのように、動かすたびに鈍い抵抗を感じる。手のひらを石畳につくと、冷たい水が指の間から溢れた。

 頭の中を探ってみる。

 名前は――。

 何も出てこなかった。

 どこから来たのか――。

 空白だった。

 家族は。友人は。仕事は。趣味は。好きな食べ物は。

 すべてが消えていた。

 頭蓋の内側は空洞のように空っぽで、過去という名の痕跡が、どこにも見当たらなかった。僕は確かにここに存在している。この手も、この足も、この体も実体を持っている。なのに、「僕」という人間を形作るはずの記憶が、何ひとつ残っていない。

 恐怖が込み上げてきた。

 自分が何者かわからないということは、こんなにも不安なことなのか。まるで、世界の中に自分だけが置き去りにされたような、底知れない孤独感。

 でも――。

 ひとつだけ。

 たったひとつだけ、確かなものがあった。

 ――――ねぇ

 雨音の向こうから、誰かが僕を呼んだ。

 それは声というより、感覚だった。言葉としての明瞭さはない。音として聞こえたわけでもない。でも、確かに「呼ばれた」という事実だけが、心の奥底に、石のように沈んでいる。

 男なのか、女なのか。

 若いのか、老いているのか。

 優しい声なのか、悲しい声なのか。

 それすらもわからない。ただ、その声――いや、その「呼びかけ」は、間違いなく僕に向けられていた。僕という存在を知っていて、僕を探していて、僕の名を――今は思い出せないその名を――確かに呼んだ。

 その残響だけが、空虚な記憶の海の中で、唯一の浮き木のように、僕を支えていた。

 僕は立ち上がった。

 足がふらつく。壁に手をついて、体重を支える。冷たい石壁から、雨水が手のひらに染み込んでくる。

 歩かなければ。

 その声の主を、探さなければ。

 それだけが、今の僕を動かす理由だった。自分が何者かを知るため。この空虚を埋めるため。そして何より――あの声が、僕を待っているような気がしたから。

 僕は、雨の中へ踏み出した。


 路地を抜けると、少し開けた場所に出た。

 広場、と呼ぶには狭すぎる空間。建物と建物の間に生まれた、不定形の空き地。そこに、人がいた。

 十人ほどだろうか。男も女も、老人も若者も、等しく雨に打たれながら、ただそこに立っていた。誰も動かない。誰も喋らない。傘を差している者はひとりもいない。

 皆、うつむいていた。

 顔を上げる者はいない。まるで、何かを待っているかのように、あるいは何かを諦めているかのように、ただ静かに、雨に身を委ねていた。

「あの」

 僕は、近くにいた男に声をかけた。

 返事はなかった。

 男は三十代くらいだろうか。痩せていて、頬がこけている。髪は濡れて額に張り付き、目は虚ろに地面を見つめていた。

「すみません」

 もう一度、声をかける。

 男がゆっくりと顔を上げた。

 その目を見た瞬間、僕は息を呑んだ。

 焦点が、合っていなかった。

 瞳孔は開いているのに、何も映していない。まるで、世界そのものが見えていないかのような、空虚な眼差し。

「……ぁ」

 男の唇が動いた。

「わから、ない」

 掠れた声だった。

「何も……わからない。僕は……誰だっけ」

 男の輪郭が、滲んでいた。

 いや、滲んでいる、というのは正確ではない。溶けている、と言った方が正しいかもしれない。雨に濡れた水彩画のように、その存在の境界が曖昧になっていく。肩の線が、腕の線が、指先が、少しずつ、周囲の灰色の景色と区別がつかなくなっていく。

「ここは……どこだっけ。僕は……」

 男の声が、遠のいていく。

「僕は……誰……」

 そして。

 消えた。

 音もなく。

 光もなく。

 ただ、そこにいたはずの人間が、雨に溶けるようにして、跡形もなく消失した。

 僕は声も出せずに、その場に立ち尽くした。

 男がいた場所には、何も残っていなかった。服も、靴も、何もかもが一緒に消えていた。まるで最初から誰もいなかったかのように。ただ雨だけが、変わらず降り続けている。

 周囲を見回すと、他の人々も同じだった。

 ひとり、またひとりと、静かに輪郭を失っていく。老婆が消える。若い女が消える。子どもが消える。誰も助けを求めない。誰も叫ばない。ただ、受け入れるように、諦めるように、雨の中で薄れていく。

 これは、何なんだ。

 恐怖が、背筋を這い上がってきた。

 この世界では、人が消える。雨に溶けるようにして、存在ごと失われていく。

 ならば、僕も――?

 その思考が脳裏をよぎった瞬間、僕は走り出していた。

 広場を抜け、路地を駆け、どこへ向かうでもなく、ただ前へ、前へと。雨が顔を打つ。冷たい水滴が目に入り、視界が滲む。それでも足を止めなかった。

 消えたくない。

 消えるわけにはいかない。

 まだ、何も思い出していない。

 あの声の主に、会ってもいない。

 肺が焼けるように痛い。足が絡まって、何度も転びそうになる。それでも走り続けた。

 どれくらい走っただろう。

 やがて、体力の限界が来た。僕は建物の壁に背中を預け、荒い息を吐いた。心臓が激しく脈打っている。全身が震えている。

 雨は、止まない。

 空を見上げる。果てしなく広がる灰色の雲。どこまで続くのか、果てがあるのかすらわからない。ただ、この世界全体が雨に閉ざされているという事実だけが、重く、僕にのしかかってくる。

 ここは、どういう世界なんだ。

 僕は壁に頭を預けた。冷たい石の感触。

 そのとき。

「――新入りか」

 声がした。

 僕は弾かれたように顔を上げた。

 三メートルほど先に、人影があった。

 フードつきの外套を羽織った、背の高い人物。顔は影になって見えない。でも、その立ち姿には、明確な意思があった。さっきの広場の人々とは違う。この人は、生きている。確かに、この世界で生きている。

「驚かせたか」

 低い声だった。男性だろうか。年齢は判別できない。

「あなたは……」

「俺の名はレイン」

 男――レインと名乗った人物は、ゆっくりと近づいてきた。フードの下から、鋭い目が覗く。四十代くらいだろうか。顔には深い皺が刻まれ、瞳は疲れ切っているように見えた。

「お前、今日目覚めたばかりだろう」

「……なぜ、わかるんですか」

「目を見ればわかる。まだ混乱してる。この世界の法則を知らない目だ」

 レインは僕の隣に立ち、壁に背を預けた。

「ここがどういう場所か、説明してやろうか」

「お願いします」

 僕は頷いた。

 レインは雨を見上げた。

「この世界では、雨が記憶を奪う」

「記憶を……」

「そうだ。この雨に濡れると、人は少しずつ、過去を失っていく。最初は些細なことからだ。昨日の夕食、通った道、誰かと交わした挨拶。そういう、取るに足らない記憶から消えていく」

 レインの声は淡々としていた。

「やがて、もっと大きな記憶が失われる。仕事、住んでいた場所、友人の顔。家族の名前。自分の名前。そして最後には――」

「消える」

 僕が言うと、レインは頷いた。

「そうだ。さっき見ただろう。あれが、この世界の終わりだ。すべてを失った者は、存在の輪郭を失い、雨に溶けて消える」

 僕は唾を飲み込んだ。

「でも、どうして。なぜそんなことが」

「わからない」

 レインは首を横に振った。

「ここがどういう世界なのか、なぜこんな法則があるのか、誰も知らない。ただ、俺たちはここにいて、雨に記憶を奪われながら、消えないように生きている。それだけだ」

「じゃあ、あなたも……記憶を」

「ああ。俺もほとんど失った」

 レインは自分の手のひらを見つめた。

「俺が誰だったのか、何をしていたのか、もう思い出せない。ただひとつだけ――」

 彼は言葉を切った。

「ただひとつだけ、残っている記憶がある」

「ひとつだけ?」

「この世界では、最も強い感情を伴う記憶だけは、簡単には失われない。それが最後の砦になる。その記憶さえ守れば、完全に消えることはない」

 レインは僕を見た。

「お前にも、何か残っているはずだ。思い出してみろ」

 僕は目を閉じた。

 頭の中を探る。

 そして――あった。

 ――――ねぇ

 雨音の向こうから聞こえた、あの声。

「声です」

 僕は目を開けた。

「誰かが、僕を呼んだ声。それだけが、残っています」

「声か」

 レインは小さく頷いた。

「なら、それがお前の砦だ。その記憶を失わない限り、お前は消えない」

 僕は胸に手を当てた。

 そこに、確かにあの声の残響がある。温かいような、切ないような、不思議な感覚。

「でも」

 僕はレインを見た。

「このままでは、いつか消えてしまうんですよね。記憶を取り戻す方法は、ないんですか」

 レインは少し考えるように沈黙した。

 やがて、口を開く。

「ひとつだけ、方法がある」

「方法?」

「誰かの記憶を聞くんだ」

「誰かの記憶を……」

「この世界では、他人の強い記憶の話を聞くと、自分の中に眠っている関連する記憶が刺激されて、蘇ることがある。共鳴、とでも言うのか。人の心は繋がっているから、誰かの感情が、お前の感情を呼び覚ますことがある」

 レインは雨を見た。

「だから、旅をする者もいる。人と出会い、記憶を分かち合い、少しずつ自分を取り戻そうとする。お前も、そうするといい」

「旅を……」

「ああ。もしその声の主を探したいなら、なおさらだ。動け。人と会え。話を聞け。そうすれば、いつか道は開ける」

 レインはそう言って、僕から離れた。

「待ってください」

 僕は慌てて声をかけた。

「あなたは、どこへ」

「俺は俺の道を行く」

 レインは振り返らずに答えた。

「お前も、お前の道を行け。いつかまた会うことがあれば、そのときは互いの記憶を語り合おう」

 そして、彼は雨の中へ消えていった。

 僕はその背中を見送った。

良ければコメントやブックマークくれると、作品を書くモチベになります!


気が向けば続きは上げていきます

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