水鏡
蝉の声が空を裂くように鳴り響く、ある夏の午後。
少年は、近所の神社の裏手にある林で、夕方の鐘が鳴るまで遊んでいると、一つの奇妙な水溜まりを見つけた。
枯れた土の上に、ありえないほど澄んだ水。
しかも、空も木も映っていない。ただの鏡のような水面が、静かに揺れている。
「…変なの。」
しゃがみこむと、そこに自分の姿が映っていないことに気づいた。
その代わりに…知らない少年が水の中からこちらを見上げている。
目が合うと、その少年は口を動かす。
声はないが、唇の動きで言っていることが分かった。
「こっち、きて…」
背中に冷たい汗が走った。
怖い……
でも、なぜか視線を離せない。
その時、ふいに背後で蝉が大きく鳴いた。反射的に振り返り、再び水溜まりを見た時には、もう…何も映っていなかった。
***
夜、夢にあの水溜まりが出てきた。
今度は、自分が水の中に居て、上に立つ見知らぬ誰かを見ていた。
…いや、それは鏡に映った『もう一人の自分』だった。
自分の顔なのに、目だけが真っ黒に潰れている。
「お前が来ないなら、俺が行く。」
そう言った瞬間、鏡が割れるように水面が砕け、目が覚めた。
目を開けたはずなのに、視界は暗い。
頭上には、水面が揺れている。
「……え?」
自分が水の中に居る?
しかも、息ができるし苦しくない。
水面の向こうには、確かに自分の姿をした誰かがこちらを見下ろしていた。
「こっちの世界は静かで、気持ちがいいよ。」
声が、水越しに響いた。そしてその『誰か』は、にたりと笑って、背を向けて歩き去った。
水面のこちらに残された少年は、どこまでも青く沈んでいく…
林の中の水溜まりは、翌日には干上がっていた。
***
それから数日後。
少年が突然失踪したと大騒ぎになっていた。
警察も捜索隊も手掛かりを見つけられない中、妹が何気なく神社の裏を通った時、不自然なほど丸く澄んだ水溜まりを見つけた。
そこには、兄の声に似た声が、確かに聞こえた。
「……ねえ、見て……鏡……の中……」
そして、また一つ、夏の怪談が生まれた。