第5話
黒い子犬はいなくなってしまった。
目が覚めた時、あの子はもういなかった。
クッションのくぼみと、ほんの少しのぬくもりだけを残して。
一緒にいられたのは一晩だけだったけど、子犬は私の心に大きな変化をくれた。
子犬がいなくなったことは悲しかったけど、それだけじゃなかった。
心の奥に、小さな火が灯ったようにあたたかい気持ちが残っていた。
誰かを守りたい、幸せにしたい、愛しい、と思ったのは、生まれて初めてだった。
あの夜、私は確かにあの黒い子犬と心を通わせた。
それが、こんなにも幸せなことだったなんて、知らなかった。
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その頃から、私は少しずつ——ほんの少しずつ、変わっていった。
家族と目が合った時、そらさずに微笑むようにしてみた。
「ありがとう」と言う時、声にほんの少しだけ温度を込めてみた。
そして、ある日。
「……わたし、お料理をしてみたいの」
おそるおそる厨房のメイドにそう告げた時、彼女は目を丸くした。
「お嬢さまが?」と驚かれたけれど、すぐに「ぜひご一緒させてください」と言ってくれた。
きっかけは、幼い頃の記憶だった。
風邪をひいて寝込んだとき、母がシェフではなく、自分でお粥を作ってくれた。
お鍋の蓋を開けたときの湯気。
木のスプーンで冷ましながら、食べさせてくれたあの一口。
額にあてられたやさしい手のひら。
全部が、とても嬉しかった。
“こんなふうに、私も大好きな家族をあたためられたらいいのに”
——そう思った。
それに、捨て猫だった前世では、いつもお腹を空かせていたから、私にとってご飯は特別なものだった。
あの頃は味が美味しいかどうかなんて関係なく、食べれるだけで嬉しかったな。
そして私は、小さなサンドイッチやスープ、お菓子を練習した。
時間はかかったし、手際も悪かったけれど、
できあがった料理を家族が食べてくれると思うと、胸がふわっとあたたかくなった。
たまに、家族の朝食にそっと一皿加える。
メニューに紛れ込ませて、そっと置くのが好きだった。
気づいてくれるかな。美味しいって言ってくれるかな。
父は無言で口に運んだあと、ほんの少し口元をほころばせた。
母は「これ、もしかして……」と気づいて、目を細めて笑った。
でもいちばん嬉しかったのは、妹・エリナの反応だった。
「お姉さま! 今日のパンケーキ、もしかしてお姉さまが作ったの? ふわふわで、甘くて……すっごく好きっ!」
顔を真っ赤にして、満面の笑みで喜んでくれた。
私の作ったものが、家族の幸せになる。
それは、小さな奇跡のようだった。
愛されたい、と願うだけじゃなくて。
わたしからも、愛してみたい。
その気持ちが、初めて心の奥から湧きあがっていた。
あの子犬が教えてくれたんだ。
“誰かを想う”って、きっとこういうことなんだって。
私は不器用だし、まだ家族を完全に信用できなくて苦しい。
でも、いつか本当の自分を出して家族に甘えられる日が来るかもしれないって思ってる。
なにより、父のことも母のことも妹のことも、
“愛している“ってちゃんと思えるようになれたことが嬉しい。
今日も私は朝ごはんのオムレツを作りながら願いを込める。
「家族みんなが、今日も明日もずっとずっと幸せでいられますように。
みんなが笑顔でいられますように。」って。