第3話
午後の紅茶の時間が終わると、私はお気に入りのケープを羽織って、屋敷の裏に広がる森へと向かった。
いつもの散歩道。
本当は一人で出歩くのは禁止されているけれど、今日はどうしても、静かな場所に行きたかった。
「……あの子は、いいなあ」
さっき、妹のエリナが母に抱きついて甘えていた光景を思い出す。
甘えられるのは、信じているから。
信じられるのは、失ったことがないから。
——私は、それができない。
足を進めるうちに、木漏れ日がだんだん濃くなっていった。
そして、その時だった。
「ワンッ! ワンワンッ——ギャアアアアアッ!!」
甲高い悲鳴と、羽ばたく音。
私は思わず草むらをかき分けて駆け寄る。
そこには、小さな黒い子犬と、真っ白な巨大な鶏がいた。
いや、鶏というにはあまりに威圧的な……まるで魔獣のような存在。
「やめてっ!」
私は咄嗟に魔法陣を展開し、習いたての結界魔法を鶏にぶつけた。
弾き飛ばされた鶏は、木の根にぶつかった後逃げていった。
「大丈夫……?」
震える子犬にそっと手を伸ばすと、その子はふわりと私の胸に飛び込んできた。
体温が伝わってくる。
とても、懐かしいぬくもりだった。
私はその小さな命を胸に抱いたまま、そっと立ち上がった。
「うち、来る?」
子犬は私の目を見つめ、こくんと小さく頷いた気がした。
子犬が怪我をしていないようでよかった。
⸻
なんとか屋敷に戻り、誰にも見つからずに自室に入る。
私はすぐに部屋の扉を閉めて、子犬をクッションの上にそっと置いた。
「ここが、わたしの部屋。ゆっくりくつろいでね。」
子犬は周囲をくんくんと嗅ぎまわり、やがて私のベッドの足元に丸くなった。
その姿に、思わず笑みがこぼれる。
「……ごはん、食べる?」
ベルを鳴らして、厨房に「小腹が空いたから、あまり濃くないお肉の入ったスープを」とだけ頼んだ。
数十分後に届いた湯気の立つスープを、私は小さなお皿に移して差し出す。
「ゆっくりね。熱いから」
子犬はおとなしく、それをぺろぺろと舐め始めた。
なんて不思議な子。
初めて会ったはずなのに、一緒にいると安心してしまう。
ふわふわで可愛くてたまらない。
夜になり、私はベッドに潜り込んだ。
子犬も自分からベッドに跳び上がってきて、私の胸元で丸くなる。
私はそっと、子犬の背中に手を置いた。
子犬をぎゅーっと抱きしめてほっぺをスリスリした。
子犬はお日様のいい匂いがした。
「……わたし、猫だったの。前の世界でね」
その一言が、自分でも驚くほど自然に出てきた。
「何度も捨てられた。たくさん人がいても、誰も“家族”になってくれなかった。
ごはんをくれる人はいても、“そばにいるよ”って言ってくれる人もいたけど、みんな嘘だったの。
何度拾われてもすぐ一人になった。寒い日も暑い日も、公園で一人うずくまって耐えてたの。」
子犬は何も言わない。ただ、あたたかくて、静かで。
「だから……あなたは、ずっとそばにいてね。今度こそ、離れないで」
私がそのまま目を閉じると、子犬はぴたりと体を寄せて、鼻をくすぐるように擦りつけてきた。
その夜、私は久しぶりに——いいえ、きっと人生で初めて、誰かのぬくもりに包まれて眠った。
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朝。窓から差し込む光に目を細める。
「……おはよう。今日もお肉のスープでいいかな……?」
ふと隣を見て、私は息を呑んだ。
子犬は——いなかった。
枕元には、あたたかさの残るくぼみと、一筋の黒い毛が残されていた。
「……また、いなくなっちゃった」
心がすうっと、冷えていくのを感じた。
期待するんじゃなかった。
期待した分、ぬくもりを知ってしまった分、前よりも寂しく辛く感じてしまったから。
あの子犬にも家族がいるだろう。
これでよかった。
あの子犬が家族と幸せに暮らせていますように、とお祈りをした。