071 解呪-2/2
「さ、次は判断力を鈍らせる呪いね。いくわよ」
エリカが再び集中すると、残っていた黒いもやが、一段と激しく抵抗を見せた。
夫人の体が、椅子から浮き上がりそうなほど力強く跳ね上がる。
「くっ……この呪い、思ったより頑固ね!」
水晶石がビリビリと震え、ひび割れが走る。まるで持ち主の限界を訴えるように。
「エリカさん、水晶が……!」
スーシーが不安げに声を上げた。
「大丈夫……まだ持つわ!」
額に張りついた前髪。滲む汗。
エリカの詠唱はさらに速度を増し、手元の光が眩しいほどに強まっていく。
そして――
パキンッ!
二つ目の呪いが砕けるように空気の中へ消え去った。
「……解除完了。残るは、あとひとつ」
エリカはカールからタオルを受け取り、額の汗を拭きながら、大きく息を吐く。
夫人の表情にも、ようやく安堵の色が浮かびはじめていた。
だが、最後に残された黒いもやは、まるで心臓に根を張った寄生獣のように、しっかりと食い込んでいる。
「最後の呪いは……かなり厄介。これは、意志を弱めるタイプ。心の奥深くにこびりついてるわ」
エリカの額から、さらに大粒の汗が滴り落ちた。
そのとき水晶石に、ひときわ深いひびが走る。
「……まずい、水晶が……もたないかも」
「エリカ、無理しちゃダメだ!」
カールが焦った声をあげるが、エリカは小さく首を横に振った。
「ここで止めたら、呪いが暴走する。夫人の命が危ない……!」
――まさに、最後の勝負。
エリカは渾身の魔力を込めて、強く光を放つ。
黒いもやが断末魔のような低いうなり声を上げ、激しくのたうち回った。
夫人の体が大きく痙攣し、室内の家具がガタガタと揺れる。
まるで空間そのものが悲鳴を上げているようだった。
「よし、核を見つけた! でも慎重に……一気に引き抜くわよ!」
パリンッ!
水晶石が完全に砕け散った、そして——
最後の呪いも、黒い煙のように霧散した。
不穏な気配がすっと消え、代わりに淡く、優しい光が夫人を包み込む。
「終わったわ」
エリカが深く息を吐く。
夫人はゆっくりとまばたきをし、きょろきょろと周囲を見渡した。
その瞳に、もう濁りはなかった。
「私は……いったい……」
「大丈夫。呪いは完全に解けました」
エリカの声に、夫人の顔色がさっと青ざめていく。
ゆっくりと、自分がしてきたことを思い出し始めたのだ。
「リリエス……私は……」
浮かぶ涙は、もう呪いのせいではない。
本物の、母親としての後悔だろう。
「お母さん、もう大丈夫。これからは、一緒に父上を支えていきましょう」
優しい声。きっと、リリエスだろう。
二人はそっと手を取り合い、夫人は静かに目を閉じた。
――長く続いた呪縛がようやく解け、心も体も、限界を迎えていたのだろう。
彼女は静かに、深い眠りへと落ちていった。
「しばらく寝かせてあげて。目覚めたら、きっと元のやさしいお母さんよ」
エリカが静かに言った。
▽▽▽
そんな穏やかな空気を切り裂くように、廊下から足音が聞こえてくる。
何かを引きずるような、重たい足取りだった。
扉が開き、ボイドが入ってっくる。
その肩には、意識朦朧の領主――夫人の夫であり、リリエスの父親が寄りかかっていた。
「はあ……次は領主様か。やるしかないわね」
領主の姿に、皆が息をのんだ。
立っているのがやっとで、魂の抜けたような顔。
目には焦点がなく、ボイドの腕がなければ、とっくに崩れ落ちていただろう。
エリカの表情が一変する。
「……これは厄介ね。時間がかかるわ」
軽口も、余裕も消えていた。
目には、治療師としての真剣な光。
「解呪が遅れていたら、命を落としていたかもしれない」
つい先ほど、見事な処置を見せたエリカが、そこまで言うってことは……
それだけ、症状は深刻なのだろう。
「男ってのは面倒よ。プライドばっかり高くて、理想とか夢ばかりを追いかけて……自分を見失うの。そういう人ほど、呪いにとっては格好の標的。結局、自分で自分の命を削っちゃうんだから、ほんとバカみたい」
部屋の男たちが、ばつが悪そうに目をそらす。
――はい。面目ないっす。……俺は一応、心の中で謝っておいた。
エリカの言葉には、妙な説得力があった。
男の弱さを、彼女はきっと、誰よりも知っているのだ。
俺の脳裏にも、これまでの領主の姿が浮かぶ。
誇り高く、気高くあろうとした人間の、ぎりぎりの戦いが、そこにはあった。
しかし、まさか。昨日の今日で、ここまで衰弱するとは。
あの気丈だった男が、いとも簡単に崩れていく姿を、まだ受け止めきれずにいた。
「夫人は別の部屋に。領主の治療には、集中できる環境が必要よ」
エリカが即座に指示を出す。
皆がテキパキと動き出す中、俺は一歩下がって、ジェフに声をかけた。
「ここは任せる。俺は、街に戻るよ」
ジェフは静かにうなずいた。
廊下を歩きながら、ふと窓の外に目をやる。
夕焼けが、世界を赤く染めていた。
終わりを告げるような静けさの中に、それでも確かに、新しい光の気配があった。
——きっとまだ、間に合う。




