242 撤退。そして
その場に戻ってくると、皆がそれぞれ別々の方向へ散っていた。
壁にもたれている者、地面に座り込みぼんやりしている者──まるで全員、魂をどこかに落としてきたみたいだ。
ここは、前にクモっ子たちに案内されて来たあの広間だ。見上げれば、天井の近くにぽっかりと空いた穴が見える。俺たちが落ちてきた、あの穴だ。
「クモっ子たち、また呼べるよ」
視線を上げた瞬間、ツナグがぽつりとつぶやいた。
俺ははっとして、隣に立つ彼女を見る。クモっ子を呼ぶ──それはつまり、この場所から“逃げて帰る”ってことだ。その選択肢を突きつけられたようで、胸に冷たいものが落ちた。
──逃げて帰る、か……。
「みんな怖がっちゃって隠れてるけど、呼べばすぐ来てくれると思うよ」
ツナグはそう言って、俺の手をぎゅっと握りしめた。
真っ直ぐな瞳が、まるで“決断を促している”みたいで、俺は思わず視線を逸らした。
そして、周囲を改めて見回す。
負傷者はいるが、命にかかわるほどではない。その代わり、全員が肩で荒い息をしていた。敗北の空気が、重くのしかかっている。
中には地べたに膝を抱えて座り込み、完全に心が折れちまってる奴もいた。
コール隊のメンバーは……。ラスクは何やら屈伸したり上下に跳躍したりしながら体を温めている。ジェフとアッシュは壁にもたれて座り込み、クラリスに治療してもらっていた。
アリスとルクスは、何やら小声で相談している。内容はわからないが、アリスの肩が落ちているのを見ると、あまり前向きな話じゃなさそうだ。
カルアはボイドやカールたちの輪の中に入り、真剣な顔で何か話し合っている。
そんな風にぼんやり全体を眺めていたときだ。
「隊長」
声をかけてきたのは、リリエスだった。
「やあ、来てくれてありがとう。……随分、印象変わってて驚いたよ」
自分でも驚くほど、意味のない言葉が口からこぼれた。思考がまだどこか、エリオットのあの恐ろしい姿に置き去りになっているのだ。
「皆が支えてくれたんです」
リリエスが微笑む。その視線の先には、ルーデリック領軍の兵士たちがいた。みな、ぐったりと座り込み、それでも互いの背を支え合っている。
その光景を見た瞬間、胸にきゅっと痛みが走った。
みんな、必死に戦ってくれたんだ。
そして──俺は、世界を救えなかった。
今の俺にできるのは、疲れ果てた仲間たちをただ見つめることくらいだった。
「コール隊長」
懐かしい声に、ハッと顔を上げた。
リリエス……じゃない。姿形はリリエスだが、違う。似ているのに、どこか全部がズレている。
そこに立っていたのは──間違いない。ライエスだった。
「ライ……エス?」
俺が名を呼ぶと、彼──いや“彼女”の姿の彼は、クシャリと顔をほころばせた。
「覚えていてくれましたか」
「忘れるわけないだろ。ついこの間のことじゃないか」
俺が言うと、ライエスは照れたように頬をかいて「嬉しいです」と微笑んだ。
「僕にとっては、けっこう前のことに感じて……久しぶりに、リリエスにお願いして変わってもらったんです」
「今は……もう?」
「はい。基本はリリエスがやってくれてますから、僕の出番はないですね」
肩をすぼめる仕草が、あの夜、領主邸で再会したときとまったく同じで思わず胸が痛んだ。
「とはいえ、妹は相変わらず“守るほう”専門で……攻撃魔法はどうにも苦手みたいですけどね」
「リリエスらしいな」
「ええ、ほんとに。でもここへ来る前、ドラゴン相手に頑張ってたんですよ。隊長にも見てほしかったなー」
その言葉に俺は思わず目を瞬かせた。
「ドラゴン……?」
「ここにいた竜種の怪物が、スタンピードの混乱で外に出ちゃって。それを、ボイドさんたちとリリエスで撃退したんです」
「すごいな。……あんな奴を倒すなんて」
「でしょ? 大きさとか強さとか……そんなの、僕らには関係ありません。やると決めたら、戦う。言いましたよね──僕ら、コール隊の大ファンなんですよ!」
無邪気に笑うくせに、妙に鋭い。その一言が、胸の奥のどこか柔らかい部分に、ずぶりと刺さる。
視線を真正面から受け止めきれず、思わず俯いた。……やめてくれよ、そういうの。
だがライエスは気づいていてもお構いなしに話を続けた。
「ほら、あの夜。抜け殻だらけ中へ領主邸から飛び出して……刻の鐘の丘で、隊長とラスクさんと戦ったこと。僕、あれ、本気で誇りにしてるんです」
「そっか……」
ライエスはふと、俺の隣に立つツナグへ視線を向けた。
「彼女は?」
「この間、仲間になった精霊のツナグだ」
ライエスは一瞬だけ息を飲み、そのあと悲しげに目を伏せる。
「あなたから見たら……エクリプスで無理やり加護を得た僕なんて、醜悪な魔獣に見えるんでしょうね」
ツナグはそっと首を振った。水面の揺らぎのように優しい眼差しだった。
「そんなふうに思わないよ。あなたの中のみんな、二人をずっと心配していたもの」
ライエスは肩を震わせ、固まったように動きを止めた。それからゆっくり顔を上げ、心底嬉しそうにツナグを見る。
「……ありがとう」
ツナグは微笑み、首を横に振った。
「お礼を言われるようなことじゃないよ」
そしてライエスは、改めて俺に向き直った。
「ずっと……隊長にもお礼が言いたかったんです」
「お礼? 街を救った、とか? 軍人ならそんなの──」
言い切る前に、ライエスはやわらかく遮った。
「違いますよ。もちろん街の人にとって、コール隊は英雄です。それは僕も分かってます」
──英雄。その言葉だけが、ひどく重くのしかかった。
「でも僕が言いたい“お礼”は……僕とリリエスの世界を変えてくれたこと、です」
ライエスは照れくさそうに、けれど誇らしげに笑う。
「隊長から見たら些細に聞こえるかもしれない。でも……僕の話を聞いてくれて、リリエスを見つけてくれて、僕らを外に連れ出してくれた。僕らにとってそれは、“世界が裏返るくらい”大きな出来事だったんです」
俯いていた俺の顔を、そっとのぞき込む。
「僕ら、あの屋敷の中だけで生きてきました。心の色に押しつぶされて、逃げ場もなくて。でも隊長が外へ連れ出してくれた。世界って、こんなに広かったんだって。きっと隊長が言った“世界を変える”って……こういうことなんだと思います。小さいかもしれないけど」
そう言うと、ライエスはペロッと舌を出した。
その顔は紛れもなくライエスで──どこかリリエスの面影もあった。
可愛らしくて、思わず頬がゆるむ。そして自然に言葉がこぼれた。
「……でも、それは二人がそう願ったからだよ」
彼と彼女が外へ出たいと願ったから。俺が“世界を変えた”だなんて、思い上がりだったのだ。
一瞬、俺の中に風が吹き抜けるのを感じた。胸に張り付いていた何か、それが、思い込みで固まった何かを消し去るように。
──ああ、そうか。そういうことか。
胸の中にへばりついていた重さが、ふっと剥がれ落ちた。その瞬間、力が抜けて、笑いが込み上げた。
「だ、大丈夫ですか……?」
ライエスが不安げに覗き込む。
「大丈夫。ただ……なんかもう、自分が急にバカらしくなってさ」
世界を変えるだの、救うだの。ついさっきまで拳を握って息巻いていた自分が可笑しくなる。
世界は俺たちが変えるんじゃない。“変わりたい”と願った人が、少しずつ形を変えていくんだ。
その当たり前が、今ようやく胸に落ちた。
ふっと息を吐き、前を向く。両の掌を合わせ強く握る。まだ、この手は温かかった。
「おいおい……こんな状況で笑うって、どんな神経だよ」
ボイド、カール、カルアが戻ってきた。さっきまで眉間に皺を寄せて相談していた三人だ。
「で、どうする? 撤退か。それとも──」
ボイドの問いを、俺は笑ったまま手で制した。
「……逃げない。逃げる理由が、もうどこにも無くなった」
三人の視線が一斉に集まる。その重みを正面から受け止めて、俺ははっきりと言った。
「俺は──奴の描く世界が嫌いだ。叩き割りたいぐらいにな」
息を呑む音が重なった。けれど次の瞬間には、全員の口元が同じ形になる。
「……お前ら、一緒にやるか?」
仲間たちは一瞬ぽかんとして──結局、そろって同じ笑顔で応えた。
「当たり前だろ」
ボイドが肩をすくめる。
「今回は俺たちも、“コール隊”なんだよ。お前が突っ走るなら、俺らが止めに──いや、付き合うに決まってんだろ?」
カールは短く頷いただけだが、その目は揺るぎなかった。
リリエスは胸元で震える指をそっと握り、まっすぐ前を見る。
カルアは、まるで家族を見守るみたいに柔らかな笑みを浮かべていた。
「──よし。決まりだな」
俺は仲間たちを見回した。
「みんな、聞いてくれ!」
俺の声に、全員が顔を上げる。
「俺たちは、今から再びエリオットと戦う。だが、これは“世界を救う戦い”じゃない」
一瞬の沈黙。
「これは、“俺たちの世界を守る戦い”だ。俺たちが大切にしたいものを、奴に奪わせない。それだけだ」
仲間たちの目に、光が戻り始める。
「だから、誰も無理はするな。死ぬな。生きて帰れ。それが、俺からの命令だ」
ラスクが立ち上がり、剣を掲げた。
「了解ニャ! コールの無茶振り、ここからが本番ニャ!」
その声に、全員がゆっくり立ち上がる。
疲労で足が震えている者もいる。
傷が開いて、にじむ血を気にする者もいる。
それでも誰一人、引く気配なんてなかった。
──そうだ。
こいつらは、そういう奴らなんだ。
俺たちは、もう一度、前に進む。
世界を救うためじゃない。
「正義」のためでもない。
俺たちが守りたいものを、ちゃんと守れるように。
ただ、それだけのために。




