241 敗退!?
「おい……まずいぜ、これ……」
ジェフの声が震えていた。
「精霊王の力に、ザリウスの闇が加わった……」
ゆっくりと顔を上げたエリオットが、こちらを向く。
その瞳──もう“人間”としての温度はどこにも残っていなかった。
「さあ、コール。始めようか。君を“魔王”として討ち取り、私は真の英雄となる」
轟音。
洞窟全体が腹の底から揺れた。
エリオットの周囲へ、無数の精霊が押し寄せる。
光と影が絡み合い、暴風の渦となって巻き上がった。
いや──それだけじゃない。
ザリウスが抱え込んでいた闇の精霊までもが、悲鳴をあげるように吸い込まれていく。
「こんなことって……」
アリスが泣きそうな声でつぶやく。
「精霊たちが……みんな泣いてる」
「泣いてる? どういうことだ?」
問いかけると、アリスは首を激しく振った。
こぼれる涙をぬぐおうともせず、胸の前で両手をぎゅっと握りしめている。
こんなアリスを見るのは……初めてだった。
「みんな、戦いたくないの! 本当は平和な存在なんだよ、精霊って!」
その声に、カールが眉を寄せた。
「だがスタンピードでは、魔獣を操って俺たちを襲ってきたじゃないか」
「違うの! あれは逃げてたの! この洞窟に“奴”が入り込んだから!」
アリスはエリオットを指さした。
銀の王子の顔は、まるで硬い仮面のようで、微動だにしない。
「……つまり、取り込まれないよう逃げてた、ってことか」
俺の言葉に、今度はツナグが小さく頷く。
「うん。今もみんな必死で抵抗してる。でも、精霊王の刻印が奴の中にあるから……引き寄せられちゃうの」
俺には牙を剥いて襲いかかってくるように見える精霊たち。
けれど──真実はまったく逆だった。
「じゃあ、なんでツナグは無事なの?」とカルア。
ツナグは苦い表情で首を振った。
「本当なら、私も吸われてる。
だけど……私にも、サンフェリスにも、ルーシャルにも、“居場所”がある。
それが私たちをつなぎ止めてくれてる」
“居場所”。
その言葉に、ルーシャルの迷宮で見たルクスの涙が脳裏によぎった。
──精霊ですら、自分の居場所を探してるんだな……
胸の奥がきゅっと締めつけられる。
そんな俺の思いとは裏腹に、ツナグの声はなお重く響いた。
「でもね……この湖を居場所にしてた精霊は……みんな引っ張られて、食べられちゃう」
──食べられる? 冗談じゃない!
「その子の言う通りよ」
アリスが震える声で言った。
「奴は精霊を“食べて”るの。
飲み込んで、力に変えて……」
アリスは自分の肩を抱きしめ、寒気を抑えるように身をすくませた。
「地獄よ……こんなの……。だから逃げるしかない!
逃げ切れるかなんて知らない! でも戦っちゃダメ! 勝てるわけない!」
「そんなこと言っても……!」
逃げ切れないなら、どうする。
迷いを振り払うように一歩踏み出した、その瞬間──
ジェフとアッシュが俺を追い越し、一直線にエリオットへ斬りかかった。
エリオットは視線すら向けず、ただ手をひと振り。
風も音もない。
次の瞬間、二人は壁際まで吹き飛ばされていた。
「ぐっ……何だよ、あれ……! これじゃ止めようがねぇ……!」
「だから言ったでしょ!」
アリスが叫ぶ。
「奴の体、見たでしょ!
もう血なんて一滴も流れてないの!
斬れない、傷つかない……!」
逃げるしか、ない。
未来をまた変えられなかったのか──。
拳を握りしめる俺の前で、エリオットはゆっくりと歩み寄る。
その背後。
黒い水たまりのような影が、ぬるりと動いた。
影はエリオットの足元でブクブクと盛り上がり、絡みつく。
形を変えながら──顔をつくる。
ジギル。
粘液の身体がエリオットの脚を這い登り、まとわりついていく。
「殿下……殿下ぁ……私です、ジギルでございます……どうか、どうか置いていかないで……」
下半身まで覆われ、ようやくエリオットが煩わしげに視線を向けた。
今だ──!
「撤収!! 走れッ!!」
逃げ場なんてない。
それでも、今は立て直すしかない。
俺はアッシュとジェフを抱え起こし、巨大空間の出口へと全力で駆けだした。
──何もできなかった。
結局、世界は変えられなかった。
唇を噛む。
鉄の味がじわりと滲んだ。




