異世界転移-1
少年の目覚めは最悪も最悪だった。
複数の大人がざわつき、時に怒鳴るような、叱りつけるような声でもやがかかった意識が少しずつ晴れていく。
痛む頭を摩りながら体を起こすと、背筋に寒気が走った。
振り返ると、そこには神様でも奉るかのように頭を深々と下げた大勢の人がいた。
慣れない光景に口を開けずにいると、そこにいた男が二人、率先して少年の方へ駆け寄った。
「お、おお!お目覚めになられたぞ!」
「啓示様、お体の具合は如何ですか?ご自分のことは分かりますかな?」
40代か50代くらいの男が二人こちらへ詰め寄り、アップで見るには耐えない顔が差し出される。
俺は16年生きてきたが、これ以上に辛い目覚めの経験が過去にあれば、「ちょっと離れてくださいよ」なんて笑いながら言えたのだろうか。
「うわっ?!えっちょ、何?!近い!」
たかが16歳にできるリアクションは精々この程度だと思う。
気を悪くされたかもしれないが、どうか許してほしいと願うばかりだ。
「…えっ、あの…え?本当に何?誰?つーかここは」
「お二人共、啓示様から離れなさい」
少年の脳は非常に混乱していた。
10歳の時に叔母がプレゼントしてくれた、シュールレアリスムだか何だかの絵画の1000ピースパズルを組んでいる時よりも混乱していた。
突然訳の分からない景色が目の前に広がっている上に、見知らぬ大人が迫真の顔でこちらの身を案じるなんておかしな事、混乱するなと言う方が無理がある。
「これは葉様!大変失礼致しました」
ヨウ様と呼ばれたその男が静止してくれていなければ、この場はどうなっていただろう。
大きいわけではないのによく通る凛とした声は、目の前の姿勢の良い男が発したらしい。
未だ座り込んだままの俺と目が合うと、穏やかに微笑み目線を合わせるように跪いた。
白髪を見るにかなりのお年だろうが、40代半ばの父よりずっと若く見えた。
「突然のことでご混乱でおいででしょう。すぐにこの場から離れさせてご覧にいれます。その為にも一度私の言う通りにして頂けませぬでしょうか」
跪いた彼は小さな声でそう言った。
他の人には聞こえていないらしく、健気に頭を下げたままだ。
この場で話が通じそうなのはこの人だけかもしれない。
こくこくと頷くと、彼は手を差し出した。
恐る恐る自分の手を乗せると、彼はそのまま俺を引っ張り上げるように立ち上がった。
「同志諸君、聞きなさい。新たな啓示は無事降臨なされた。彼に盛大な拍手を!」
ヨウさんがそう声をかけると、一瞬の静寂の後、耳をつんざくような拍手喝采が部屋中に響いた。
よく見るとそこは大きなホールのような場所だったが、体育館より広いホールで聞いたことがない轟音が響き渡る。
頭と耳がおかしくなりそうだった。
「さあ、こちらへ。足元にお気をつけ下さい」
村の期待の若者の門出を祝うかの如く降り続ける拍手の雨をまるで気にする様子もなく、ヨウさんは俺の背中を押し退場を促す。
しつこいくらい拍手をしてくれているのに良いのだろうか、と若干の罪悪感を覚えながら示された扉に向かっていると、「ああそうだ」とヨウさんが言うので、つられて聞き耳を立ててしまう。
「メイフを連れて行きなさい」とか言っているのが聞こえたけれど、如何せん拍手の音がうるさいので、彼が本当にそう言ったのかなんて俺は知る由もなかった。
「…えっと、つまり俺は、元いた世界とは全然違う世界に召喚されてここにいると?…手の込んだ誘拐ですか?身代金なんか出ませんよウチ裕福じゃないし」
「取り急ぎ理解しろなどとは申しません。ただごゆっくりでも私達を信用していただければ幸いです」
「…嘘っぽくも見えないんだよなあ」
彼の説明にううむ、と頭を悩ませるが、やはり信じるしかないのだろう。
目の前の中華風にも和風にも見える衣装を身にまとった男性は葉さんというらしい。
オールバックの白い髪の毛に琥珀色の瞳が映えるスタイリッシュな男性だ。
荒唐無稽な話をするような人には見えない。
それに先程の居心地の悪い空間から俺を連れ出してくれたのは他でもない葉さんだ。
信じる信じない以前に、俺は既にこの人を信じたかった。
「…分かりました、とりあえずそういう事だって思います。まだあんまよく分かってないけど…けいじ?とか」
「順を追って説明致します」
ティーカップにトポポ、と注がれる紅茶は嗅いだことのない良い香りで、部屋にふわりと漂う。
「どうか肩の力を抜いて下さい」と笑いながら言うので、俺は今になってやっと自分の体が強ばっていることに気がつく。
何だか恥ずかしくて、誤魔化すように差し出された紅茶を一口啜った。
「まずは貴殿の…空井様の世界とこの世界、二つの異なる世界の干渉についてお話ししましょう」
「太陽でいいですよ。様とかもなんかこそばゆいからつけなくても」
「お気になさらず」
俺のお願いを軽く躱して葉さんは笑う。
見知らぬ年上に空井様なんて呼ばれてしまうと普通は申し訳ないと考えるものだろう。
そんな俺の幼気な気持ちを知ってか知らでか、気に留めようともせず葉さんは説明を続ける。
学校の先生と話しているみたいだ。
「まず召喚について。此度行った召喚は特別な物であり、100年に一度各国で行っている伝統的なものです。我々は空井様を含め、召喚した別世界の者を敬意を込めて啓示様とお呼びしています」
「啓示様。それはまた何でそんな呼び方をするんですか」
「長くなってしまいますが、分かりやすいかと思いますので歴史の方から話してもよろしいですかな」
もちろんの意を込めて頷くと、ふいに葉さんは右手の掌を天井に向けた。
どうしたんですかと俺が尋ねるより早く異変は起きる。
淡い光が葉さんの掌から溢れ始めたかと思えば、次の瞬間何もなかった掌の上に辞書程の厚さの本が乗っていた。
瞬きもせずその様子を見ていたはずなのに、目の前で起こっていることの半分も理解が出来なかった。
「順を追って説明致しますよ」と、俺の表情を見て察したらしい葉さんはまたクス、と笑う。
彼は厳格なおじさんといった雰囲気だが、笑顔の柔らかさはこちらの不安を解くものだった。
ページを捲っていた手がぴたりと止まると、その中から一枚の紙を取り出しテーブルに広げる。
そこに描いてあったのは海に囲まれた島と大陸を示した地図だった。
「かつてこの世界は一つの大陸で出来ていました。しかし最初の神が世界を創りたもうた数百年後、人の安寧の地として大陸から人間のための島を切り離したのです。何千年もかけ進化を遂げているため今では純粋な人間も減っていますが獣人や竜人は増えているという現状でございます」
「古事記みたいですね。獣人かあ、いいなあ」
「それから島は四つの国に分かれました。春の国椿、夏の国睡蓮、秋の国彼岸、冬の国石蕗つわぶき。空井様をお呼びしたのはここ、秋の国」
手にあった本をテーブルに置き、葉さんはソファから立ち上がり窓に手をかける。
開いた窓から吹く風と覗く景色はまさに「秋の国」と称するに相応しい。
秋といえば想像するのは若々しい萌葱の葉が蒲色や小麦色に変化する様。
紅葉の最も美しい瞬間を切り取りたなびかせているかのような木々が窓の外に広がる。
今いる部屋は階層が高いところにあるみたいだが、市街地の様子も少しだけ伺える。
街ゆく人々の人種は様々で、だが険悪な空気は感じることはなく賑わっている。
魔王が侵略しているとか、人種間での差別が酷いだとか、そういった悪意が露骨に透けて見える「嫌な異世界」でなくて本当によかったと安堵のため息を吐いた。