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エレナの父と母は良くも悪くも典型的な貴族で、歴史と伝統ある家門を守ることを何より大切にしていて、それを疑うことを知らない人たちだった。
二人とも優雅で人当たりも良く、エレナも別に辛く当たられたり冷たくされたわけではない。ただ、遅くに生まれた後継ぎだった、弟のマティアスと彼女の間には、明確な扱いの差があった。
弟は生まれた時から体が弱く、季節の変わり目など、よく高熱を出しては生死の境を彷徨った。そうした時、エレナは両親に何日も放って置かれることが多かった。
その頃には大分人数を減らしていたとはいえ、侯爵家には十分な数の使用人がいたので、もちろん彼女の世話をしてくれる者はいた。
けれども何日も、何日も、両親は弟の病室に閉じ籠り、看病の邪魔だ、という理由で彼女は食堂で家庭教師とふたり、別に食事を取らされた。そんな時の食事は、いつも砂を噛むようでひどく味気なかった。
ある初冬の夜もまた、エレナはひとりで食事を終えて、部屋へ戻ろうとしていた。その日は朝から天候が不安定で、夕方から降り出した雨に強風が加わり、廊下の窓をガタガタと揺らしていた。
照明を落とした廊下は暗く、手に持った燭台だけでは何とも心許なかった。隙間風でゆらゆらと揺れる炎に合わせて影が踊るのが、まるで闇に潜む何かが手招きしているようで、エレナはメイドの付き添いを断ったことを後悔した。
突如、白く冷たい光が目を焼いた。稲妻だ。
「いやあっ!」
思わずその場にしゃがみ込んで耳を塞いだ。その拍子に蝋燭の炎はあっさり消えてしまい、辺りは暗闇に包まれてしまった。
相当近くに落ちたのか、雷鳴は少女の抵抗などあざ笑うように、ビリビリと鼓膜を叩いた。
(や……っ、怖い……、助けて、お母さま、お父さま……)
廊下にある飾り棚の影に座り込んだエレナは、頭を抱えて震えることしかできなかった。あたりは真っ暗で、もう何も見えない。
どのくらいそうしていただろうか。何度目かの雷鳴を泣きじゃくりながらやり過ごしたとき、よく知る澄んだ声が降ってきた。
「エレナ? おい、大丈夫か?」
「…………クレメンス?」
おそるおそる顔を上げると、オイルランプを手にしたクレメンスが、心配そうにのぞき込んでいた。
「それとも、クレメンスそっくりさんのお化け?」
彼がこの時間に屋敷にいるはずがない、と思い直してエレナは聞き直した。
「誰がお化けだ。本物だよ」
ちょっと呆れたように笑うと、少年は続けた。
「父さんの往診に付いてきたんだ。雷になりそうで、エレナが怖がってるんじゃないかって思ったんだよ」
よく見ると、彼が羽織っている雨避けの外套も、きれいな顔を縁取る金髪もぐっしょりと濡れていて、時々雫を落としていた。医師と一緒に、この雨の中、馬で駆けつけてくれたのだろう。
「知ってたの?」
雷が怖いと彼に言ったことはないはずだ。
「この間マティアスが教えてくれたんだ。『姉さんは隠しているけど、実は雷が大の苦手なんだ』ってな」
差し出された手を取って、エレナはのろのろと立ち上がった。クレメンスの手は子供らしく細くて小さかったけれど、その温かさが今は何より頼もしかった。
「クレメンスは怖くないの?」
エレナが立ち上がっても、彼は手を離さなかった。
「別に。父さんも『落ちると怖いが、光と音自体は無害だ』って言ってたしな。この屋敷も避雷針が付いているから、何も怖いことはないさ」
少し背伸びした口調で答えるクレメンスの背丈は、自分の肩にも届かない。そんな小さな子になだめられている自分が情けなくなった。
「そう……、そうよね」
くい、と手が引かれた。
「ほら、部屋へ行こうぜ」
そう言うと、クレメンスはエレナの部屋に向かって歩き出した。
「……マティアス、良くなるといいな。南の樫の木の幹に、リスの巣穴を見つけたんだ。今度見せてやるって約束してるんだ」
廊下の先の闇をにらむようにして、クレメンスは祈るような声で言った。
「うん……。きっと良くなるよ。マティアス、強い子だもの」
エレナが繋いだ手にぎゅっと力を入れると、彼も握り返してくれた。
「ねえ、クレメンス、雨の中を馬で来て、冷えちゃったんじゃない? 先にお台所に寄って、ココアでも作ってもらわない?」
「それ、いいな。マシュマロある?」
気分を切り替えるようにエレナが提案すると、クレメンスはにやっと笑いながら応じてくれた。
その夜は厨房で、マシュマロをどっさり入れたココアを二人で飲んで、そして一緒の寝台で手を繋いで眠った。本当はやっちゃいけないことだったので、翌朝ヒルデ先生にこっぴどく叱られたけれど。
いつの間にか、怖い雷のことは忘れていた。
それからクレメンスは、エレナが落ち込んだり、怖がったりしている時にふらりとやってきては、彼女が泣き止むまで一緒にいてくれるようになった。
不思議と彼には、エレナが泣いている時が分かるようだった。
そうやって二人で過ごす時間は、マティアスと三人で遊ぶ時とはまた違う、穏やかで暖かで、少しくすぐったいものだった。
けれどそんな幸せな時期はいつまでも続くものではなくて、エレナが十七になり社交界に出ると、やがて否応なく別れの時がやってきた。
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