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木から木へと渡されたロープにはいくつものランタンが吊り下げられ、木立の中に作られた即興のダンスフロアを温かく照らしていた。
黒猫の仮面を被った楽師たちが、少し調子の外れた演奏をしている。とっくに流行遅れの、懐かしささえ感じるメロディに乗って、大人も子供も楽しそうにダンスしている。
「踊ろう」
差し出された手をエレナが取ると、クレメンスは迷う様子もなくフロアに先導し、あっさりと踊る人々の流れに乗った。
「慣れたものだな」
「あなたこそ」
社交が仕事のようなものだったので、どんなに歩きづらい靴を履いていても、ぐらつかずにステップを踏める自信がある。昔、ダンス教師の足を散々踏んだことを思うと成長したものだ。
意外だったのは、クレメンスが随分と場慣れしていたことだ。彼が踊れることは知っていたけれど、これほど上手になっているとは思わなかった。
「魔術師も舞踏会で社交したりするのかしら?」
彼はあまり愛想の良い方ではないから、何となく、人付き合いは最低限しかしないのではと思っていた。
「まあ、立場上必要なこともあるしな。……おい、何か失礼なことを考えているだろう」
「あら、気のせいよ。魔術師の集まる夜会だなんて、綺麗な人ばかりできっと目の保養よね、って思っただけよ」
「ぜったい違うだろう……」
ふふふ、とエレナは笑ってごまかした。
クレメンスが社交界を笑顔で泳ぎ渡るところは想像しづらかったけれど、舞踏会のために盛装をした彼は見てみたかった。
(ううん、ちがうわ。『隣に立ちたかった』よねーーーー)
思えばエレナがダンス教師以外の男性と踊ったのは、クレメンスが最初だった。
あれは彼女が社交界に出る前の年、珍しく侯爵家で夜会が開かれた時のことだった。
家に遊びにきていたクレメンスを誘い出して、こっそりと庭から夜会の様子をのぞきに行った。マティアスも誘ったのだけれど、読んでいる本がちょうど良いところだからと断られた。
テラスには招待客の姿がぽつぽつとあったが、さすがにエレナたちがいる庭まで下りてくる者はいなかった。
薔薇の生垣に囲まれた一画で、ふとエレナは悪戯心に駆られた。
「素敵なお方、私と踊っていただけますか?」
いつもなら男性がするようなお辞儀をして、エレナはクレメンスに手を差し出した。
「おいエレナ、逆だろ……」
面食らったクレメンスの顔が面白くて、エレナはくすくすと笑った。
「ったく、俺のセリフを取るなよ……」
ぶつぶつ文句を言っていたクレメンスは、それでもすっと表情を整えると、彼女の手を取った。
「お前の誘いを俺が断ると思うか?」
「まあクレメンス、あなたも言うわね」
おどけたふりをして、エレナは突然感じた動悸を誤魔化した。真顔になった彼の整った顔が、急に知らない男性のもののように見えたからだ。
どきどきと心臓がうるさくて、顔が熱い。ここが暗がりで良かったと心から思った。
その時、会場から流れてきたのは、初心者でも踊りやすい、ゆっくりとしたワルツだった。
エレナの腰に腕を回したクレメンスは、危なげなくステップを踏み出した。ダンス教師にくらべるとまだ少しぎこちないが、ちゃんとリードもしてくれる。
「なあエレナ」
「なあに、クレメンス?」
名を呼ばれて見上げると、彼は藍色の瞳をうれしそうに細めた。
「お前のファーストダンスの相手は俺なんだな」
きゅっ、と重ねた手に力を入れられて、その手が彼女のものを包み込むほどに大きくなっていることに気付かされた。
十才頃までは、女の子に間違われるくらいに可愛らしかったクレメンスだが、その頃にはもう性別を間違える者はいなかった。背丈はもう追い越されたし、声変わりも始まっていて、声が少しかすれていた。
「うん、そうね……」
来年、エレナは社交界に出ることが決まっていた。そうしたら誰かと正式なファーストダンスを踊ることになるが、その相手にクレメンスが選ばれることはないと理解していた。彼は平民だし、五歳年下の彼が適齢期になる頃には、きっと自分はどこか知らない家に嫁いでいる。
胸に感じる鈍い痛みには気づかないふりをして、エレナは彼の胸元に顔を寄せた。
クレメンスの腕に力がこもったが、それから彼が何かを言うことはなかった。
あの夜は、むせかえるほどに夏薔薇の香りが強かったけれど、今夜はひんやりとした空気に落ち葉の香りが混ざる。
一曲目が終わり、次の曲の前奏が始まっても、クレメンスはエレナの手を離さなかった。
このまま踊り続けるのだろう。
四曲続けて踊りたい、とねだったのはエレナだけれど、やはり面はゆい。
社交界では、三曲続けて踊った相手は『特別な相手』、つまり恋人や婚約者とみなされる。だから生前のエレナも、婚約が整った翌週の舞踏会で、夫となる男性と三曲目のダンスを共にした。
二曲目が終わっても二人がダンスフロアに留まったとき、周囲をいくつもの囁き声が走った。またひと組、没落貴族の娘と成り上がり者の縁組が成立した、とつまらなさ気に言われただけのことだけれど。
「ねえ、あなたのことを教えて。今夜はどうしてお出かけしていたの?」
何か余計なことを口走ってしまう前に、と話を振ってみることにした。
彼に酔っている様子は微塵もないけれど、先ほど路地裏で声をかけたときは、酒場から出てきたところだった。
「ああ、それか。……弔い酒を飲んでいたんだ」
「大切な方?」
「ああ」
彼が黒一色の装いなのは、その人の喪に服しているからだろうか。
「それは寂しいわね。……でも、あなたのような人に偲んでもらえるなんて、その方は幸せ者ね」
「どうだろうな」
藍色の瞳と目が合うと、クレメンスは小さく笑った。
「どんな方だったの?」
「そうだな……。可笑しいやつだった。底抜けのお人よしでぼやぼやしていて、一緒にいると調子が狂うのに、離れがたくてなーーーー」
エレナに視線を当てたまま、クレメンスは言葉を続けた。
「妙に自己評価が低くて、自分が幸せになるのをはなから諦めているような女だった。そのくせ思い切りが良くて、余計な行動力があるせいで、…………俺の手からすり抜けてしまった」
ぐっと眉間を寄せて、最後はささやきのような声でクレメンスは絞り出した。
悪口のような言葉なのに、心をそっと愛撫されたような心地がした。
自分を見ながら言わないでほしい。言い終わった後も、クレメンスは目をそらしてくれなかったので、まるで彼が自分のために泣いてくれているような心地になる。
「…………それは、きっとその方がいけないのよ。あなたの手を取らなかったんだから。だから、自分を責めちゃだめよ」
そう。きっとそうだ。彼みたいな人が、心に決めた人をみすみす取り逃がすはずがないから。
(きっと、その方も自分の心と向き合うことから逃げたのよ)
自分のようにーーーー
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