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コツコツと、少し濡れた石畳に靴音が響く。朝から降っていた霧雨は止み、今は水の匂いだけがひんやりとした空気に残っている。
酒場を出たクレメンスは、表通りの賑わいを避けて裏路地を進んだ。
エレナが死んだ。
彼女の夫となった男は、実業家として社交界でも名が知られていた。だから彼女が夏頃から体調を崩して寝ついていたことは聞いていた。
けれどもまさか、そのまま儚くなるとは思わなかった。
朝方届けられた訃報は、もうとうの昔に忘れたと信じていた痛みを揺り起こして、クレメンスの胸を深くえぐった。
エレナとは、父の仕事を通して出会った。
クレメンスの父は医師で、彼女の実家の侯爵家のかかりつけ医を務めていた。エレナには五歳下の弟がいたが、外出もままならないくらい体の弱い子だった。そのためクレメンスの父は、毎週のように侯爵家に往診していた。
「お前と同い年の坊ちゃんの話し相手をしないか?」
八歳の時、そう父に持ちかけられた。正直、甘やかされた貴族のお坊っちゃまなんて、我儘でひ弱そうで面倒だとクレメンスは渋ったが、一度だけでもいいからと諭されて侯爵家を訪れた。
その屋敷は、クレメンスがそれまでに見たどんな建物よりも大きく立派で、しんと静まり返っていた。
彼の背丈の二倍はありそうな正面玄関の扉も、長い長い廊下も、優美な彫刻やレリーフで彩られていたが、長い間陽の光に当たって焼けたように色が薄れてひび割れて、うっすらと埃を被っていた。
「ごきげんよう。あなたがクレメンスね。マティアスのために来てくださってありがとう」
侯爵令息の病室に入ったクレメンスと父を、ほんわりとした少女の声が迎えた。
カーテンも窓も開け放たれた部屋は、想像の数倍も明るかった。その窓の前に、ほっそりとした立ち姿の少女がいた。ちょうど差し込んできた日差しを背にしていたので、彼女の顔をクレメンスははじめ見ることが出来なかった。
「エレナお嬢様、今日もお庭の花を届けにいらしたのですか?」
「そうよ。それにね、アプリコットが食べ頃だったから、もいできたの。先生の分もちゃんとあるのよ」
得意げに告げて歩み寄ってきたのは、艶やかな栗色の髪を長いお下げにした、十二、三歳ほどの少女だった。やや色あせた茜色のエプロンドレスの上に、ぱりっと糊の効いた白いエプロンを着けている。
令嬢らしく口調もしぐさも優美なのに、エプロンの大きなポケットが橙色のアプリコットではち切れそうになっているのが可笑しい。
「おや、また木登りなさったのですな。家庭教師の先生に叱られても知りませんよ」
「大丈夫よ、ヒルデ先生はお昼寝中だもの」
ちらりと薄紅色の舌を出した後、エレナは子鹿のような黒目がちな目を細めて笑った。すると、うっすらとそばかすが散った頬に長いまつ毛が影を落とした。
(きれいというより、かわいい子だな……)
自分よりだいぶ年上のはずの侯爵令嬢に、不謹慎な感想を抱いたのはその時だった。
その後対面したマティアスとクレメンスは、思いの外気が合い、二人は親友として何年も付き合うことになる。
体を動かす遊びができるほどマティアスの体調が良い時は少なかったが、そんな時は大体エレナも一緒だった。彼女はおっとりとした物腰とは裏腹にかなりのお転婆で、木登りも魚釣りもアイススケートもお手のもので、クレメンスとマティアスがいくら頑張っても歯が立たなかった。
(思えばいつも、彼女の背を追いかけていたな)
成人するまでエレナは、長い髪をいつもお下げにしていて、彼女が駆けまわるたびに背中で跳ねるそれを、何度も手を伸ばして引っ張っては怒られたものだ。
あの絹のような手触りは、今でも指先に残っている。
(あの頃はあんなに元気だったのに、何てあっけない)
肺病で亡くなったとのことだが、嫁いでから体を壊すことが増えたと聞いている。難しい立場に置かれて、心労が絶えなかったからだろうか。
(もし、俺だったらーーーー、いや、やめよう)
頭を振って不毛な考えを追い払う。
もう帰らぬ人となった者にすがっても、ただただ虚しいだけだ。
(せめて、好きだった花を送ろう)
一重咲きの、薄紅色の秋薔薇を好きで、毎年咲くのを楽しみにしていた。屋敷の庭に乱れ咲くそれを、花束にして贈ったら懐かしいと喜ぶだろうか。
控えめな花は姿も愛らしいが、何より香りが素晴らしい。
一見、平凡なのに、一度触れたら離れがたくなるところが、彼女と似ていた。
「……?」
花のことを考えていたからか、ふと懐かしい香りを感じた気がして、クレメンスは振り返った。
人通りのない裏路地を歩いていたのは、自分だけのはずだった。
けれどそこには、ひとりの女性がひっそりと佇んでいた。
目元を藍色のレースの仮面で覆っているため、顔つきや年齢ははっきりしない。けれどもその薔薇色めいた髪色は、男がよく知るものでーーーー
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