第捌話 銃後の影
エリシャスと名乗る不気味な少女はルカに対して非常に友好的であった。古びたガゼボのもとで、洒落たティーテーブルを囲み腰掛け。不思議な味わいの紅茶を嗜み、見たことの無い色味のマカロンに舌鼓を打つ。
現実味の無い少女との優雅な交流に、ルカの警戒心はすっかり消え失せていた。いつの間にかエリシャスの顔は直視しても鮮明に映るようになっていて、その美貌がよく見える。
サラリと腰ほどまで落ちて、今にも輝き出しそうな金髪。整った金色のまつ毛に、琥珀色の瞳。端正な顔立ちと黄金の色彩は真っ白なワンピースによく似合う。
「まっ、世間話はこのくらいにしてさ。ちょこっと真面目な話でもしようか」
「真面目な話?」
「そっ。君の首枷について、知っていることを教えてあげようと思ってね」
エリシャスはそっとルカの首に指を這わせる。ルカはその所作にドキッとしてしまう。いくら目の前の少女が得体の知れない存在であろうことは分かっても、美少女なことに変わりはない。
「そんな気張らなくてもいいだろー?」
エリシャスは大袈裟に肩をすくめて手を引っ込める。
「すみません、こういうのあんまり慣れてなくて」
「初心なんだな、君は」
「そ、それより! 首枷のことについて教えてください!!」
ニマニマと笑顔を浮かべてからかってくるものだから、ルカはつい大声で叫んでしまう。
「分かった分かった。そう怒るなよ」
未だに薄ら笑いを張り付けたままの顔でなんとも気分が悪い。
「んでその首枷だけど、着けたのはエカテリーナだよ」
「エカテリーナって確か......」
「覚えてるかな? 君が死にかけた後最初に出会った美人さん~」
そう言うとエリシャスの隣にエカテリーナが現れる。一瞬驚いたが、すぐに木偶人形だと分かって少しホッとする。
「凄いでしょこれ。内臓とか、体温とか......質感までしっかり再現されてるんだよ」
「は、はぁ......」
エリシャスはエカテリーナ人形の後ろに回り、ちょっと気持ち悪い手つきで触っていく。酔っぱらった変態のようで少し引いてしまう。
というか、そこまで精巧に作る必要はあったのだろうか。
「おっ、意外と胸でk──」
「ともかく! な、なんでエカテリーナさんは僕に首枷を付けたんですか!!」
「なんだよ、君も触っていいんだよ?」
「なっ?! さ、触りませんから!!」
エリシャスは不服そうな顔を浮かべつつも、エカテリーナ人形を消し去る。
「君には性欲がないのか?」
「そんなこといま関係ないでしょ......」
ルカにだって性欲が無いわけではない。しかし、それ以上に初心過ぎるのも原因だ。
ルカは呆れながら口を開く。
「それよりコレですよ、この首枷。教えてくれるって言ったのはそっちでしょ」
「んー? 私はそこまで教えるなんて言ってないよー」
「......え?」
豆鉄砲を食らった鳩のような顔になるルカを見て、エリシャスは裂けそうなほどに歪んだ笑顔を浮かべる。
「いやー、良い顔をするじゃあないかまったく!」
「は......え? は??」
「今日のお話はここまで。また話したくなったら、これを握って死人のように眠るといい」
そう言ってルカの手に握らされたのは琥珀色の宝石。酷くくすんでおり、宝石というよりただの石ころにも見える。
「それじゃあまた会う日までー」
ルカが何かを言う前に、エリシャスの居る空間が遠ざかっていく。まるで世界から弾き出されたような。或いは空間そのものが霧の中へと吸い込まれているのか。
なんとも形容し難き体験の最中で、ルカは意識を手放した。
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「──っていうことがあって......」
ルカは医務室のベッドに腰掛け、白衣を身に纏ったイヴァンナに夢の内容を語っていた。あの出来事を夢として片付けるのは少し違う気もする。しかし、夢の他に適切な物言いが無いのも事実だ。
「一応聞くが、薬とかはやってないんだよな?」
イヴァンナは目を眇めて問う。
「や、やってないですよ!! そもそもそんなお金も時間も無いですし!!」
「ふむ、時間と金があればやるのか」
「しませんから!!」
冗談だ、とイヴァンナは適当に受け流す。
「しかし、その話を信じるなら君に首枷を着けたのはエカテリーナということになるわけか」
「エリシャスはそう言ってましたね......」
イヴァンナは腕を組み、椅子に深く腰掛ける。威圧感のある鋭い瞳はただ一点を見つめて動かない。
「エリシャスの容姿に関しては覚えてないんだよな?」
「はい、全く......少女だったことは覚えてるんですけど......」
夢としか思えないエリシャスとの邂逅。その記憶の一部が、綺麗にルカの頭から抜け落ちていた。
「そうか......また何か思い出したら教えてくれ」
「分かりました」
少し不安げな表情を見せるルカをよそに、イヴァンナは医務室を後にする。仮にもイヴァンナは軍医であり、ルカのメンタルケアも任務の範疇ではある。
だが、今はそれ以上に重要な仕事がある。
自室へと戻ると、白衣をクローゼットに仕舞う。トレンチコートを羽織り、一度医務室へと戻る。
「少し出掛けてくるが、何か欲しいモノはあるか?」
「へ? 出掛けるって、大丈夫なんですか?」
「どうせ守衛も居ないんだ。構わんだろ」
守衛も居ない廃墟紛いの本拠基地に規律などあってないようなものだ。
「......いえ、僕は大丈夫です」
「そうか」
適当に果物でも買ってきてやるか。そう思いながらイヴァンナは正面玄関から出る。
風で飛ばされでもしたのだろうか。広々とした庭園を埋めていた落ち葉は少なく、所々に石造りの道が姿を表している。
陽は傾き、空は朱く染まり始めている。僅かに湿った風が吹き付け、イヴァンナの頬を冷ややかに撫でる。
「ったく、寒すぎる。まだ九月の初めだぞ」
白い息を吐きながら呟く。この洋館はいくらモスクワにほど近いとはいえ、徒歩で行けるような距離ではない。
「駐車場も無いと不便なものだな」
イヴァンナは本館の左に位置するボロい馬小屋へと向かう。その中に置いておいたバイクを引っ張り出す。朽ちかけて木屑と埃やらが混じった粉塵が舞い、気道を刺激する。
「ゲホッ、ケホッ!!」
軽く点検を済ませ、ため息をつきながらバイクを押す。フェンスゲートを抜けて、ロクに整備のされていない山道へと移る。ヘルメットを被り、エンジンを吹かす。
そして冷たい風が身体を叩いて三十分。
モスクワ市内にイヴァンナの姿があった。
いまやモスクワは市の外れまでも避難民の姿が見える。暫く見ないうちに酷く落ちぶれたものだ。
この辺りに群がる露店へと近付くにつれて、避難民の数も多くなる。露店が集客を兼ねて垂れ流しているTV目当てなのだろう。
他にも金に余裕がある者は、国連の発行する国際新聞を購入している。ロシア国内ではまだTV放送の枠が少なく、冗長な放送に飽きる者も多いのだろう。それに加えてロシア国内のTV放送や報道は情報統制が徹底されており、広い知見を求める者は国際新聞を求める。
少し嫌な臭いのする露店を横切り、目的のカフェに到着する。
「いらっしゃいませー」
「二人だ。もう一人は後から来る」
空いている席に腰を下ろし、適当にコーヒーを頼む。あとは店内のTVにでも耳を傾けつつ、相手が来るのを待つだけだが──。
『──ロシア政府は来月より戦時死亡通告特例措置法を施行することを発表。これにより、階級が尉官以下の兵士の戦死通告は特例を除き手紙になるとのことです』
──ニュースを聞く限り、ロシアもかなり追い詰められている様子だ。
そうして運ばれてきたコーヒーを啜りながら待っていると、見慣れた人影が近付いてくる。
「やっ、早いね!」
「そっちが遅いだけだろ」
待合時間からは十分も遅れている。だというのにこの女は何も気にしていない様子で正面に腰掛ける。
コイツも私と同じ工作員だ。
「あ、コーヒー一口ちょうだい!」
「ダメだ。自分で頼め」
「えー! けち!!」
そんなことを言って女は頬を膨らませつつ、店員を呼んでイヴァンナのものと同じコーヒーを頼む。この友達という設定の女はコーヒーにミルクと砂糖をドバドバと入れやがる。
ブラック派のイヴァンナとは相容れない存在だ。
「それで、イヴァンナは最近どう? 上手く行ってる?」
「まぁ上々ってところだな」
「彼氏とかできた?」
「私みたいな女に出来るわけないだろ。分かってて言ってるのか?」
そんなことすら出汁に演じる交友と、ごく自然な嘘塗れの会話。
「ちぇ、釣れないなぁ」
「そう言うお前はどうなんだ?」
「わたし? ふっふっふっ、聞いて驚くことなかれ」
「出来たんだな」
それ私のセリフなどと喚く女をよそに、イヴァンナはひっそりと周囲に目を配る。連邦保安庁の気配が無いことを確認し、正面の女にアイコンタクトを送る。
「あっ、そういや今日の国際新聞読んだ?」
「読んでないな」
「いる?」
カバンから国連広報センターと国連の意匠が施されたビニール袋を取り出す。立ち読み防止用か、視認性の悪いビニール越しに国際新聞の文字が見える。
「......貰っておこう」
どうせこの女は要らないと言っても押し付けてくる。まぁ、暖を取る為の火種くらいにはなるだろう。
そういった塩梅の間を開けて受け取る。
イヴァンナのような工作員と中央情報局間の報連相は基本的にこの女を通してになる。古典的で時間も食うが、通信を傍受されて全てがパーになるよりかはマシだ。
新聞に軽く目を通し、暗号を解読して情報を頭に入れる。
CIAからの指示は特にない。
少し気になったことと言えば、ルカの祖父母が引っ越す予定だということくらい。そうとなれば、あとは今日仕入れたばかりの情報をCIAに送るだけだ。
エカテリーナの所属する会社は最初にルカを引き取った時点で把握している。
「話は変わるが、最近できた新しい製薬会社知ってるか?」
「えーっと、確かルーノ製薬ってやつだっけ?」
「そうだ。それで、その会社について最近同僚から変な噂を聞いてな──」
製薬会社に纏わる変な噂。実際はそんなものはなく、イヴァンナがでっち上げたカバーストーリーだ。内容は良くある怪談噺の類い。
同僚はルカのことだ。些細な仕草、アイコンタクトなどの所作から情報の違いを生む。長年諜報員として働いてきたイヴァンナが培った能力の一つだ。
ルカから聞いた情報と、その情報の信頼性が低いことを合わせて伝える。普通なら調べはするものの真に受けないような情報だ。だが、今の時代神やこの世ならざる存在がいることは明確。
恐らくCIAも動くだろう。
そうして小一時間たっぷり話し込んで店を出る。
「いやー今日はありがとうね! こんな時間まで付き合ってもらちゃって!!」
「私だって人と話してないと多少は寂しいからな。まぁ、また機会があれば」
手を振り、名残惜しい様子で女は去っていく。さっきまでの言動も何も、全てが偽り。多少真実も混じってはいるだろうが、上手く嘘と混ぜて偽の自分を演じる。
スパイとは孤独なものだ。
少しだけ、そういう風な感傷に浸ってしまう。
「──どういうことですか!!」
突然、若い女の怒号が街中に響いた。周りの者は驚き振り返るも、一目見ると何を察したのか。呆れか同情かが混じった顔をして目を逸らす。
イヴァンナは軽く耳を傾ける。
「彼が死んだって! 嘘でしょ! 嘘なんでしょ!! 質の悪いドッキリはやめてよ!?」
その言葉についイヴァンナも振り返る。見れば女の子と呼べるほど小柄な女が、軍制服を着た男二人に泣きついていた。
「嘘ではありません。彼は勇敢に戦い、祖国の為に尽くしてくれました」
男が言う。酷く淡々と、ただ事実を伝えている。
慣れてしまったのだろう。
何度も、毎日毎日同じようなことを言われるから。
だが、こんな光景も来月からは見られなくなる。良いことなのか悪いことなのかは分からないが、イヴァンナに関係の無いことだ。多少は同情こそすれど必要でなければ関わることは無い。
洋梨を三つほど露店で買い、バイクに跨る。
ルーノ製薬とエカテリーナに関する情報がCIAに伝われば、また何かしら動きがあるだろう。
それまでは、今まで通り国内の新聞やニュースに目を通しての情報収集だ。