第伍拾話 恐怖の静穏
──西暦二〇〇二年 一〇月三一日──
艦隊の整備と補給を終えた護衛艦隊及び米第五、第七艦隊はインド陸軍の工兵隊を揚陸艦へと乗船させ、ムンバイを出港した。
艦隊は敵潜水艦と航空隊からの攻撃を避ける為、ムンバイを出港した後に南下を開始。モルディブ諸島西方の海域に進路を取った。
艦隊陣容は現代型戦艦六隻、原子力空母三隻、巡洋艦六隻、以下補助艦艇多数。開戦当初より攻防を続けている大西洋方面ですら滅多にお目に掛かれない大艦隊である。
「少々長旅になりますね」
「なに、日本からインドまでの道のりよりかは短いよ」
高野大佐は艦橋を照らす日差しに目を細め、晴れやかな空を見上げる。空は晴天。波は穏やか。これから決戦が起こるであろう地に向かう初日にしては、不気味なほど静かな海だ。
荒れた天気の最中を進むのも不快ではあるが、嵐の前の静けさを感じてしまう。
「せめて、マダガスカル島に着くまでは何も起きなければいいんだけど......」
「モルディブ近海からが大変ですね。インド近海までは制海権が取れていますし、インド本国の米空軍も対応可能な距離ですが、モルディブから先はセーシェル島の哨戒基地しかありませんから」
ムンバイからマダガスカル島まで、直線距離にしておおよそ四二〇〇キロ。ネヴィルの能力で補給の心配こそ必要ないものの、最速かつ直線での艦隊巡航でも一週間程度掛かる。
加えて敵の頻出海域を避けて遠回りするのだから、敵艦隊との交戦に時間を取られてはアンツィラナナ港の基地化はおろか、決戦に備える猶予も無くなるだろう。
しかし、ネヴィルによる航空機などとの共鳴は機関に甚大な負荷を掛ける。現代型戦艦や原子力空母などであれば耐えうるだろうが、巡洋艦以下補助艦艇の機関には厳しい負荷だ。
接敵が予想される場合、迅速に決断し、かつ徹底的に叩く必要がある。
「レーダーに反応は?」
「まだありません。目視距離にも敵影見られず、ソナーも感なし。至って正常です」
「そうか......全く、ああもレーダーを掻い潜られては神経質になってしまうな」
「無理もありません......コーヒーでも入れますか?」
副官の提案に、高野大佐は微笑みながら返す。
「そうだな、入れてもらおう......それに、出港直後だ。敵もこんな深部までは来ないだろうし、少し仮眠を取るよ」
「では艦長室まで直接運ばせていただきます」
「あぁ、助かる」
指揮権を一時的に副官へと移譲し、高野大佐は艦橋を後にした。
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仮眠というものは、実は横になってはいけないのである。柔らかいソファに横になってしまっては、脳がもう寝ても良いのだとシャットダウンしてしまう。
よって、外洋を航行中での仮眠は椅子に座り、帽子を深く被り、深く腰掛け、背もたれに体重を掛けて目を瞑るのみである。
鼠色一色の艦橋と違い、艦長室の内壁は暗めのクリーム色で塗装されている。如何にも高級そうな木製の椅子、机、本棚は室内に彩りと温かみを産み、凝り固まった緊張をほぐしてくれる。
この場に限り、僅かに鼓膜へと伝ってくる、船体に打ち付ける波の音色も心地よい。
ふと目を覚まし、目覚ましにコーヒーを飲もうとマグカップを手に取る。
「......空か」
なみなみと注がれていたブラックコーヒーは、マグカップの底に黒く淀んで溜まるのみ。
まるでどこまでも暗い深海の底。渦を巻いたような黒い沈殿物は、得体の知れぬ不気味さを感じさせる。
まだ疲れが取れていないのだろうか。
「そういえば、仮眠を取る前に飲み干していたな......」
空っぽのコップを眺めて数十秒。ひとまず帽子を被り直し、丁寧に軍服を整える。
時計に目を移すと、最後に見た時から約一時間程経っている。流石に疲れも多少は取れただろうと、高野大佐は艦橋へと向かった。
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『艦長、艦橋に上がる』
艦長が指揮を執ることを示すアナウンスがルカの自室にまで響く。
自室とはいえ、士官や軍規違反者収容の為の小さく、無骨な部屋だ。これといった私物などはネヴィルと違って何もない。若干物悲しいが、ロシアとは違い日本人は話しかけても嫌な顔をしないでくれるし、普通に話してくれる。
なぜロシアであれだけ忌み嫌われていたのかは分からない。ロシアに帰ったらサーリヤに直接聞いてみることにしよう。
「ルカ軍曹、今よろしいですか?」
「え? 大丈夫ですけど......何かあったんですか?」
することもないしと、返事と同時に扉を開ける。
そういえば、あの裂傷はどうなっただろうかとネヴィルの顔を見上げる。見ると、ネヴィルの顔の左半分に浅く傷痕は残りつつ裂傷自体は完治しているようだ。
生々しい傷痕を見るとかなり罪悪感が湧いてくる。仕方なしとはいえ、耳元まで続く傷痕は実に痛々しい。
内心が顔にでも出ていたのか、ネヴィルは傷痕を手で触れつつ口を開く。
「そんな顔をせずとも、心配はいりません。傷自体は完治していますし、この傷痕も通常の人間の身体と違ってあと五日もすれば消えますから」
「なら......いいんですけど......」
「乙女の顔に傷を付けた、などという不名誉にはなりませんよ」
いつもより気持ち柔らかい表情を見せ、ネヴィルは続ける。
「......こんな独房のような部屋で話すのも嫌でしょう。甲板に上がりませんか? 日に一度くらいは風に当たるのも悪くはありませんよ」
「そうですね......じゃあ、甲板で」
それにしても、今日のネヴィルは珍しく険しいオーラを纏っていない。表情こそ変わらないが、今まで対面していて感じていた警戒心のようなものが心なしか薄らいだように感じる。
ソコトラ島沖海戦からこれまでのサメ狩りで、ある程度信頼を寄せてくれているように思える。
「赤道直下。陽の光は強いですが、海風は涼しいでしょう?」
「......確かに、意外と風吹いてるんですね」
「これだけのサイズですから実感も湧かないでしょうが、現在速力二〇ノット。時速換算で三七キロ。フルオープンカーで走行しているようなものです」
海はどこまでも続いている。空の消える、水平線の更に向こうまで。周りには島も何も無く、真っ青な海面しか見えない。
比較対象が無いと、こうも速度感覚を失ってしまうものなのか。
「それで、レヴィアタンについての話ですが......」
「え? あっ、はい! どうぞ!!」
ボーっと海を眺めていたせいで変な応対をしてしまった。
「まず第一に。レヴィアタンは淫魔を喰らったものと思われます」
「淫魔?」
「淫乱なる魔獣。いわゆるサキュバスです。人間の言うところの地獄に生息し、悪魔に属する魔獣です」
「魔獣? 人型ではないんですか?」
神話や宗教に疎いルカでもある程度の共通認識はある。ルカの中では、サキュバスというのは人間の女性の形をしていて、男性の生気を奪う悪魔。
だが、どうやら彼女らの中の共通認識とはどこか異なるようだ。
「上位種であれば人型も存在します。ですが、基本的には獣です。上位種の中でも高度な知能を持つ者は限られます」
「結構違うんですね......」
「あなた方の認識は宗教の権力が強かった時代の名残でしょう。淫魔の本質は単なる獣です。別に男性の生気を喰らうこともしませんし、魅了が通用する相手なら神であろうと捕食します」
神すら喰らう獣。これまた、トンデモない要素が湧いて出たなとルカは目を見開く。
「さて、話が逸れましたが......レヴィアタンはその中でも上位種を喰らった可能性があります。上位種とは言っても、あの力加減では上位種の中でも底辺の淫魔でしょうが」
「意識はハッキリしていましたもんね」
「えぇ。完全な神格存在であればそもそも魅了などされない程度の強度です。ですが、私たちは半神半人。以前は一瞬の隙を突かれたのみでしたが、時間を掛けて魅了を掛けられては危ういでしょうね」
三人の戦女神のうち、一人でも敵方に回ってしまっては大変だ。
それは支援特化の能力を持つネヴィルであっても同様で、この大艦隊をムンバイからマダガスカル島まで。弾薬、砲身の焼け付き、燃料に食糧などを気にすることなく無補給航行できるのはひとえにネヴィルただ一人のおかげである。
ネヴィルのような要が無くとも、完全な無補給での作戦行動が行える異生物群の海洋種群と同等に渡り合うには必要不可欠だ。
「一瞬の隙を突いた魅了で身体の制御権を奪えるなら、もうどうしようもなく無いですか?」
「いえ、そんなことはないかと。レヴィアタンが魅了を始める前に、淫紋の刻まれている片目を切り裂けば良いだけのことです。ルカ軍曹が私にしたように」
「............」
「あぁ、それと一応咽頭......喉も搔っ切ってしまいましょうか。どうせ声にも魅了を乗せることは出来るでしょうし」
なんというか、やけに物騒である。
「............もしかしてですけど、怒ってたりしますか?」
「まぁ、そんなところです。思い出したら腹が立ってきたので、つい......意外ですか?」
「え? まぁ、そりゃあ......いつも表情を崩さないですし......」
「ブラフマーほどではありませんが、私もそれなりに人らしい感性を持っているつもりですので。痛かったんですよ、これ」
とネヴィルは顔の傷痕をなぞる。
「ルカ軍曹を責めているように言ってしまいましたが、ルカ軍曹を責めるつもりはありません。ご安心ください」
「そう......ですか?」
「えぇ。それより、私は私が秩序を守る為に創った最強の海獣が、秩序を破壊する側に回ることが断じて赦せません。そして、それを放逐しているも同然な現状も同様です」
珍しく、ネヴィルの表情が目に見えて険しくなる。
「秩序を守り維持する者として、アヴァターラとして。自ら産み出したモノの後始末は私の役目です............私は......彼女達とは違うのです」
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──西暦二〇〇二年 一一月一〇日──
艦隊は道中一切の敵に遭遇することなくマダガスカル島北端、アンツィラナナ港へと到着した。
インド陸軍工兵隊の揚陸も終わり、アンツィラナナ港の軍港化が進む中。各艦の水兵達は安堵と共に、一抹の恐怖を感じていた。
それは何故か。南シナ海、ベンガル湾、ペルシャ湾の全ての海域で、これほどまでに静かな航海は無かったからだ。
シーレーンに対する通商破壊も無ければ、小規模編隊による威力偵察の一つも無い。現在のインド洋は静かすぎるのだ。それこそ恐怖の感情を抱いてしまう程に。
敵は戦力を徹底的に温存し、来る決戦に備えている。
敵の全身全霊が、全力が、かつてない規模の数の暴力が。死への恐怖を知ることの無い巨大な死神の鎌の切っ先が、マダガスカル島とそこに居座る日米艦隊の首に差し向けられている。
あゝ、神よ。
我らを救い給へ。




